かえるがなくから

 雨が傘に当たる音は、まるで雨が自己の存在証明をしようとしているみたいで、ちょっと可笑しい。雨が地面の土と溶け合って織り成す匂いが、心地よく鼻に届く。薄い水たまりを踏むと、破片のように飛び散った水が、私の制服のスカートを濡らして濃くする。

 狭い長い農道には、私一人しかいない。周りに広がる広大な田んぼにも、仕事をする大人は誰一人いない。もしかしたら、みんなしんでしまったのかもしれないな。あるいは、私には内緒でどこかでこっそりお祭りをしているのかもしれない。でもどうであろうと、誰にも会わないというのは今日の私にとってラッキーだった。私はつい昨日、中学校を辞めたばっかりだった。


 大人という生き物は、みんな洗脳されてしまっているらしい。社会という魔物につかまってしまったのだ。「おかね」とか、「めいよ」とか、そんなあからさまな罠につられたかわいそうな人間が、裏で魔改造されて大人に成り下がって、ショッカーの軍団が出来上がり。立派だね。そんな大人たちから教わる幸せの方程式は怖いほど不安定で、ちょっとつつけばすぐ崩れてしまいそう。いっそのことドミノみたいに、争いとか、競争とか巻き込んで倒れないかな。きっとそのあとに残るものだけが、本当の幸せだろうから。

 思考がミルフィーユしていくうちに、雨足はさらに勢いを増していく。滝の中みたいだ、と私は思う。立ち止まって遠く向こうを見ると、農道の終わりが分かった。ざっと500mはあるかもしれない。それにしても、私はいったいどこへ向かっているのだろう。降る雨は水路を通って海に出るし、雲は風とともに北へ進む。私だけ取り残されたような気分がして、ひどく悲しくなる。それでも、行き先が分からなくても、私は歩かなくてはいけない、今泣いても、きっと雨と共に流されてしまうだろうから。


勇気の進行を再開してからすぐに、帰りたいかもしれない、という思いが頭をよぎる。その優柔不断度合いと覚悟の薄さに、私の中の私、リトル私が鼻で笑う。帰るって、いったいどこに? 私が帰る巣でもあるのかしら、と私は周りを見渡す。4.2週くらいしてから、田んぼと山と納屋しか無いことにようやく気付いて、ため息をつく。八方ふさがりだ。ギアがニュートラルのまま動かなくなってしまったみたいだ。私はこのままこの農道で過ごして、この農道で年を取ってしんでしまうのかもしれない。それはちょと、やだなあ。だってまだやりかけのゲームがあるし、冷凍庫にはとっておきのチョコアイスが入っているし、あ、キスだってまだだった。

「キスどころか、君はまだ手も繋いでないじゃないか」

 急な声に驚いて、私は反射的に後ろを向く。後ろには誰もいない。次いで右、左、前を向くが、誰もいない。おかしいな、と思っていると、足元から「げこ」という鳴き声が聞こえた。うかがうように地面を見ると、足元から50cmくらい離れたところに、青々とした小さなかえるがいた。私とかえるの視線は完璧なまでに合っている。かえると目が合うのは生まれて初めての事だ。

「今喋ったのは、もしかしてあなた?」と私は恐る恐る訊いてみる。かえるに質問するのも初めてだ。

「うん、そうだよ」とかえるは言う。そして小さく「げこ」と鳴いた。

 カエルが喋っている、というのは、不思議と違和感がない。まるで太古からかえるは喋ることを得意とする生き物であるかのようだ。かえるの堂々たる態度が、あるいは私をそう錯覚させるのかもしれない。

「あなたは、手を繋いだことがあるの?」と私はまた質問する。

「もちろん」とかえるは言う。雨は変わらず激しく降っているけれど、カエルの声は不思議と透き通っていて聞きやすい。

「手を繋ぐって、どんな気分?」

「そりゃ、素敵なことさ。この世のどんなことよりね」

「チョコレートアイスよりも?」

「もちろん」とかえるは言う。

「ふうん」と私は言う。

 強い横風が吹いて、傘が飛びそうになるのを必死に抑える。雨が私の制服をまた濡らすけど、そんなことはどうでもよかった。かえるはあれだけの強風に対してびくともせず、同じ場所に居座って喉を大きくしたり小さくしたりしている。

「今日は学校はサボりかい?」と今度はかえるが私に訊く。

「ううん」と私は言う。「学校はね、やめたの。昨日」

「へえ!」とかえるは驚いた声を出す。もっとも、驚いたような声であって、かえるが本当に驚いたのかどうかは分からない。カエルの表情というのは読み取りづらいのだ。知ってた?

「じゃあどうして、君は制服を着ているんだろう?」

 私は自分の着ているものを見る。白のブラウスに黒のスカート、どちらも中学校の校章が縫い合わされている。ブラウスの方はサイズが合わなくなってきたので、ついこの前に新調したばかりのものだ。あれ? どうして私は制服を着ているんだろう。

「どうしてだろう」と呟く私の声はごく小さかったのに、かえるはちゃんと聞こえていたらしく、「げこげこげこ」と大げさに笑われる。笑う、声がする。かえるの表情は相変わらずよくわからない。

「あなたはここで何をしているの?」とわたしが訊く。ターン交代。

「待っているのさ」

「何を待っているの?」

「夏さ」

「夏が来たら?」

「冬を待つのさ」

「退屈じゃない?」と私は少しの同情を含んで言う。

「げこげこ」とかえるは笑う。「退屈じゃないさ。おれたちかえるには時間はたいした問題じゃない。飽きる飽きないもありゃしないんだ」

「でも私たちは時間は最も大切なもののひとつよ」

「人間はね」とかえるは言う。「でもかえるは違う」

 本当かな、と私は思う。寿命の短い動物こそ、時間に対する思いは強い気がするけど。かえるも何かを考えてるようで、お互いの沈黙が空気を整える。

「そういえば君は、帰る場所を探していたんだったね」とかえるが沈黙を愛撫するような落ち着いた声で言う。

 わたしはうなずく。「見失ってしまったの」

「大丈夫さ、簡単だよ」とかえるは言う。「君が今通ってきた道をそのまま戻ればいい」

 私は後ろを振り向く。たった今通ったばかりの農道が、無表情でこちらを見つめる。距離はだいたい200mくらいで、その先は広い国道へと繋がっている。私は不安な顔をしてかえるに視線を戻す。

「でも私、もう退学届を書いて、先生の机に置いてきちゃったもの」

 かえるは「げこげこ」と笑う。「心配ないよ。中学校をやめるのはね、実はそう簡単なことじゃないんだ」

 私の頬が熱くなるのを感じる。「知らなかった」

「げこげこ」とかえるは笑う「おれたちかえるの世界には、こんなことわざがあるんだ。『雨に濡れることが恥なんじゃない。雨に濡れることが恥だと思い込むこと、それが本当の恥だ』ってね」

「それ、本当?」

「げこげこげこ」とまたかえるが笑う。つられてわたしも笑ってしまう。このかえるは、もしかしたら世界一笑うかえるかもしれない。

「やっと笑ったね」とカエルは言う。「大切なのはね、胸を張ることなんだ。君自身が、笑うことなんだ。君にはそれができる。強い子だからね」

 私は頷いて、もう一度後ろを振り返る。試しに私が笑ってみると、狭くて偏屈な農道も、笑った気がした。

「そう、その調子だよ。ほら、もう行くんだ。みんなが待ってるよ」

「ねえ、最後に一つだけ質問してもいい?」

「なんだい?」

「〝帰る〟から、〝かえる〟って、もしかしてダジャレ?」と私は笑いながら言う。

「げこげこげこ」とかえるも笑う。かえるの表情は、相変らず読み取りにくい。

 雨はいつの間にか上がっていた。

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