第10話 本物、偽物
土曜日。学校が休みとなると、蒼桔にはやることがない。日課の白鷺観察もできず、昼近くまで寝て部屋でゴロゴロとするのが日常だった。しかし同じ部屋に佳奈がいるとなると、そうも言っていられない。
昼食を食べ終えたあと。壁によりかかりながら座って、何をしようか考えていると、佳奈も同じように隣に座り込む。少しは見慣れてきてはいるものの、スカートを抑えながら座っている彼女の姿を見ると、どうにも足に目が行きがちだ。なるべく見ないように、部屋の窓へと視線を向ける。
「今日はどうしよっか」
「どうするってもなぁ……」
「休みの日だと、生きてる私とも会えないしね」
「……そもそもどうやって記憶を取り戻すかなんだよなぁ。この前やってた映画みたいに、思い出の場所に行ってみるとか?」
蒼桔が観た映画では、記憶を失った妻との思い出の場所をひとつずつ巡っていって、徐々に記憶を取り戻していくという内容だった。それと同じように、本人をその場所に連れていけば何かしら記憶が戻るんじゃないか。手当たり次第だが、やる価値はあるだろうと思っていた。
「思い出の場所って?」
「そりゃ……」
首を傾げて聞いてくる佳奈に答えようとして、けれども言葉が出なくなってしまった。思い出の場所と一概に言っても、何も出てこない。忘れているだけかもしれないが、別段そんな特別な思い出がある訳でもなかった。
「佳奈は、なんかないのか。ここ行ったら何か思い出せるんじゃないかーって場所」
「んー……思いつかない、かなぁ」
「彼氏との思い出の場所なのに?」
「彼女との思い出の場所を言えないくせに?」
「だって俺ら遊園地すら二人で行ったことないだろ。子ども会で行ったくらいじゃねぇか」
地域の子どもが集まって遊園地や水族館に行くイベントのようなもの。当時小さかった三人で参加して、親同伴で見て回ったくらいしか記憶がない。そもそも中学生では遠出ができないのだ。
何か特別なことをした記憶もない。誕生日にサプライズをしたこともない。至って普通に、手を繋いで帰ったり、一緒に遊んだりしただけだ。所謂、健全なお付き合いとしか言えない。
「それでも、なんかあるでしょ。特別な場所!」
「特別……特別ねぇ……」
子どもの頃から、中学時代までの記憶を遡る。普段から風見も入れた三人で遊んでいて、小学校では当時の友人たちと混ざって遊んで、中学校ではカラオケに行くことが多かった。特別なことをした記憶はない。
必死になって記憶を掘り起こして……思いついたのは、二つ。そのうちの一つはやはり恋人同士の定番、告白された瞬間だろう。あの時はそんなこと微塵も考えておらず、むしろ告白された瞬間に意識したと言ってもいい。そして自分の胸の鼓動に任せ、返事をした。
男は自分を好きでいてくれる女が好き、だなんて聞いたことがある。けれど、きっと告白を許諾したのは、好きでいてくれたからじゃない。好きだったことを気づけなかった自分に、気づかせてくれたからだ。今ではそう考えている。
「それなら、あそこはどうだ。お前が告白してきた場所」
「えっ……と、どの辺だったっけ……?」
「お前なぁ、それ忘れるのかよ。ほら、アレだ。あの……テニスコートの裏手のさ」
「あっ、そういえばそうだった。あの林の道の中だよね」
「……そうだ、ふれあい公園だ。別の道から帰ろうってお前が誘ってきたんだよ」
朧気だった記憶からようやく場所と名前を思い出した。佳奈も完全に思い出したようで「そうだよ、思い出した!」と言う。お互いの大事な記憶のはずなのに、しかも両方とも忘れてしまっていたことに思わず二人で笑い合う。似たもの同士だね、と。
「まぁともかく、そこにあの佳奈を連れていければいいけど……なかなか難しいだろうなぁ」
「……ねぇ、行ってみない?」
「お前が行っても意味ないんじゃね」
「意味はあるよ。お散歩デート、とか」
お散歩デートって、何を呑気な……。そう言おうとしたが、それよりも早く彼女は立ち上がる。そして振り向きながら「行こ! せっかく思い出したんだから、もう忘れないように!」と触れないくせに手を差し出してくる。
笑顔の彼女の姿に一瞬見惚れつつ、仕方ねぇなぁと澄ました顔で笑ってから、彼女の手と重ね合わせる。自力で起き上がると、お気に入りの黒の上着を羽織ってから家を出た。
玄関から出た瞬間、中とは比べ物にならないほど空気が重苦しく感じる。暑かったけれども、シャツ一枚だと味気ない。せっかくのデートなんだ。少しは格好つけないと。そう思って、暑苦しさをなるべく考えないように、自転車の鍵を開けた。
「私は幽霊だから、怒られないもん!」
佳奈はそう言って自転車の後ろに跨る。重さも何も感じないが、それでもハンドル操作は慎重に。ゆったりとしたスピードで、蒼桔と佳奈は思い出の場所へと向かっていった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
駐輪場に自転車を停めて、昔歩いた道を思い出すように歩みを進める。乱雑に生えた雑木林を切り開いて作った道だ。所々日陰ができて、そこに入ると涼しく感じられる。
日射が直接当たる場所と、影の場所。その温度差に驚かされながら、時折すれ違う中学生らしき人たちを後目に、告白された場所を目指す。
蒼桔の隣を歩いている佳奈は、学生服という場違いな服装ではあるものの、それがむしろ思い出に浸るにはちょうど良かった。軽快な歩みを見せる彼女は、暑くないらしい。幽霊ってのはこういう時羨ましいな、と辟易とした様子で言った。
「梗平に触ることはできないけど、便利な部分もあるよね。まぁ、不便な部分の方が多いけどさ」
「これで誰とも話せないとかだったら、やっぱり精神的にキツイだろうな」
「そりゃそうだよ。だから本当に……梗平が私のこと見えてて、良かったって思ってるよ」
夏の陽射しを浴びて笑う彼女の姿。握ることなんてできないのに、蒼桔の宙ぶらりんな左手に右手を重ね合わせながら歩いている。
暖かな笑顔と、ひんやりとした冷たい空気。彼女の相反するような雰囲気は日増しに強くなる気がした。夏の陽射しと、影のように。生きているものと死んでいるものを分けている境界線というのは、影のように曖昧なものなのかもしれない。
だとしたら、自分は影を歩こう。彼女の隣を歩もう。そしていつか、暖かな陽射しの元へ連れていくのだ。
「そういえば、この辺だったっけ」
舗装された道を歩いていると、彼女は周りを見回してから足を止めた。少し離れた場所から、テニスボールを打つ音が聞こえてくる。記憶の中でも、その音は聞こえていた。
少し先に進めば分かれ道があって、真っ直ぐに行けばテニスコートの裏側へ。曲がると丘のようになってる場所があって、その頂上に休憩スペースがある。木で作られた、簡素な日除けとベンチがあったはずだ。告白されたあと、そこで話し込んだのを覚えている。
「ねぇねぇ、もう一度やってみない?」
「なにを?」
「告白」
蒼桔から離れていき、少し歩いて振り向く。恥ずかしそうに笑っていた。その姿に既視感を覚える。
ちょっと前に進んだと思ったら、急に振り向いて向かい合わせになって。それから……あの時……。
「好きだよ、梗平」
恥ずかしさを噛み殺したような、真面目な顔でそう伝えられた。今もそう。あの時と同じように、蒼桔のことを見つめている。
好きだよ、と。何度もその言葉を反芻させる。耳の奥にその音を止めるように、もう二度と忘れないように、脳に染み込ませる。
忘れようとして、忘れられなかった。もう一度聞きたかったんだ、その言葉を。心の奥で切望して、けれど現実に打ちのめされて、表に出さないようにしていた。忘れた方が楽になれると、思い聞かせていたんだ。
この幻想のような光景を、留めておきたい。思わず彼女の方に手を伸ばしていく。そして……。
「……なにやってんだ、梗平」
背後から聞こえた自分の名を呼ぶ声に、現実へと引き戻された気がした。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
『最近、梗平の様子がおかしいんだけど、綾君は何か知らない?』
家に電話がかかってきて、蒼桔の母親からそう聞かれた。それに対して風見は、何と答えるわけにもいかない。あなたの息子は今幼馴染の幽霊が見えているらしいです、なんて言えるわけがない。
『声を聞くとね、ずっと佳奈ちゃんの名前を呼んでるの。それに何だか……最近、家にいると元気がない気がして……。学校ではどんな感じ?』
学校では、風見が見た限りでは普通だ。いや、死人のようにぐったりしていた時期もあったが、それは母親も知っている。それから痛みに慣れ、少しずつ現実に慣れようとしていた。心の防衛機能だって働いていただろう。嫌なことは忘れてしまう、という忘却だ。
けれど最近、元気になってはいた。それが過去を振り切ったことで生じたものならどれほど良かったのか。まさか幽霊が見えるなんて、そしてそのせいで熱が戻り、生きる活力になりつつあるなんて、本当に馬鹿げた話だ。
『あの子、大丈夫かしら……。さっき公園に行くって外行っちゃったんだけど、綾君と一緒じゃないなら、他のお友だちかな』
公園。それを聞いて思い浮かぶ箇所はいくつかある。自転車に乗っていたとしても、駅に向かう可能性だってある。けれど、高校の友人で蒼桔を公園に誘う人はいるのか。そもそも今の蒼桔に遊ぶような気があるのか。
(……ないな。だとしたら、ふれあいか)
蒼桔と白鷺が付き合うことになった場所。風見もよく知っている。あの日は委員会の仕事で遅れていて、偶然帰り道で見つけた二人を追っていたのだから。
「……まぁ、多分大丈夫だと思いますよ。一応気にかけときます」
お願いね、と声が聞こえたあとで、電話を切る。寝巻きの状態から私服に着替え、暑苦しい外へと繰り出した。自転車に乗って、あの場所へと向かっていく。
汗が滲み出て、それをタオルで拭きながらこぎ続ける。ようやく着いた駐輪場で見つけたのは、蒼桔の名前が入った自転車だ。益々嫌な予感がしていて、風見は自転車を荒々しく停めるとすぐに鍵を抜いて走り出す。
道行く人に何事かと見られるが、そんなもの気にしている余裕はない。道の先へと走り、やがて奥の方までやってくる。そしてようやく見えた。たった一人、ぽつんと突っ立っている男の後ろ姿が。
道の真ん中で立ち往生する彼を他の人が見たらどう思うのか。人の気を知りもしないで。
眼鏡を外して、流れ出ていた汗を拭く。そのまま歩き続けて、彼のすぐ後ろにやってきた。右腕を前に伸ばしている。あまりにも不審な行為に、警察にしょっぴかれても文句は言えないだろう。
「……なにやってんだ、梗平」
体をビクリと震えさせ、彼が振り向く。どうしてここにと言いたげな顔をしていたが、それが言葉になることはなかった。
(……酷い目だ)
その顔を、その目を、見ればわかる。疲れきった顔つきで目元の隈も悪化しているし、不気味に引き攣ったような笑みを浮かべていた。
本当に、死人の方がマシな顔つきだ。なんでこんなクソ暑い日に上着を羽織ってるんだ。汗だらけじゃないか。しかもそれを拭うこともしない。
「……お前のお母さんが、心配してたぞ。俺から見てもわかる。お前、ちゃんと寝てるのか?」
ため息混じりに話しかける。木々が作った日陰にいるが、息苦しくて仕方がない。暑さとはまた別の重苦しさがある。日向に比べたら涼しいはずなのに、汗が止まらない。
蒼桔のいる日影と、風見のいる日陰は別のものだ。地面でひとつにならず、木々の間から零れた陽射しが分かつように線を入れている。まるで、お互いの立場が違うとでも言うように。
「関係ねぇだろ」
「……わざわざこんなとこ来て、何やってたんだ」
「……佳奈が、ここに来たいって言ったんだよ」
またこれだ。風見も眉間にシワを寄せずにいられない。そんな馬鹿な話があるものかと、自分に言い聞かせた。信じてはいけない。そんな話を。
「いい加減にしたらどうだ。お前、前はもう少しマシなツラしてたぞ。なのに、最近になってまた……いや、最初の頃より酷い。鏡を見たことあるか? 自分のツラをよく見てみろよ」
「……うっせぇな。てめぇには関係ねぇだろ。そもそも、俺の話を信じていないような奴に、どうして俺が話を聞いてやんなきゃいけねぇんだよ!」
「関係あるに決まってるだろ。目を覚ませって。お前、いつぶっ倒れてもおかしくない様な状態だぞ!」
「知るかよ! 俺は、やんなきゃいけねぇんだよ! 本物の佳奈を、元に戻せるのは俺だけだ!」
俺が信じるものはそれだけだ、と叫ぶ。死人のようなツラしてるくせに、その時ばかりは目に光が宿っている気がした。
妄想が過ぎる。しかもタチが悪い。この男をこのまま放っておいたら何をするかわからない。下手したら、白鷺に手を出しかねない。そんな気迫がある。
「……本物って、なんだよ。じゃあ今の佳奈は偽物だって言いたいのか!?」
「本物じゃねぇだろ! 俺らの知ってる佳奈は、あんなんじゃねぇんだよ! お前もよく知ってんだろうがッ! 俺は、佳奈を元に戻せるのなら……」
「どうなってもいいってのかよ。偽物ならどうなったって構わないって、お前は言うんだな!」
「あぁ、知ったこっちゃねぇな! 俺には、本物の佳奈がいるんだ!」
「お前は……馬鹿か! 生きてる人間に、本物もクソもあるか! 今生きてる彼女が、白鷺 佳奈だろうが!」
生きてる人間を否定する彼に対し、風見も言い返した。本物偽物ではなく、その過程も含めて今を生きる彼女こそが白鷺 佳奈という人間だと。
「仮に記憶が戻ったとして、今の彼女がどうなるのか考えたことあるのか!? 友人関係も変わってて、別の彼氏がいて、その記憶を全部消してでも元の記憶を取り戻すって言うのか! 人ひとりの人生を消すくらいの覚悟があるって言うんだな!」
「記憶を取り戻しても、今の記憶が消えねぇ可能性だってあんだろ!」
「じゃあお前は記憶が戻っても、アイツが佐原を選んだら認めねぇだろ! 偽物だって、糾弾するに決まってる! お前が取り戻したいのは、自分のことを好きな白鷺 佳奈だからな!」
風見の剣幕に、徐々に蒼桔の勢いが衰えていく。歯を食いしばって反論の言葉を探しているが、見つからないんだろう。
風見も、本当はこんな言い争いをしたくはない。けれど決別した身だ。蒼桔が傷心している間、自分で決意したことだ。それだけは曲げてはいけない。曲げられない。
「お前はあの二人のことをちゃんと見てないだろ! 偏屈な見方ばかりして、本質を見ていない! 佐原は普通に佳奈のことを好いてるし、逆もそうだ! お前は今の佐原の生活をぶち壊してもいいって思ってるんだろ! あんな奴知ったことかって、侮蔑の目でしか見てなかっただろ! 違うのか!?」
「さっきっから黙って聞いてりゃ、好き放題言ってくれんなぁ! えぇ!?」
蒼桔に近づかれ、胸ぐらを掴まれる。お互いここまでの喧嘩をしたのは初めてだった。殺すような目付きで迫ってくる彼の剣幕に、思わず口を閉ざしてしまう。
「俺にとっては、アイツが……今隣にいる佳奈だけが、信じるべきものなんだよ! 幼馴染のくせに、テメェはその言葉を信じやしねぇ!」
そんな見えもしないものを、良くもまぁ自信満々に言える。隣にいるだと。馬鹿馬鹿しい……怒りすらも込み上げてきていた。両手を強く握りしめ、一発ぶん殴ってやりたい衝動を抑えつける。
胸ぐらを掴む蒼桔の腕を、風見は力強く掴む。そして彼の顔に肉薄すると、唾さえかかるような勢いで必死に言葉を繋いだ。
「おめぇの目ん玉は腐ってんのか! その目ぇかっぴらいて、よく見ろ! おめぇの隣に誰がいるのか、しっかりと現実を見やがれ!」
勢いよく蒼桔の腕を振り払う。お互いふらつきながら離れていき、また睨み合う。ズレてしまった眼鏡を元の位置に戻して、風見は蒼桔のことを正面から見据える。
見えもしないものに執着して死人のようなツラしてるよりも、こうして面と向かって口論した方が、よっぽどいいツラをしていた。死人が生き返ったような顔つきになっている。蒼白な顔つきに血の色が戻り、目付きだって鋭い。
お前はそういう奴なんだよ。その言葉を、口に出すことはないが。
「……お前が言ってくるなら、何度だって言い返してやる。本物か偽物かなんて、不毛な問いかけだ。過去に縛られるな。じゃないとお前……そっちに連れていかれるぞ」
「見えもしねぇことを信じねぇと言った割に、言うじゃねぇか」
「口ではな。思っちゃいないけど……そのツラ見れば、お前も納得するだろうよ。鏡を見ろ。いもしねぇ誰かを見るんじゃなくて、その辛気臭いツラをした自分自身をな」
踵を返す。背後にいる蒼桔は、動く気配がない。そしてまだ何かを言ってくるようなこともない。
言うことは言った。それだけだ。そう言い残し、風見は足を影から日向へと踏み出していく。
重苦しさは消えてくれたが……残り続けたしこりのような感覚は消えてくれない。一発ぶん殴ってやれば気は済んだかもしれないが……アレでも幼馴染だ。今殴ったらきっと遺恨が残る。
ぶん殴ってやるのは、正気に戻ってからでいい。それくらいは許されるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます