10.December


 データの消去を始める今日の、ほんの三日前の出来事です。

 ドーム内の葉を落とした桜の木を見上げている、女性の姿を私は見かけました。彼女はこの三年間、夜にドームを訪れて、桜が咲いているかどうかを確認しに来る女性でした。


『お嬢様、こんにちは』

「あ、Oさん、こんにちは」


 私たちは挨拶を交わした後、無言で桜を見上げました。

 この桜は六十三年間、枯れていないのに花を咲かせていない状態だったため、プロジェクションマッピングで花を投影していました。しかし今年、数輪だけですが花を咲かすことができました。


「来年も、プロジェクションマッピングをするのですか?」

『いえ、来年も花が咲くのならば、数が少なくてもその姿をそのまま見せようということが決議されました』

「そうですか。良かったです」


 女性はほっとした顔をしました。

 その理由を計りかねていると、彼女は鞄の中から一冊の本を取り出しました。その開いたページには、桜の花弁が一枚挟まった栞がありました。


「ひいおばあちゃんが、昔ここで桜の花びらをもらって、こうして栞にしていたんです。だから、昼間も桜を見れるのが嬉しくて」

『……』


 私は、この場合あってはならないことでしょうが、何も言い返すことができませんでした。

 女性は、顔を上げました。冬の温度に調整された風が、彼女の髪を舞い上がらせています。


「このドームには、私たち家族の思い出がたくさん詰まっているんです。おじいちゃんとおばあちゃんが初めてデートしたのも……お父さんがお母さんにプロポーズしたのもここでした」

『非常に誇らしいことです。……ひいおばあさまは、今はどちらに?』

「……ひいおばあちゃんは、亡くなりました」


 女性は、それだけを言って、今度は空を見上げます。私は失言を取り繕うことも忘れて、彼女と同じ空を眺めました。

 ……この惑星では、青い空も、そこに浮かぶ太陽も、人工のものです。本物は、夜の闇と、そこに浮かぶ、星葬によって生まれた星々だけなのです。


「……今日、私もここで初デートをするんです。ひいおばあちゃんも、見ていてくれるでしょうか」

『はい。きっと応援しているのでしょう』


 私には、人間たちの死生観がよく理解できません。しかし、彼女の曾祖母が宇宙で浮かんでいるのは事実なので、その寂しそうな一言を肯定することができました。

 女性は私の言葉を聞いて、照れくさそうに笑ってくれました。そして遠くの方に目を向け、「あっ」と手を振ります。


 彼女の視線の先には、同年代らしき男性が歩いてきました。

 チョコレートコスモスが初めて咲いた日から十六年が経っていても、隣にJr殿がいなくても、彼が誰なのかは、私には一目で分かりました。


「じゃあ、Oさん、行ってきますね」

『はい。楽しんできてください』


 満面の笑みでそう言った女性を、私は常套句で送り出しました。

 男性の方に駆け寄り、一緒に歩き出した彼女を見ている私の中には、これまで抱いたことのない喜びに満たされていました。


 そのような機能はありませんが、もしも私が表情を変えることができるのなら、これまで出会ってきた人々と同じように、微笑みを浮かべていたのでしょう。






 ……

 …………

 ………………

 今、思い浮かんでいったメモリが消えれば、私のメモリ消去の仕事は完了します。時間はあと一分で、日付と年が変わる境目を指していました。

 これからの百二十年、私はどんな人々と出会い、どんな瞬間を目にするのでしょう。


 それを楽しみに思いながら、メモリを全て消去した私は電源を落としました。






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微笑みを数える日 夢月七海 @yumetuki-773

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