香る、光る

 三つ離れた仲の良い姉がそのパンドラの箱を僕に見せてきたのは、僕が十歳の誕生日を迎えた次の日だった。

 僕が自室の勉強机で熱心にプラモデルを組み立てているところに、姉は突然押しかけ、黙ってそれを僕に見せた。

「なあに、これ?」

「パンドラの箱よ」

 姉の言うパンドラの箱とはティッシュ箱を上に二つ重ねたくらいの大きさで、金や青の複雑な紋様が全体にあしらわれた古いブリキの箱だった。ところどころに宝石のような赤色の小さな飾りが埋め込まれていたが、全体的に劣化している印象のせいか、それはなんだか雑貨屋の隅で忘れかけられている、みじめなオルゴール箱のように僕には見えた。

「これはね、絶対に開けてはいけない箱なの」と姉は言った。

 僕は返答に困り、ただ頷いて彼女の目を見た。彼女の目は焦点が合っていないようだった。そしてそれは、今まで感じたことの無い不気味さを僕に与えた。姉がこんな風になるのは初めてだった。

 彼女は何か続けて喋ろうかと迷っていた様子だったが、しばらくして何も言わず箱を手に抱えたまま部屋を出て行った。部屋には暗い沈黙だけが残された。

 多分あの時、パンドラの箱について、僕は何か質問するべきだったのだろう。パンドラの箱とはいったい何なのか。どうして開けてはいけないのか。しかしそんな疑問を心に閉じ込めたまま、僕は十五歳を迎えた。そして、姉が自殺した。


 その日、姉はスイミングスクールから帰り、彼女の部屋で首を吊った。見つけたのは彼女に借りていた漫画を返しに行った僕だった。ドアを開けると、彼女の浮いた白い足が、窓から差し込む西日に照らされていたのをよく覚えている。僕は特に驚かなかった。怖いとも思わなかった。むしろ不思議と、その光景を美しいと思ってしまっていた。

 彼女が自殺した理由は、僕たち家族にも分からなかった。遺書も無かった。千切られたノートの切れ端が一枚、机の上にあっただけだ。そこにはこう書かれていた。

『パンドラの箱を、太一へ』

 これだけ。太一は僕の名前だ。もちろん両親は困惑した。二人ともパンドラの箱については何も聞かされていないようだった。だから僕も黙ることにした。

 彼女がパンドラの箱をしまっている場所はなんとなく分かった。机の引き出しの二番目、鍵はかかっていなかった。僕はそこからこっそり箱を持ち出した。キラキラと光る金属製の箱。「パンドラの箱」と名付けられたその箱は、姉が唯一残したメッセージだった。


「それで、その箱はどうなったんですか?」と桜井は僕に訊いた。

「どうなったとは?」と僕は訊き返した。

「だから、開けたんですか。そのパンドラの箱を」

「いいや、開けていない。今も僕の家の押し入れに眠ったままだ」

 桜井は顎に手を当てて、何かを考えこんでいる様子だった。

 あれから十年が経った。十年もすれば、世界というのはがらりと変わってしまう。流行が変わり、情勢が変わり、そして人が変わる。姉が死んでから数年は、やはり両親も僕もショックを引きずっていた。でも僕はいつの間にか成長し、大学に進み、就職した。昨年結婚もした。十年が経つというのは、つまりそういうことなのだ。いつまでも感傷には浸っていられない。

 僕たちは外回りの合間にカフェに入って休憩していた。僕たちは他愛もない話を続けていたと思う。でも何かの拍子にこの話を思い出し、僕は彼女に打ち明けた。まあいい、特段秘密にすべき話でもない。僕はマグカップのホットコーヒーを一口すすり、もう一度桜井に視線を向けた。彼女はまだ何か思いを巡らせているようだった。桜井は今年の春に新卒でこの会社に入った、つまり僕の後輩にあたる女だ。短く切りそろえられた黒髪は新品のスーツとマッチしていて、明るい性格と共に社内の男性からの評判は良い。入社から半年程度だが仕事が早く、取引先からも気に入られている。要するに優秀なのだ。しかし僕は、彼女にどことなく妙な違和感を覚えていた。まるでグラスいっぱいに注がれた純白のミルクに、数滴だけ水が足されてるような、そんな違和感。普通に飲んでいればまず気付くことは無い程度の微々たるものだ。

「先輩」と彼女はようやく口を開いて言った。「その箱、二人で開けてみませんか?」

 僕は彼女が言っている「その箱」というのが姉から授かった「パンドラの箱」だと気づくのに数瞬を要した。開けるだって? 二人で?

「どうして」と僕は言った。

「私の推測ですが、お姉さんが死んだのって、その箱を開けたからなんじゃないでしょうか?」

 そう、僕が彼女に抱いている違和感は、こういうところに起因する。

 僕は黙っていた。そうして彼女の話の続きを待ったが、彼女は僕が何か言うまでは何も言うことが無いようだった。僕は諦めて返事をした。

「だから、どうして」

「それを確かめに行くんです」

 僕はため息をついた。

「答えになっていないよ」

「先輩は当時パンドラの箱について何も知らなかったんですよね。今はどうなんですか?」

「それがギリシャ神話のパンドラの箱の事を言っているなら、知ってるよ、もちろん」

「なら、それが災厄を引き起こすものだということも、知ってますよね」

「ギリシャ神話での話なら、ね」と僕は強調して言った。「僕が姉から引き受けたものは違う。あれは『パンドラの箱』と名付けられたただのブリキの箱だよ。それを姉の死と関連付けるのは──」

「なら先輩は」と桜井は僕の話を遮って言った。「どうして、今までその箱を開けなかったんですか?」

 桜井は真っすぐな目で僕を見つめた。深く純粋な、真黒い眼。

「本当は先輩も思ってたんじゃないんですか?」

 沈黙。

「その箱がお姉さんの死と何か繋がりがあることに、気付いていたんじゃないですか?」

 沈黙。

「お姉さんの死について、本当の事を知るのを恐れているんじゃないですか?」

 沈黙。

「先輩は──」

「桜井!」

 カフェにいた人々が一斉にこちらを向いた。桜井も突然の怒鳴り声にひどく驚いたようだった。

「もう出よう」

 僕と桜井は立ち上がって店を出た。


「昼間はごめんなさい」と桜井は小さく言った。

 彼女の柔らかい乳房の感触が、僕の二の腕を通じて伝わってきた。彼女は僕の腕に抱きつくようにして僕の肩に顔をうずめていた。

「いいよ、そんなこと」と僕は彼女の頭を撫でて言った。

 部屋には脳まで溶けてしまいそうな甘い香りのアロマが焚かれており、それはさっきまで交わっていた裸の男女をゆっくりと落ち着かせた。

 二か月前から、彼女とはこういった関係を続けている。僕の家には妻がいるから、だいたいは彼女のアパートか目立たない近くのラブホテルで会うことになる。最初の頃、僕は彼女に性的な魅力は感じていなかった。どこにでもいる、要領の良い女の子といった印象だった。それから、彼女と何度か仕事をこなすうちに、彼女にはほかの女の子には無い特殊な魅力が存在していることに気が付いた。

 人は誰でも、多かれ少なかれ物事に偏見を持って生きている。それはジェンダーに関する偏見だったり、政治に関する偏見だったり、あるいは自分自身に関する偏見だったりするが、その自己に秘めた偏見について認識している人間はごく少ないだろう。そして自己がその偏見を認識できたとき、その偏見は強い「アイデンティティ」と変化する。彼女はこの強い「アイデンティティ」を手にしているのだ。彼女は部屋に甘い香りのアロマを焚き、レコードプレイヤーでオールディーズをかけ、お酒は一滴も飲まず、週末には会社の先輩である僕とセックスをする。彼女はそういった行為に対して、一点の迷いもなく、またそうであることが正しいとさえ思っている。そしてそういった人間だけが発する魅力というのは、ある種の人間を強く惹き付けるのだ。

「そろそろ帰るよ」と僕は言った。時刻は夜八時を過ぎていた。

 僕が散らばった衣服を拾っていると、彼女はベッドの上で突然泣き出した。彼女の泣き顔を見るのは初めてだった。

「本当にごめんなさい」と彼女は震える声で言った。「こういう風になるのって滅多にないんですけど」

 僕は彼女の隣に腰を下ろし、肩を抱いて言った。「大丈夫だよ、君が落ち着くまでこうしてるから」

 彼女はひとしきり泣いた後、赤く腫れた目で僕を見た。

「先輩には真実を知ってほしいだけなんです。それで、それだけで私は満足なんです」

「真実って、箱のこと?」

 彼女は静かにうなずいた。

「先輩は忘れてるだろうから、私がその役目なんだけど、でも、やっぱり私先輩の事が好きだから……」

 そう言って彼女はまた静かに泣き出した。僕には何が何だかさっぱり分からなかった。また一滴、彼女の純白に水が混ざった。

 僕は彼女が泣き止むまで彼女の小さな頭を撫でた。


 結局、家に帰ったのは九時半を過ぎた頃だった。妻はソファに座ってテレビを眺めていたが、僕が帰るとすぐに夕飯の温めにかかった。

「今日はずいぶん遅かったじゃない」と妻は食器を並べながら言った。

「急な案件が舞い込んだんだ。おかげで営業部まで残業だよ」と僕は何食わぬ顔で言った。最近はもう、嘘をつくことに抵抗がなくなっていた。しかし、これは断言できるのだが、決して妻に冷めたというわけではなかった。結婚して専業主婦として日々掃除や洗濯、美味しい料理も作ってくれるし、週に一回は二人でどこかにデートに行く。彼女の事は今でも好きだった。しかし僕は後輩の女の子と逢瀬を繰り返している。僕は、この矛盾に結論を付けられていないままだった。

「最近、仕事はどう?」と妻が僕に訊いた。

「まあまあだよ。このまま順調にいけば、年内には昇級できるかもしれない」と僕は夕飯のハンバーグを口に運びながら答えた。

「そう」と妻は優しく微笑んで言った。「そういえば、例の女の子とはうまくやっていけてる? ほら、あなたが妙だって言ってた」

 僕は一瞬彼女との関係がバレたのかと思い、どきりとした。妻が今まで彼女のことを話題に上げたことなどなかったからだ。でもそうではないと気が付き、僕は平静を保ったふりをして答えた。

「よく覚えていたね。まあ、相変らずって感じかな。職場の皆には大いにかわいがられてるよ。仕事もできるしね」

 彼女の話をしたあと、僕はなんとなくバツが悪くなって、別の話題に変えることにした。

「そろそろ結婚記念日だけど、何か欲しい物とかあるかな?」

「そうねえ」と彼女は言って考えだした。「気持ちは嬉しいけど、今は特に無いみたい」

「遠慮するなよ。だいたい君は最近自分のために何か買ったか? 家のお金は君に任せてるし、ある程度好きなものは買っていいんだぜ。君は遠慮しすぎるんだ」

「あら、そんなことないわよ。最近買ったもので言えば、そうねえ……」と言って妻はキッチンから何かを持ち出した。「ほら、この包丁とかね。通販でやってて、とっても切れ味が良いのよ。何でも切れちゃうの」

 妻の満足そうな笑顔を見て、僕は安心した。

「そう、それならいいけど」と僕は言った。

「あなたは優しいのね」と妻は言った。


 その夜、姉の夢を見た。

 姉は僕の前に立ってこう囁くのだ。「太一、この箱はパンドラの箱なの。この箱は、絶対に開けてはならないの」

 僕は姉にこの箱の中身について聞いてみたいと思った。でもこれが夢だからか、上手く声が出なかった。

 目が覚めると体中に汗をかいていた。時刻は深夜の二時だった。ふと見ると、隣で眠っているはずの妻が居なかった。トイレにでも行っているのだろう、と僕は思った。そして、夢の内容を思い出した。やはり、あの箱には何かがあるのだ。桜井が言うように、あの箱には真実が眠っているのかもしれない。

 深呼吸をして、僕は押し入れの扉を開けた。様々なものが所せましに積まれてある押し入れの奥の奥に、その箱は眠っている。僕はやっとの思いで取り出し、それを両手で包み込むように手に持った。十年前と何一つとして変わらない、あのブリキの箱だ。赤色の装飾が不気味に輝いていた。手には金属のひんやりとした感触が伝わってきた。ここに、姉の自殺の真相が隠されているのかもしれない。心臓の鼓動が早まるのが自分で分かった。進むしかない。十年間固く閉ざされてきたこの金庫を、今こそ開けるべきなのだ。

 僕は金具を外し、意を決して箱を開いた。ふたは思っていたより軽かった。箱の中には一枚の小さな紙が入っていた。何か文字が書いてある。僕はそれを拾い上げ、そこに書かれている文字を読み取った。

『全てお前のせいです』

 その瞬間、僕は全てを思い出した。全身に鳥肌が立ち、呼吸はひどく乱れた。どうしてこんなことを忘れてしまっていたのだろう。どうして、忘れるはずもないことが、今まで抜け落ちていたのだろう。そう、姉が自殺したあの日、パンドラの箱は確かに開かれたのだ。誰でもない、この僕によって。

 姉がスイミングスクールに行っている間、僕は姉の漫画を借りに彼女の部屋に入った。そして机の上に置きっぱなしにされていたパンドラの箱を見つけ、つい出来心で開けてしまった。中身は例の紙切れだけだった。正直期待外れだった。派手な外箱と、姉の脅し文句で、僕はこの世のものじゃない何かを想像し、期待していた。しかし、その紙を手に取った瞬間、僕の頭の中に強い電流が走った。脳内を何かに蝕まれるような感覚を味わった。そして意識が朦朧とする中、僕は箱を戻し、ふらふらと自室に戻った。その後姉の自殺を確認し、僕はノートの紙切れに「パンドラの箱を、太一へ」と姉の字を模して書いた。そしておそらく、僕はパンドラの箱に記憶を書き換えられた。

 僕は震える手で持っていた箱と紙を地面に放り投げた。この箱は本物だったのだ。そして僕はさっき、この邪悪な箱をまた開けてしまったのだ。僕の脳内に、ある可能性が浮かび上がった。まずい、桜井が危ない。

 玄関に駆け出すと、やはり妻の靴がなくなっていた。僕は車を出し、彼女のアパートへと急いだ。頼む、間に合ってくれと祈りながら。


 アパートの階段を駆け上がり、息を切らしてドアを開けた。鍵はかかっていなかった。暗い部屋の中で、一つの影がもぞもぞと動いていた。

「桜井……?」

 電気をつけると、そこには血まみれになった妻が立っていた。彼女の足元には体のあちこちを刺された桜井が無残な姿で転がっていた。部屋は血の海となっていた。

「あら、あなた」と僕を見た妻が微笑んで言った。「やっぱりこの子、とても強い香りのアロマを焚いていたのね。あなたのスーツについてたものと同じ香り」

 僕はただそこに立ち尽くすことしかできなかった。甘いアロマの香りと生臭い血の香りが混ざり合って、強い吐き気を催した。

「うん、通販で言っていただけあってよく切れるわ」

 彼女の手には鋭く光るあの銀の包丁が握られていた。

 遅かったのだ。全てに気付くのが遅かった。おそらく、桜井はパンドラの箱を知っていた。僕は彼女のヒントをくみ取れなかった。『全て僕のせいだ』。


 僕の脳内から、パンドラの箱についてまた記憶が失われていくのを、僕はただ、絶望の中で感じることしかできなかった。

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こころの泉 碧喩 優 @gennown_benan81

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