第5話 おともだち

 初めての友達の記憶は、おそらく、三歳頃ではないか。

 大きな団地に引っ越す前で、私はまだ幼稚園に通っていなかったから、たぶんそうだ。

 私は幼い頃の記憶がほとんどなくて、覚えていても写真のような静止画というか、ぱっと見た一瞬の風景しか思い出せない。

 誰かが動いているとか、何かを聞いたり言ったりしたとか、ましてや音や味の記憶など、皆無である。

 よく覚えているのは、三輪車のハンドルの先についていた何色かのぴらぴらとしたビニールテープ状の房飾りと、兄の幼稚園の友人「こうちゃん」、こうちゃんの家である蕎麦屋の前の路上でベンチプレスをしているこうちゃんのお父さんの姿。それから、大好きだったエッグチョコの水色の包装紙と、卵の中に入っていた黄色い小さな星型のチョコレート。おそらく大家さんであろうお婆ちゃんのいる狭い和室の、掘り炬燵に掛かった緑色の毛糸で編んだカバー。

 共働きだった両親が留守の間、私は借家の一階に住む大家さん宅に預けられていたのだろう。大家さんご夫婦の顔は一ミリも思い出せないが、手編みのカバーと、いつも炬燵の上に載っていた栗の形をした駄菓子だけ覚えている。

 他の記憶はほとんどない。

 両親が仕事に出ている間、いつも大家さんの部屋にいたのかといえば、流石にそんなこともないだろう。覚えていないので定かではないが、私は別の記憶もある。

 初めての友達の記憶だ。

 「こうちゃん」は兄の友人である。その当時住んでいた地域に子供が少なかったのか、それとも親が多忙で公園で遊ぶことがなかったからなのかはわからないが、私は兄とこうちゃん以外と遊んだ記憶がない。こうちゃんも蕎麦屋の息子なので、ご両親は日中は店がある。

 だから、兄の幼稚園の帰り、そのままこうちゃんの家である蕎麦屋に行って、おやつにお蕎麦をいただき店の中で遊んでいたのだと思う。こうちゃんのことはいがぐり頭しか浮かんでこないが、大きな蕎麦のどんぶりは覚えている。ちなみに隣にいたであろう兄のことは、全く記憶にない。


 そんな私にも、友達が一人だけいた。

 かよちゃん、という女の子だ。

 かよちゃんは赤いスカートに白いブラウスを着ていた。

 兄は仏教系の幼稚園に通っていて、幼稚園はお寺の中にあったそうだ。私はまだ就学前だったので、園内に入ったことはない。兄が幼稚園にいる間、私はどうやら、お寺の庭に放たれていたらしい。

 母曰く、仕事があるから、兄と一緒に下の子も預かってもらえないかとご住職に相談したところ、幼稚園では難しいが、寺の境内なら預かりましょうということだったようである。とんだ迷惑だったろうに、私はお寺のことも忘れてしまった。

 兄は閻魔堂の地獄絵図が死ぬほど怖かったらしく、そのせいで今も怖いモノは大の苦手だというが、私は見た覚えがない。

 その私の、お寺での唯一の記憶が、かよちゃんである。

 お寺のどこで遊んでいたのか分からないが、境内だったのだという認識はあった。かよちゃんはおかっぱ頭で、赤いスカートに白いブラウス。でも、どんな声をしていたのか、何の遊びをしていたか、どのような顔だったのか、それらは全て空白である。

 顔すら覚えていないが、私はかよちゃんが大好きだった。ことあるごとに、かよちゃん、かよちゃん、と名前を呼んでいた気がする。母にも、かよちゃんのことは話していたと思う。なんせ、記憶がないので何もかもがあやふやだが、人の名前も顔もすぐに忘れてしまう私が、ずっと覚えている名前なのだ。だが、そんな大好きなかよちゃんの、名前以外は頭蓋の外だ。

 写真も一枚も残っていない。撮る人がいなかったので、当たり前である。

 大きくなってから、かよちゃんの話をすると、母は住職の娘さんではないかと言った。ああ、だからお寺で一緒に遊んでいたのか、と合点がいった。

 ことあるごとに、かよちゃんのぼんやりとした姿を思い出す。

 そうすると、なぜだか一緒に、大きな人も出てくることに、最近気が付いた。

 身体のとても大きな男の人だ。剃髪に黒い僧侶服。母に尋ねたら、ご住職ではないかという。そうだろう。まだ幼稚園にも満たない幼子二人を、いくら境内といえども、うっちゃらかしてはおかないだろう。あれは、かよちゃんのお父さんだ。


 つい数年前、子供の頃の話を母としていた。

 私はまた、かよちゃんの名前を出した。

「同い年だったのかな」

 何気なく口にしたら、母は首を傾げて「ご住職の娘さんなら、四つくらい上だったわよ」と言う。

 あれ、と私は思った。

 四つくらい上ということは、かよちゃんは当時六歳か七歳ではないか。少なくとも、兄が幼稚園に行っている間、彼女も幼稚園または小学校に通っているはずだ。

 私は漠然とした不安に駆られてまた尋ねた。

「え、かよちゃんのお父さんて、身体の大きい人だよね?」

 小柄な人だったそうだ。それに、ご住職は幼稚園の園長である。日中は幼稚園で、授業または業務をしていたのではないかと。

 では、私が遊んでいたかよちゃんは、一体、誰だというのか。

 かよちゃんに寄り添うように立っている大きな僧形の人は誰なのか。

 かよちゃんは、本当に、いたのだろうか。

 兄も母も、一度も、かよちゃんを見たことがないそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

並んで歩く 中村ハル @halnakamura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ