シュレーディンガーの恋

「そりゃあお前、シュレーディンガーの猫だよ」と島田が言った。

 その時僕らは高校のカフェテリアで六限目の授業をサボってコーヒーを飲んでいた。まだ五月の初めというのにやけに暑く、僕はホットコーヒーを注文したことを既に後悔しかけていた。僕はその美味くも不味くもないコーヒーを一口だけ啜って聞き返した。

「シュレーディンガーの猫?」

「そう、シュレーディガーの猫。しらない?」

 僕は黙って頷いた。

「有名な思考実験だよ」と言って彼もコーヒーを啜り、微妙な顔をしてカップをテーブルに戻した。「一匹の猫を、四角い不透明の箱に入れたと仮定するんだ。そしてそこにもうひとつ、不確定的に猫を殺す装置も入れる」

「不確定的に猫を殺す装置?」と僕は思わず口を挟んだ。猫という極めて平和的な生物に、おおよそ似つかわしくない言葉に眉をひそめる。

「そう、例えば、小さなスイッチを毒ガスの発生装置と連動させて、猫がそれを踏むと箱内に毒ガスが充満するとか、そういうの」

「どうしてそんな酷いことをするんだろう?」

 彼はため息をついて、「いいか藤沢、これは思考実験だ。実際に行われている訳ではない」、と呆れた目をして言った。「話を続けるぞ。つまりだ、猫がそんな装置と共に箱に入れられた場合、猫は死ぬ可能性と死なない可能性の二つが出てくる。しかし我々観測者はその不透明な箱の中の状態について知ることができない。よってその箱の中には〝生きている状態の猫〟と〝死んでいる状態の猫〟の二つが同時に存在している、というこになる。どうだ、理解できたか?」

「なんとか」と僕は混乱しかけた頭で言った。「それがこの手紙ってこと?」

「おそらく」と彼は言った。「彼女は〝YES〟と〝NO〟のどちらも存在させたかったんだろうな」

 僕は手元にある一通の手紙を見た。その形状は手紙というよりメッセージカードの類なのだろう。明るい木の色をした二つ折りのメッセージカードにはイラストや柄はついておらず、そのシンプルな表には丁寧な字で「藤沢君へ」と書かれていた。


 僕がそれを教室の自分の机で見つけたのはついさっき、昼休みの後だ。僕が島田と屋上で弁当を食べ、帰ってきたときにはそれがあった。僕はトイレの個室にそれを持って行き、慎重にその手紙を開いた。そこには表の宛名と同じ、丁寧な細い字でこう書かれていた。


   「好きです。」


 それだけだった。それ以上でもそれ以下でもない。ただその一行がカードの折目の上あたりに孤独に存在していた。差出人の名前もなかった。

 この手紙の不思議な点はそれが僕の返事を求めていない事にあった。この差出人は僕を呼び出す訳でなく、加えて名前を教える気もない。つまり思いを伝えるだけ伝えて、勝手に自己完結した告白文なのだ。

 いたずらの線も考えてみた。しかしこの華奢な字はどう見ても女の子のものだし、それに、言葉ではうまく説明できない、女の子の微妙な雰囲気をその手紙から感じ取ることができた。だから僕はほとんど間違いなく本物の告白文だろう、と結論付けた。

 どうしたものかと、いくつか悩んだ末に僕は親友の島田に相談することにしたのだ。


「彼女、つまりこの手紙の差出人は、この告白の手紙に対しての答えを求めていない」と僕は確認するように言った。「そしてそれはどちらのパターンもこの手紙の中に存在させたかったから」

「うむ」と島田は気難しい顔で頷いた。

「どうしてだろう」

「まあ、無難に考えれば断られるのが怖かったんだろうよ。『断られるかもしれない』という恐怖感より、『返事は返らないけれど、断られはしない』という安心感を選択したわけだ」

 それなら、手紙を書かなくても一緒じゃないか。僕はもうぬるくなったコーヒーを口に運んだ。わざわざバレるかもしれないというリスクを背負ってまで、僕の机にそれを忍び込ませる必要はあったのだろうか。それに、と僕は思った。それに、僕はそれが誰であろうと付き合うつもりだったのだ。僕は愛に飢えていた。まるで砂漠に取り残された人がオアシスを求めるように、この高校二年生の春という場所で、僕は愛を欲していた。それがどんな粗悪なものであろうと。

「しかし、心当たりは無いのか?」と島田が言った。彼はもうコーヒーを飲み干していた。

「……まあ、無いことは無い」、そう、無いことは無いのだ。

「マジ? 誰?」

「んー……いや、やっぱ今のナシ。悪い、忘れてくれ」

「おいおいおい、そこまで言ったなら言えよ。気になるだろ」と彼は不服気に言った。絶対嫌だ。こいつに言えば多分すぐに確認しに行くだろう。それだけは絶対に避けたかった。それに、これは僕と彼女だけの空間的な秘密なのだ。誰にも教えることはできない。

「とにかく、これは一旦様子見だよ。緊急を要するものじゃなさそうだし、それに、ただのいたずらだったのかもしれないし」と僕は言った。それから少しの沈黙があった。

「なあ、思ったんだが」と彼は何かを閃いたように言った。「クラスの奴らに、お前の席に何かを入れてる女子はいなかったか、って聞くのはどうだ?」

「いや、やめとく」

「なんでだよ」と島田は怪訝な顔で言った。

「なんか……フェアじゃない」

「なんだそりゃ」


 通学のバス内にはまだクーラーはかかっておらず、じんわりとかく汗に不快感を感じる。朝日がほほに当たり、仄かに熱を帯びる。イヤホンから流れるスマホのラジオでは、流行りの芸人が流行りのアーティストと談笑していた。

 最初は、ただの暇つぶしだった。片道四十分の通学にはその時間を無駄にする何かが必要で、ラジオはそんな時間の摩耗にうってつけだった。けれど最近、このラジオは僕にとって欠かせないものになっていた。僕は腕時計で時間を確認した。七時三十分、そろそろだ。

 バスが停車場に停まり、プシューという音を立てて扉が開いた。乗り込む客はいつも通り彼女一人だけだった。彼女はICカードを入口にかざし、とても自然な軌道を描いて僕の隣の席に座った。瞬間、花の清らかな香りがふわりと漂った。それは僕に雨上がりの散歩を思い出させた。

彼女は鞄を座席の下におき、パタパタと手で顔を扇いだ。僕は彼女を横目で見た。短く切りそろえられた前髪、鋭く、それでいて透き通った瞳、校則ギリギリの薄い化粧とスカートの丈、ショートボブの髪から覗く白い耳、それら全てが僕をどきっとさせた。いつも通りの彼女だ。

 彼女は何も言わず右側のイヤホンを僕から取り、そのまま彼女の右の耳に装着した。そう、これもいつも通り。舗装の不十分な田舎道を走るバスに揺られながら、僕らはラジオに耳を傾けた。ラジオは最新のJ‐POPを流していた。



 彼女と初めて出会ったのは、高校入学の初日、まだ期待と緊張で溺れそうになっていた幸せな頃。バスに乗り込んだ彼女はある種のオーラのようなものを纏っていて、田舎の高校には不似合いだった。

 そして彼女が初めて僕の隣に座ったのは、その半年後、たしかまだ夏の残骸を感じられる九月の終わりだった。その頃には彼女は同じ学年の他クラスだということを僕は知っていた。いつか見た名札には三吉と記されていた。

その日、三吉さんがバス停からバスに乗り込んだときには、彼女はもう泣いていた。目が赤く腫れ、ぽろぽろと涙を流し続ける彼女の顔を僕は鮮明に覚えている。彼女はなぜか、流れていく涙を拭こうとしなかった。歯を食いしばって、嗚咽を漏らすこともなかった。僕が呆気に取られて彼女を見ていると、彼女は視線に気づいたのかゆっくりとこちらを見た。何秒か、彼女と視線が合ったと思う。あるいはそれは永遠だったかもしれない。そこではすべての時間が意味を成していなかった。

 僕がそのときどんな表情をしていたかは分からない。三吉さんは泣きはらしたままの顔で僕の席に近づき、隣に静かに座った。僕は何か声をかけなければと思ったが、適当な言葉は見つからなかった。あるいは、「バスに乗り込んだ泣いている美少女にかけるべき適当な言葉」なんてのは存在しないのかもしれない。でもとにかく、僕は彼女に何も言えなかった。そのままバスは走り出した。

 彼女はしばらく黙って前を向いていたが、突然こっちを向いて言った。

「何聴いてるの」

「え?」と僕は間の抜けた声で言った。横目で伺ってはいたが、まさか話しかけられるとは思っていなかった。

「それ、イヤホン」と彼女は鼻をすすりながら言った。

「あ、ああ。芸人のラジオだよ」と僕は恐る恐る言った。「良かったら、聴く?」

 そう言って僕は片方のイヤホンを取って三吉さんに差し出した。今思うと、僕がなぜそんな行動をとったのか不思議だ。僕はそのとき彼女に対して特に好意のようなものは抱いていなかったし、僕としては何事もなくこのまま学校に着いて、この奇妙な空間から抜け出したかったからだ。しかし実際には僕は片方のイヤホンを彼女に勧め、そして彼女はそれを黙って受け取り、右耳に装着した。大きさが合わないのか、何度か調整をしていた。

そのときラジオに流れていたのはたしか芸人コンビの貧乏時代エピソードだったと思う。でも僕はそんなラジオは耳に入ってこなかった。聴くことに神経を集中させることができなかった。全身の脈が音を立てて早くなっていくのを感じられた。

コンビのボケの方が冗談を言って、その相方がツッコミをした。数人のスタッフの笑い声がイヤホンから聞こえた。

「あはは」ともう一つ声がした。それはイヤホンからの笑い声ではなかった。

 横を見ると、三吉さんが口を開けて笑っていた。よく見ると彼女はもう泣いていなかった。その代わりに赤く腫れてもなお美しい目と、吹っ切れたように無邪気に笑う可愛げな表情がそこにはあった。僕もそれを見て、安らかな笑みがこぼれ出た。

 そして僕たちはいつの間にか指を絡めて手を繋ぎあっていた。それは本当にいつの間にか、としか表現できない自然な流れのようなものだった。体を支えるようにして置いてある、僕の左手と彼女の右手。彼女の手は柔らかく、さらさらとしていた。彼女の手に触れている間は不思議な心地よさと幸福感に包まれた。それは初めて花畑を見た感覚に似ていた。この時間が無限に続けば良いのに、と僕は思った。将来も期待も実績も関係ない、この瞬間が正義なのだ。

 バスが学校に着くまでの間、僕はラジオの冗談に笑うふりをしながら、跳躍する心臓のこの大きな鼓動が、どうか彼女にバレませんようにと祈っていた。途中、ふと彼女を見ると、彼女は目を合わせてはくれなかった。ほほの赤らみが泣いたためなのか、照れのためのなのか分からなかった。

 バスが学校に着くと、彼女はふっと手を放して、「ありがとう」と小さく言い足早にバスから降りて行った。僕はバスの乗務員に声を掛けられるまで、そこを動くことができなかった。手の平にはまだ彼女の温もりが微かに感じられた。



 ラジオの音楽が終わり、MCの芸人二人のフリートークが始まった。あれから三吉さんとは毎日同じバスで並んで座り、二人でラジオを聴いている。しかし彼女と会話をしたのはあの一度きりだった。彼女はバスに乗り込み、僕の隣に座り、イヤホンでラジオを共有し、手を繋ぎ、たまに笑い、手を放し、バスを降りる。それが僕たちに許された唯一の対話だった。そしてあとにはやり場のない高揚した気持ちと、彼女の跡のような甘い花の香りが残るのだ。

 どちらが先ともなく、互いの手の指先が触れた。額のあたりが熱くなるのが分かった。僕と彼女の手はまるで互いの気持ちを探り合うようにゆっくりと求め合っていった。指先から関節へ、関節から手の甲へ、這うように重なりあう僕たちの手は官能的な雰囲気が含まれていた。相変わらず彼女の手の感触は心地よく、まるで清水のように冷ややかだった。

 ねえ、君なんだろう。僕に手紙を書いたのは。僕は三吉さんにそう尋ねたかった。何度も言いかけた。でも最後には喉の奥の方でつっかえて、その度に僕の言葉は霧となって空中に溶けていった。ほとんど確信していた。簡単なことのはずだった。でも何かが、実態の見えない何かが、僕のそれを強く拒んでいた。汗が、まるで僕を嘲るように一筋垂れた。

 そんな風にして季節は本格的な夏になった。


「なんて馬鹿なことをしたんだ!」

 ここ最近で嫌になるほど聞いた言葉が、クーラーの効いた自室に響いた。

「高二にもなって遊びの限度も分からないのか!」と島田は先程と変わらない剣幕で怒鳴った。

「分かってるよ」と僕は椅子の背にもたれかかり、真っ白な天井を見ながら言った。

「いいやお前は分かっていない。第一、謹慎中のお前を心配して見に来てやったら、なんだこの体たらくは」

 僕は部屋を見回してみた。中身の散乱した食べかけのポテトチップス、そこらに積まれた漫画本、脱ぎ捨てられた服、丸く固まったティッシュペーパー。そこには清潔さの欠片も無かった。

「ああ、こりゃ酷いね」と僕は力なく笑った。

島田は深くため息をついた。「まあいい。それで、なんで学校で煙草なんて吸ったんだ」

「たまたまだよ」

 本当にその日はたまたまだったのだ。僕は普段煙草なんて吸わないし、ましてや学校なんてリスキーな場所で吸うはずがない。でもその日、なぜか僕はっ無性にイライラしていた(多分成績のことで親ともめていたせいだ)。そこにたまたま学校でも有名な不良グループに出くわして、煙草を勧められ、校舎裏で吸っていたら先生に見つかった。僕は二週間の自宅謹慎を命じられた。

「たまたまってなあ……」と言って島田はまたため息をついた。「あとお前、なんか変な噂流れてるけど大丈夫か?」

「強姦未遂のやつのやつだろ。あれは完全に冤罪だよ。あの不良たちが過去に起こした余罪が発覚しただけ。というかもう僕の潔白は証明されてるはずなんだけどなあ。災難だよ」と僕は少し苛立って言った。あの不良グループのせいで、はっきり言って僕の評判はガタ落ちしたのだ。身の潔白を証明しても、「一緒につるんでいた」という事実は変わらず、僕が彼らの仲間のように扱われるのは正直心外だった。

「ふん。そもそもお前が煙草を吸ったのが原因だろう。お前に文句を言う資格は無い」と島田は言った。

 僕は少しムッとなって、「わざわざ家まで来てお説教かよ。おせっかい野郎め」と言い返した。部屋の空気に緊張が走った。

「なんだと」と島田は身を乗り出して言った。かなり怒っているようだった。「せっかく親友が、お前を心配して家に来てやったのに、おせっかい野郎だと?」

 僕は何も言わなかった。天井は相変わらず白かったが、そこには不穏の空気が感じ取れた。

「……もう帰る。心配して損したわ」と言って島田は荷物を纏め始めた。「ふん。こんなカスをだとは思わなかったぜ。こんなやつを好きになるなんて、きっとあの手紙の子も同じくらいカスなんだろうな」

 考えるより先に、僕は島田を殴っていた。


 ベッドに横になると、島田との殴り合いでできた痣が痛んだ。真っ黒な喪失感が、僕の体にのしかかるように訪れた。たった今僕は唯一無二の親友を失った、そう考えるとやるせない気持ちになった。そしてそれと同時に、僕は三吉さんの事も思い浮かべた。彼女は僕のいないバスを見てどう思うだろう。きっと僕は、彼女にも嫌われてしまったはずだ。こんなことになるなら、手紙の真相を聞いておけばよかったな、と今になって後悔した。

 僕は本当はもうとっくに気付いていたのだ。声をかけられない理由に。手紙に着いて尋ねられない理由に。でも僕はそんな現実から目を逸らし続けていた。まるで何か巨大なものから逃げるように。しかしその何かは実際にはとても小さく、ただの羞恥と臆病さに過ぎなかった。

 僕は、答えを知るのが怖かった。もし彼女じゃなかったら、そう考えると僕はとてつもない虚無感に襲われた。だから僕はあえて知ろうとせず、そこに二つの可能性を共存させた。そう、シュレーディンガーの猫に陥っていたのは僕の方だったのだ。僕は、三吉さんに恋をしていたのだ。

 つまらない見栄と、くだらない自尊心で、僕は今、大切な人間を二人も失ったわけだ。その現実を頭の中で反芻すると、乾いた笑いが込み上げてきた。目に溜まった涙をこぼさないよう、僕は必死に天井を見上げていた。天井はもう僕の味方ではなくなっていた。


 謹慎の二週間が明けた。気分はかなり重かった。島田とはあれ以来会っておらず、今更なんて言葉をかければいいのか、結局今日まで分らずじまいだった。それに、三吉さんは、きっともう……。

 バスが僕の待つバス停に到着した。僕が重い足取りでバスに乗り込むと、そこにはいるはずの無い三吉さんが座っていた。僕はかなり驚いた。彼女がいつも利用するバス停はもっと後だし、もちろんこんなことは今までなかった。

 三吉さんは入り口で立ち尽くす僕に気付くと、にっこりと笑って二、三度、手で「おいで」をした。僕は状況をよく呑み込めないまま、彼女のそばへ近寄った。彼女の耳から、イヤホンのコードが垂れているのが見えた。その先はスマホに繋がっていた。彼女は僕が居ない間も、バスの中でラジオを聞き続けたのだろうか。

「座らないの?」と彼女が言った。彼女の笑い声以外の声を聞くのは久しぶりだった。

 僕は無言でゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。彼女が右で、僕が左。いつもとは逆の座り位置だ。何から話せばいいのか、何を言えばいいのかが全く分からなかった。伝えたいこと、話したいことはたくさんあるはずなのに、それらが全てすっぽりと抜け落ちたようだった。

彼女は右耳のイヤホンを外し、僕に渡してきた。僕は少し考えてからそれを受け取り、右耳に付けた。イヤホンからは、以前二人で聴いていたのと同じ、あのお笑いコンビのラジオが流れていた。この二週間、ラジオを全く聞かなかったせいか、くだらない冗談も、スタッフの笑い声も、合間にかかるテーマ曲も、全てが懐かしく感じた。

 少しして、指先が何かに触れた。彼女の指だった。その指に呼応するように、僕の指が彼女の手に近づき、やがて僕らの手と手は完全に繋がれた。彼女の手は相変わらず、冷ややかで、さらさらとしていて、そしてなりより、優しかった。

 僕はいつの間にか涙を流していた。その涙は一粒一粒が熱を持ち、僕の心から溢れ出ていた。まるでこれまでの後悔や反省を映したように、それはどこまでも濃い青だった。

「本当に、ただあの一度きりで、たまたまだったんだ」と僕は流れ落ちる涙も拭かずに言った。

「うん」と三吉さんは落ち着いた声で言った。口元には微かな笑みが作られていた。

「魔が差して、本当は、だめだって、わかってたんだけど」

「うん」

 僕の言葉は、まるで堰を切られたように次々と飛び出した。それは思考とは別の、僕の内側から湧き出す言葉だった。

 ラジオの声も、バスのエンジン音も、僕にはもう聞こえてこなかった。そこは僕と三吉さんの二人だけの世界だった。

「それに、僕は親友を、たった一人の親友を傷つけてしまった。僕はこれから、どうすればいいんだろう」、僕は助けを求める目で三吉さんを見た。

「ねえ藤沢君、よく聞いて」と彼女は言った。「あなたがしたことはたしかに間違いだったかもしれないわ。ある種の物事は変えられないし、事実は事実として残ってしまうわ。でもね、あなたは今を生きているし、挽回のチャンスなんていくらでもある。大切なのは誠実であること、嘘をつかないこと、過ちを繰り返さないこと。あなたにはそれができるわ」

 彼女の眼は宇宙のように輝いていて、その奥に彼女そのものが存在していた。それはこの世のどんなものより美しく、静かに優しく燃えていた。僕は頷いて涙を拭った。

「ねえ、三吉さん。君があの手紙を書いたの?」

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