日常

 それが起こったのは僕が二十歳になった年の十月で、恐ろしく気持ちの良い秋風が吹いていた。僕は半分ほど開けた窓からそんな風を浴びながら、昼食のパスタを茹でていた。当時僕は一人暮らしを始めたばかりでお金もなく、そんなことからパスタを茹でる腕前だけは確かなものだった。七分にセットしたタイマーが残り三分を切ったその瞬間、僕の中の日常が失われた。日常を失う感覚というのが一体どういったものなのか、僕にはうまく説明できない。たとえるなら、ほんの少し炭酸の抜けたコーラを飲んだ時の、「美味しいんだけど、なんだかなあ」といった感覚に似ている。とにかく、僕にはその時、「日常を失った」という感覚がはっきりと感じ取れた。

 どうしてこんなことが起きてしまったのだろう、と僕は思った。何かトラブルが起きた時に、解決策より先に原因を考えてしまうのは僕の悪い癖だった。数分前の行動を思い出しても、特に問題はなかったはずだと思い、それからやっと現状に目をやった。

 僕が「どうしたものか」と考えを巡らせていると、「ぴぴぴぴ!」というタイマーの音がキッチンに鳴り響いた。パスタが茹で上がったのだ。考えるのは後にしよう。とりあえず今はパスタをあの熱々の鍋から救い出すのが優先だ。

 長い菜箸を鍋の中に入れ、お湯を捨てようとしたとき、異変に気が付いた。これが日常の喪失の、最初の影響だった。

麺が、固いのである。それもとてつもなく。

 僕は一本だけ箸ですくって口に運んだ。

「うっ……」

 やはり麺はまだ固く、それは顔をしかめさせるほどの嫌悪感を僕に与えた。固さからして、三分か四分ほどしか茹でられていないようだった。先にも書いたと思うが、僕はパスタの茹で具合に関してはほとんどプロに近い。この感覚に間違いは無かった。僕はもう一度パスタの入った鍋を火にかけた。十分が経つ。一本つまむ。固い。二十分が経つ。一本つまむ。固い。三十分が経つ。一本つまむ。固い。僕はため息をついて、諦めてパスタごと鍋をシンクにぶちまけた。やれやれ、僕がまさかパスタを捨てることになるとは。日常を、失ってしまった。


 その後、僕はなんとか「いつも通りの生活」を送ろうと一週間奮闘した。しかし予想通り、そんなものは徒労に終わった。パスタの代わりに買ったコンビニ弁当には梅干しとたくあんしか入っておらず、テレビではどの局も二十四時間、「新鮮! とれたてチョコレートケーキ特集」しかやっていないし、アパートのオンボロ共同トイレは最新モデルの清潔感満載自動開閉トイレとなり、加えて「音姫」までが設置されていた。お気に入りのギターの弦が八十四本になっていた時はさすがに笑いが込み上げた。実に愉快な生活である。日常が日常でないという感覚も、あるいは悪くないかもしれないな、と僕は思った。

 しかし、どうしても我慢できない由々しき問題がそこに現れてしまった。どうにかしなければならない。僕は唯一の友人である宇都宮に電話をかけた。ちなみにスマホの電話帳に登録された彼の名前が♰撃乃身矢♰となっていたことにはもう触れたくもない。

「どうすればいいんだろう?」と僕は訊いた。

「うーん」と彼は考えた。「でもよ、今の生活──日常を失った日常?──が楽しいんなら、もうそれでいいんじゃねえの? 生活してて特に不便は無いんだろう?」

「パスタを茹でるのに二時間半かかる」

 スマホから大きなため息が聞こえた。

「そんなことどうでもいいじゃねえか」と彼は言った。そこからは幾分呆れたような響きが感じ取れた。僕は何も言わずただ壁のカレンダーを眺めていた。「……なあ、お前がそんなにこだわるってことは、他に何か理由があるんだろう?」

 僕は迷った。こいつに本当のことを打ち明けていいものか。でも僕にはこの男の他に相談できる相手なんかいない。結局は言う羽目になるのだ。僕は言った。「彼女がさ……」

「彼女?」と彼は言った。「彼女がどうしたんだよ」

「俺の彼女、そこそこ、というかかなり胸が大きいんだよ。いや、誤解されないように先に言っておくけれど、僕は別に小さいものが悪いと言っているわけじゃない。嫌いなわけでも無い。でも、想像してみてほしい。今まで大きいものに慣れていたのに、突然それが風船みたいに、パン、とはじけて、小さくなったとしたら、そりゃ誰でもびっくりするだろう? まあ落胆とまではいかなくとも、多少のショックは受ける。そういうものだよ。だからまあ……、そういうことだよな」

 重い沈黙が流れた。そこに鏡が無かったから本当のところは分からないが、多分僕はその時菩薩と全く同じ顔をしていただろう。そういうものなのだ。僕はこの時の経験を一つの格言として残している。「性癖について語るとき、菩薩の顔となるべし」。

 菩薩の顔も疲れてきたとき、彼が沈黙を貫いた。「まあ、そのことについては深く掘り下げないが、とにかくお前が困っているのは分かった」

 彼が僕の友達であることに、僕は心から感謝した。

「参考になるかは分からないが、つい先日、お前と同じような経験をした人の書き込みがネットにあったぞ」

「どんな?」と僕は訊いた。

「普段の生活が無茶苦茶になって、かなり出鱈目な生活をしているとか」

「それで、それだけ?」

「いや、えーっと、それで確かそのあと色々調べているうちに、その現象が解決するかもしれないってことで、旭川に向かったかな」

「旭川? 北海道の?」

「そう。その旭川。なんでも、そこに人の日常を奪うことを趣味としている悪質な老人がいるらしい」

 僕は苦笑した。なんて悪趣味な老人だろう。

「その人はその後どうなったんだろう」

「それっきりだよ。その書き込みを最後にして消息が無いんだ」

「ありがとう。十分だよ」

「まさか行くのか? 正直、信憑性もかなり低い話だが」

「行くしかないよ」と僕は言った。そう、行くしかないのだ。「しかし、君も随分暇なんだね」

「お前ほどじゃないけどな」と言って彼は笑った。「大学には伝えておくよ」

「ああ。あの八百四十六階建ての馬鹿げた大学によろしく」


 僕は羽田から飛行機に乗り込んで北海道の旭川に向かった。飛行機はまず愛媛県に飛び、次いで韓国、オーストラリア、カンボジア、フィンランド、インドを経由してやっと旭川に到着した。とにかく無茶苦茶な航空ルートだったが、何故か到着時間だけは通常通りだった。僕はため息をついて空港へ降り立った。ひどく憂鬱な気分だった。でもやるしかない。しかし(当然なことだが)、ここから先は完全なノーヒントだった。

 僕は空港を見渡した。空港にはほとんど人がおらず(思い返せば飛行機内もガラガラだった)、まるで建物自体が死んでいるように思えた。その死んだ空港の死んだコンビニで、僕は死んだアイスコーヒーと死んだサンドウィッチを手に取ってレジに向かった。レジは五十代くらいの女性が芯底暇そうに担当していた。会計をしてもらっている間、僕はダメもとで彼女に尋ねてみた。

「僕の日常を知りませんか?」

 彼女はレジを打つ手を止め、目線を手元に残したまま出入り口の横をゆっくりと指差した。そこにはラックに山積みにされた地図があった。

「あれがどうしたんですか?」と僕は言った。

 女性は何も言わずトレイに置かれたお金を回収し、商品の入った袋を僕に渡した。僕がたじろんでいると、彼女はキツイ眼差しを僕に向けてきたので、僕は諦めて商品を受け取り、その山積みの地図を一枚取って眺めた。それはこの近くに位置する町の地図らしかった。ここに向かえということなのだろうか。なんにせよ、何一つヒントの無い状況から一歩進んだわけだ。僕はこの地図を買うためまたレジに戻ろうとした。しかしそこには先ほどまでの女性はおらず、代わりに大きな羊の人形が置かれていた。全長二メートルはあるだろうか。そんなものを今の一瞬で出せるものなのだろうかと僕は考えたが、ここが日常を失った世界なのだと思い出し、頭の隅に追いやった。僕は「すみません」と店の奥に聞こえるように言ったが、どれだけ待っても彼女は出てこなかった。

 もういいだろう、と僕は思った。もしかしたらこんな世界には秩序とか、ルールとか、そんなものは消え失せているか、あるいは砂漠の砂のように粉々になってしまっているのだろう。僕は代金を支払わず外へ出た。


 地図に記された町は美瑛町という、ごく小さな観光客向けの町だった。一時間ほどバスに揺られ、目的地の美瑛駅に着いたとき、バスの中には僕一人しか残っていなかった。

 美瑛駅から外に出ると、観光地ということもありクラシックで落ち着いた雰囲気の建物が奇麗に並んでいた。空港とは違いちらほらと人の姿もうかがえ、僕は少なからず安心した。そしてお決まりのこの問題が僕の前に発生した。「さて、これからどうしよう」。

 周りを見渡してみると、少し先に小さな本屋を発見した。僕は知らない街に来ると必ず本屋に寄りたくなってしまうのだ。よし、あそこに寄ってみよう。考えるのはそのあとだ。

 本屋の扉を開けてすぐ、僕はここに来たことを後悔した。そこには本棚やPOPなんてものは存在せず、店の中央にポツンと、一メートル四方くらいの小さな木箱が置かれており、その上には本が一冊だけ載せられていた。よく見ると本は薄っぺらく、大きさは文庫本程度、表紙にはファンシーな羊の絵と「羊男という生き方」というタイトルで飾られていた。どうするもんかと眺めていると、店主らしき男性が店の奥から出てきて僕にこう言った。

「へいらっしゃい! どれにしやすか?」

「どれったって、この本しか無いじゃないですか」と僕は言った。

 彼は少しムッとして、「あのよお、おめえは本が欲しいからこの店に入ったんだろう? したっけその本買うしかないべや。ちげえか?」と僕に言った。

「でも……」

「でもじゃねえ!」

 彼が大きい声を出すので、僕は恐ろしくなってその本を買うことにした。

「分かりました。いくらですか?」

「お代はいらねえ。持ってきな」

 僕は頭がくらくらした。混乱しているのだ。僕は本を手早くバッグに入れ、その店を後にした。休まないと、と僕は思った。丁度向かいに小さな喫茶店があったので、そこで少し休憩を取ることにした。

 喫茶店の中は温かく、北海道の寒空に浮かぶオアシスのように感じれた。ウッド調の店内にはビートルズの古い音楽がかかっており、とてもリラックスできる空間だった。客は僕の他には一人もいなかった。

 年老いた女性のマスターが出してくれたホットミルクティーを啜りながら、僕はさっき逃げるように持って出た「羊男という生き方」という本を開いた。それはとても出鱈目な本だった。羊男は羊の皮をまるまるすっぽりと被って暮らしている。羊男はカリッと揚げられたドーナツしか食べない。羊男は鞭で打たれるのを嫌う。そんなことばかりが書かれていた。僕は半ば興味を失いながらページを繰っていたが、中盤に差し掛かったところのあるページが目に留まった。それは「羊男と羊博士の闘いの記録」という章の序文だった。そこにはこう書かれていた。

「おいらたち羊男と憎き羊博士との闘いは約三百年にも及ぶ。羊博士は悪いやつだ。羊博士はおいらたちの日常を食うために、おいらたちに嫌がらせをする。

羊博士に日常を食われた羊男は普通の生活が送れなくなってしまう。それはおいらたちにとって人生の終わりを意味する。ドーナツを揚げるのに八十二時間もかかってしまうし、眠るときに羊を数えることができなくなる。そうならないためにもおいらたちはあらゆる手段で彼から身を守るし、必要があれば攻撃もする。

 でもたちの悪いことに、彼の悪癖は稀においらたち以外(つまり、ふつうの人間だね)にも及ぶことがある。それはおいらたち以上に大変な事態だ。もし君がその不運な被害者であれば、この住所をたどってほしい。もしかしたら何か力になれるかもしれない。(北海道旭川市美瑛町×××)」

 僕はゆっくりと唾を飲み込んだ。やはり、この場所で間違いなかったのだ。この街も、この本も、(多少強引ではあるけれど)僕を導くべくして導いているのだ。ガチャリ、と歯車の合わさる音がした。


 その住所は山の上にあった。細い細い山道を二時間半もかけて登り、やっとたどり着いたときには既に日は傾きかけていた。北海道は日没が早い。そして身体に痛みが走るほどの寒さだった。

 円のように切り開かれた山頂には、木で作られた簡素な家が二つ並んでいるだけで、他に人工物らしきものは見当たらなかった。乱れた息を整えて、まずは手前の家の表札を見た。そこには「ひつじおとこ」と稚拙な字で書かれていた。ここで間違いないようだ。しかし、はたしてこんなところで生活なんてできるのだろうか。玄関の横には一応ポストらしきものはあるが、こんな車も入れないようなところまで郵便配達がされるとは思えなかった。まあとにかく、そんな疑問は後だ。

チャイムが見当たらなかったので、僕は扉を二、三度叩いた。

「こんにちは羊男さん。いらっしゃいますか」

 しばらくすると家の中から足音が聞こえ、扉が慎重に開かれた。半分ほど開いた扉からまず見えたのは、白いもこもことした毛皮だった。次に耳が見え、頭が見えた。本当に羊の皮を被っているようだ。

「新聞勧誘はお断りしているよ……?」と羊男は控えめに言った。

「いいえ羊男さん、僕は新聞勧誘なんかじゃありません」と僕は言った。「この本を読んだんです」

 僕は例の本を取り出した。

「それは……、おいらが何年か前に書いた本じゃないか」

「そうです。このまちの小さな本屋で、あなたの本を見つけたんです」

 本屋にはこの本しか無かったこと、ほとんど強制的に買わされたことは言わない方がいいだろう、と僕は思った。

「おかしいな、その本は出版直前で打ち切りになったはずだけど……」と彼は言った。「まあいいや。それで、その本を読んで来たってことは、もしかして君は日常を奪われたのかい?」

「その通りです羊男さん」と僕は言った。「あなただけが頼りなのです。どうにかならないでしょうか」

 羊男は顎に手を当てて考えた。「とりあえず、中に入りなよ。外は寒いよ」


 羊男の家はあちこちに埃がたまっていて、灯りはついているのに妙に薄暗かった。羊男は僕をボロボロの古い二人掛けのソファに座らせ、彼はその向かいの小さな椅子に座った。その姿がなんだか僕には惨めに見え、場所を代わってあげたかった。ドーナツでも揚げようか、と羊男が僕に勧めてきたので、僕は丁寧に断ってお礼を言った。彼は少し悲しそうな顔をしたので、やっぱりいただいておけばよかったな、と僕は思った。

「君のその症状は」と羊男は言った。「つまり、その日常が奪われている状態というのは、自然には直らないんだ」

「どうしたらいいんでしょう?」と僕は訊いた。

「取り返すしかないんだ」

「取り返すことができるんですか?」

「運が良ければね。運が悪ければ、もう食べられている。そうなるともう日常を戻すことはできないんだよ。羊博士は日常が大好物だからね」

 僕は日常を食べる羊博士を想像しようとしたが、うまくできなかった。

「それで、その羊博士はどこにいるのですか?」

 羊男は首を振った。「分からないんだ。でもこの街のどこかにはいるはずなんだよ。おいらはこの辺りで何度かみかけているからね」

 僕たちは羊博士の居場所についてあれこれ考察してみた。結果、しばらくこの街に滞在して地道に彼を探すほかないということになった。

「羊博士をみつけたらおいらにも一報頼むよ。あいつには友をやられてるんだ」

 僕は彼と握手をした。彼の手は柔らかく、ざらざらとしていた。羊の手だ。

「あ、そうだ」と言って羊男はキッチンから何かを取り出した。「これを君にやるよ。きっと役に立つからさ」

 彼が渡してきたのは年代物のワインボトルだった。羊博士にこれを差し出せばいいのだろうか。僕はお礼を言って彼の家を出た。

 地道にいくしかないな、と僕が決心を固めたその時、もう一つの家──つまり羊男の隣の家──がふと気になった。羊男の隣に住む人物。僕はなんとなくそこに普通じゃない何かを感じ取った。

 僕は羊男の家の前から数歩移動し、そのもう一つの家の表札を見て力なく苦笑した。そこには「羊博士」とはっきりと書かれていたのだ。羊男が言っていた「この辺」とは、まさに「この辺」だったわけだ。僕は彼に呆れるしかなかった。でもいい、とにかく、探す手間が省けたのだ。僕は羊男の家と同じように、ノックをして中の住人を呼んだ。

 羊男と違って羊博士はなかなか出てこなかった。五回か六回か彼の家の前で彼を呼んで、もしかしたら今日はいないのかもしれないなとあきらめかけた時、扉が勢いよく開いた。

「うるさいわ!」と羊博士は怒鳴った。彼の顔は怒りに燃えていた。

「お騒がせしてすみません。実はあなたに話が合って」

「話もくそもあるか! 新聞は取らんと言っているだろう!」

 やれやれ、一体どこの新聞社がこんな偏狭な場所に勧誘に来ているのだろう。

「違います。新聞の勧誘じゃないんです。実は僕、あなたに日常を返していただきたくて」

 「日常」という言葉を聞いた瞬間から、羊博士の顔がみるみる無表情になっていった。

「はて……、なんのことかの」

「しらんぷりはやめてください。全部羊男さんから聞いています」

「ふん」と彼は顔をしかめて言った。「あいつらめ……、まだ生き残りがおるのか。仕方がない、中に入れ」


 羊博士の家は羊男の家と全く同じ間取りで、同じ位置に同じ家具が置いてあった。ただ羊男の家と違う点は、その何もかもが新品のように艶やかで奇麗だというところだろう。僕は何も聞かずその清潔で高級感のある二人掛けのソファに座った。絶対に羊博士をこちら側に座らせたくなかった。スコッチでも飲むか、と彼は僕に勧めてきたので、いらないと断って早速本題に入った。

「日常を返してください」と僕ははっきりと、そして誠意を込めて言った。「本当に困ってるんです」

「気の毒じゃったなあ」と彼は悪びれもなく言った。「正直言ってお前さんの日常を獲るつもりじゃなかったんじゃがのう、まあこっちのミスじゃ」

 僕はムッとした。ミスだって?

「なら返してくれればいいじゃないですか」と僕はさっきより強く言った。「もしかして、もう食べたんじゃあないでしょうね」

 羊博士は首を振った。「まだ食っちゃおらんよ。普通の人間の日常は臭くてそのままじゃ食えんから、しばらく寝かす必要があるからのう」

 僕は少なからずホッとした。

「それで、僕の日常はどこに?」

 羊博士は彼の後ろにある扉を指差した。

「この中じゃよ。しかし盗んで帰るのは無理じゃよ。そこの扉の鍵はわしが持っとるからのお」。そう言って羊博士はポケットから鍵を取り出し、ニヤニヤしながら僕に見せつけた。

 そうだ。僕は羊男から渡されたものを思い出した。僕はワインボトルをバッグから取り出し、目の前のローテーブルの上に置いた。

「これでなんとか交渉できませんか?」

「なんじゃこれは」と羊博士は眉間にしわを寄せ言った。「お前さん、まさかわしのブドウアレルギーを知っててこれを出しとるわけじゃあるまいな」

「え……」。こういうことじゃなかったのか……?

「帰れ!」と羊博士は怒鳴った。「まったくしつこいのお前さんも。ふん、お前の考えとることなんぞお見通しじゃい。女の胸がなんじゃ。あんなもんにこだわるのはお前みたいなヘンタイだけじゃわい!」

 僕は考えるより先にテーブルのワインボトルを手に取り、彼の頭に打ちつけていた。ボトルは砕け散り、辺り一面がワインの赤で染まった。なるほど、このワインはこうやって使うためのものだったのか。僕は羊男に感謝した。

 すっかりのびてしまった羊博士のポケットから鍵を取り出し、僕は彼の後ろの扉を開けた。そこには五百ミリペットボトルくらいの大きさの瓶が所狭しと飾られており、それぞれ丁寧にラベリングされていた。中身には何も入っていないように見えるが、きっとこの中に「日常」が詰め込まれているのだろう。

 僕の瓶は右の棚の一番手前にあった。僕はそれを丁寧に取り出し、緊張しながらふたを開けた。中からは何も出てこなかったし何も入っていかなかった。しかし僕には分かった。僕の中に、「日常」が戻ってきたことが。これでおそらく、パスタはちゃんと七分で茹で上がるし、ボロアパートのトイレは臭いままだし、僕の恋人は……。

 とにかく、これですべてが元通りなのだ。

 僕は改めて部屋の中を見回した。ここに保管された数多くの瓶も、きっと僕のような人間から奪った日常なのだろう。そしてその人たちもパスタが茹でられなかったりうどんが茹でられなかったりしているはずだろう。またその中には、あのネットの書き込み主のものも含まれているだろう。そう考えると、この瓶の蓋を全て開けてあげるのが、僕なりの礼節になるんじゃないかと、僕は思った。

 しかし僕がそれらの瓶に手を触れた瞬間、まるですべてが幻だったかのように家ごと僕の視界から消え失せた。周りには高く鋭い木が囲っており、空気は冷たく、それは意思を持って肌を刺した。さっきまでこの家があった場所には一切の質量もなく、また、それらによる一切の温度すら残っていなかった。

 羊男の家も消えていた。そこにはただ普通の、いつも通りの日常が存在していた。

 僕は北海道の中心の、少し切り開かれた山頂に居て、凍えそうな寒さの中で白い息を吐いている。そうだ、これこそが日常なんだ。


 しかし、これでいいはずだと言い聞かせて下山する僕の心には、何故だか不思議な寂しさと、まるで羊の毛側にくるまれたような温かさが、非日常を生きた証として主張し続けていた。


 飛行機に乗り込み、今はもう出鱈目ではなくなった旭川を飛び立つと、一気に睡魔が襲ってきた。色々あったのだ。日常を日常として生きる僕には、この数日の体験は五年分、いや十年分の非日常であったと言えるだろう。案外、楽しかったかもしれないな。僕は静かに微笑み、深い深い眠りについた。

 機内のアナウンスで目覚めた僕は、体を起こすより先に脳が直感した。たちまち冷や汗があふれ出し、心臓は鼓動を速めた。

「まさか……」

 僕は飛行機の窓から外を覗いた。瞬間、めまいがして、僕はもう一度眠ってしまいたいと思った。これはきっと夢で、何かの間違えなんだと。だって僕は既に解決したはずだ。僕は憎き羊博士をワインボトルで成敗し、見事日常を取り戻したはずだ。


 窓の外の景色は見慣れた東京なんかじゃなく、そこには氷で建設された目を見張るような高さのお城や、空を縦横無心に飛び回る大きなペンギンの姿、鮮やかに光る立体のスキー場などが鮮明に、確かな質量と確かな温度、そして確かな「非日常」を持ってそこに存在していた。

「本日は当機をご利用いただき、誠にありがとうございます。まもなく、当機は『ペンギンキングダム・皇帝空港』に着陸いたします。シートベルトを……」という機内アナウンスが無機質に繰り返された。


 やれやれ、次はどんな非日常が待っているのだろう。僕はシートベルトをしっかりと締め、今後訪れるだろう未来へ覚悟を決めた。口元は微かに緩んでいた。

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