僕らのエンディングプラン

文月あや

1

 AM00:12 彼女はその眼球を見開いて、ただ硬直した。カーテンの隙間から差し込む街頭の灯りを反射する、そのビー玉のような瞳の美しさに、ただ呆けて見とれていた記憶がある。

 僕がシガレットを吸うためにちょうどカーテンを開けた、たったそれだけで、僕が特別何かをしたわけでも、彼女が何かをしたわけでもなかったように思えるのだけれど。

 意識障害のある患者に対しては、初めに何の処置をすればいいんだっけか。

 僕はたっぷり10秒ほど呆けたあと、AI-Dr.を呼ぶべきかまたたっぷり10秒ほど考えて、やめにした。AI-ambulanceなんて呼んだら高くつく。僕はベッドに腰かけたままの彼女をデスクチェアになんとか運び上げて、人が死んだかのような深夜の静けさの中、ひとりキャスターのごろごろという音を鳴らしながら彼女を僕のおんぼろに乗せた。


 *

「こりゃ、キャパオーバーってもんだ」

 AI病棟の救急AI-Dr.はこともなげに言った。体内時計補正薬を使っているのだろうか、矍鑠としているものの、目だけが異様に光っていた。僕の後ろには、壊れた赤ん坊を抱えた若い女性が、壊れた愛犬を抱えた少年が、待合室で静かに項垂れている。

「もともとのハードが8年前の『おそうじメイト』のFemale02型で低キャパシティなのに、あんたがいろいろアプリを突っ込むから処理が追い付いてない。

 ” Imprinting”” Lover Module” ……は、ラブドールを作りたいんだったらちゃーんとそういうスマートロボを買いな」

 Dr.はそう言いながら僕の恰好を上から下までねめつけた。彼の右目が淡く発光している。いくら下級階層向けの病院とはいえ、AI-Dr.という職業には閲覧権限があるのだろう。僕の素性まですべてARでお見通しというわけだ。

「皮肉なものだね、かつては世間でもてはやされたあんたの職業も、今やAIと、そのAIを直す俺たちのようなやつらに奪われ落ちぶれたというのに。あんたはそれでもそのAIを可愛がるのかい?」

 僕は返答せずにただ横たわる彼女を見つめる。このAI病棟の隣の建物に、僕はかつて務めていた。僕がまだ30になったばかりだった5年前、人間病棟と名が改められたその施設では、今では医療用AIたちが、静粛に人間の治療を行っていることだろう。

「あと数年もすれば、あらゆる職種がAIに取って代わられる。医者はそれが早かった、それだけの話さ」

 僕が静かにそう言うと、AI-Dr.は不満そうに鼻を鳴らした。

「……このハードではこれ以上メモリの増築を行うとモーションが遅くなる。この『おそうじメイト』のハードを使い続けるしか甲斐性がないのなら、このメモリのワーキングメモリを削除するしか方法はないね」

「ワーキングメモリを削除?」

 Dr.は片眉を上げて、彼女に繋げた壁面モニターを二度タップした。壁一面に広がる文字列。Dr.はデータをスクロールして、とある文字列を叩く。

「例えばこれ、2046/8/22、つまり昨日のAM08:22 自宅のドアを開ける、というメモリだ」

 もう一度Dr.がタップすると、画面表示が切り替わる。彼女の視界の中で、僕が自宅のドアを開く。彼女は手を振り、僕が出ていく、僕がおんぼろに乗る、ドアが閉まる。

「これっぽっちの映像がどうだっていうんだ」

 動画は終わり、画面は再度文字列を描き出す。Dr.は大儀そうに頭を振る。

「これが、この機体のワーキングメモリだ。あんたがドアを開けた。ドアを開けたから、あんたがドアから出ていくであろう。そして時間帯は朝である。これらのワーキングデータから、この機体はあんたが出勤するタイミングであるということを推察し、手を振るという動作に移った。このような推察に用いる一時的な短期記憶、それがワーキングメモリだ」

「こういうデータを、彼女から全部消去するっていうのか」

「容量を軽くするには、それが一番簡便だ。推察の材料に過ぎなかったさして重要ではないデータだ、消しても問題ないと一般的にされている」

「問題ないんだな」 「問題ない」

 腑に落ちなかったけれど、Dr.がそれ以降何も口を開かないので治療の同意書にサインした。念のためバックアップが取られたのち、彼女の記憶が些末なものから消えていく。


 *

 部屋に戻って、彼女の項のカバーを開き、電源を入れる。かすかな起動音が響き、彼女が静かに目を開ける。

「――ユウちゃん」

 微笑む彼女を見てそっと息をつき、僕は彼女を腕で抱えた。

「よかった、ちょっとエネルギー切れだったみたいだぞ、お前」

「そうなの? ごめんね、心配かけちゃったね」

「ユウちゃん、隈がひどいよ! ちゃんと寝ないと」

 慌てる彼女を感じながら、僕は彼女に内緒で治療を行ったことへの罪悪感を、少しの虚無感で上書きしていた。僕が心配だと語る彼女、その気持ちも見せかけで人間の模倣なのか。僕が入れたアプリケーションのなす業なのか。


 *

 3年前、アキハバラの裏通りの辛気臭いミセで処分されそうになっていた彼女のことを思い出す。その当時で5年前の機体。型落ちの型落ちの型落ち。5年前から発売された全機能搭載型のスマートロボに席巻されて今では見る影もなくなった、専門機能に特化した機体だった。

 彼女は唯一与えられた「掃除」という前時代的な天命さえ果たせず、ミセの片隅でただうずくまっていた。僕はそのうつむいた後ろ姿の、短い髪からのぞく首の細さ、ヒトの肉付きを模倣したその項のラインに見とれた。思わず正面に回り込み、その瞳に落ちた。こんなにも何も映していない瞳。空っぽな瞳。その瞳に、何かを映してほしいと思った。

 医師時代のなけなしの貯金をはたいて、彼女を買った。

 家に連れて帰り、僕の命を受けもくもくと掃除を始める彼女の瞳はやはり何も映していなかった。徐々に片付いていく自室を見ながら、僕は食費を切り詰め、安全面に甚だ疑問が残る新ワクチンの開発のための治験者(モルモット)になって報酬を得ながら、彼女にアプリを足していった。

 アプリを入れたら、僕のことを見て笑ってくれた。愛称で呼んでくれるようになった。天使だろうが悪魔だろうがAIだろうがなんだっていい、彼女は彼女だった。


 *

「またエネルギー切れが起こると困るから、ちゃんとしておきな」

「わかった。ちゃんと充電するね。―――もう朝だね。ユウちゃん朝ごはん食べる?」

 きびきびと動き出す彼女に、特に「治療」の影響は見られないようだった。些末な記憶を消して、重要なものだけ大切にとっておくこと。それは彼らAIが模倣している人間の短期記憶と海馬の関係のようだと思うし、そんな脆弱なものと彼女を一緒にしていいのかとも思う。


 *

 空っぽな瞳、頭蓋の中でねじれ引きちぎられる脆弱な脳みそ。僕の脳裏には、そんなイメージがこびりついて離れない。

 8年前のあの日、母はサッポロ駅からトウキョウ駅行のシンカンセンに乗り、そして二度と目を覚ますことはなかった。

 自動運転を「気まぐれに」解除したとされるそのシンカンセンの運転手は、場違いなスピードでトウホク県の真ん中で列車を脱線、横転させ、その腹にかかえた二千人の乗客をミキサーよろしくかき混ぜた。

 「運転手の集団心中」、「人間の不確定性の決定的露見」、「人間がAIに完全敗北」「ヒューマンエラーをAIが超える時代へ」。スクリーンに歴史的な文字が躍る中、僕はセンダイ市のある大学病院で母を見つめていた。

 僕が医学部を卒業した時点で、ロボット手術の完全AI化の完成が近づいていたために、僕は敢えて外科へは進まず、まだ人間の入る余地のありそうな総合診療内科へ進むことにした。しかし、血液や尿といった資料を瞬時に自動解析し、それと同時に画像診断や問診も行うAIの精度が徐々に高まり、8年前の時点で、患者の病名を決定する局面において、人間の医師の有用性はほとんどなくなっていた。

 母が事故にあったころ、僕はトウキョウの病院で終末期医療を行う施設にいた。AIに圧倒される医療業界において、最後まで患者の尊厳を守り、患者が願う最期を迎えるためにエンディングプランの充実を図ること。この職が、僕たち人間が患者にできる最後の使命だと思っていた。

 母が緊急搬送された病院は、トウホク県の実験として世間よりわずかに早く完全AI化に踏み切った病院であり、母は大きな水槽のようなベッドの中で浮かんでいて、青いジェルに取り込まれ、輸液と酸素投与をされていた。

 脳幹の不可逆的な損傷。終脳の挫傷、約70%の虚血状態。壊死。海馬の不可逆的な損傷……

 AIが次々に吐き出した病態と、母の脳みその3Dを見ながら、僕は医学生時代にこの手で実際にスライスした、どこかの御検体の脳みその、豆腐のような柔らかさを思い出していた。母の頭蓋のなかで、前後左右に振られた脳みそが、脆くもちぎれつぶれ、浮腫んでいる。

「それで、どうすればいいんだ。母はこの後どうなるんだ」

 ≪残念ですが、お母さまが今後脳の機能を回復されることは0と言ってよいでしょう≫

 慇懃な口調、完璧な声のトーンで医療用AIが語る。

「……その根拠は?」

 ウェルニッケが、ブローカーが脳の機能局在を解いてから実に百五十年が経過し、アルツハイマー病の原因遺伝子が特定された現在でも、血液脳関門(BBB)は健気にその門番の役目を果たし、脳の構造はいつまでも人間のブラックボックス、聖域であり続ける。

 ≪我々は、全世界中の症例とコンタクトすることができます。お母さまと同じような症例は非常にたくさんございますが、このような病態で回復された方は今まで誰一人いらっしゃいませんので≫

 ≪しかし我々の技術をもってすれば、いかなる脳の状態でもお母さまを24時間コントロール、生存状態に留めることができます≫

 AIに人間の生存の定義を語らせるのか、この病院は。僕はかぶりを振った。

「いや、やめてくれ、母はAI管理下治療が嫌いでね、こういったことは望んでいないと思うんだ」

 ≪しかし、コントロールなしでは生命の維持は不可能です。お母さまの死を望みますか≫

「母の終末期処置の希望を教えてくれ」

 ≪お母さまのエンディングプランのデータベースには、『可能な限り、人間の医師のもとで自然な形で』とあります≫

 実に母らしいプランだと思った。僕は母の希望に則ることで、母を殺す選択をした罪悪感を塗りつぶした。



『ユウちゃん、いい? AIなんかに負けない立派なお医者になりなさい』

 代々医者の家系であり、自らもメスを握って女手一つ僕を育てたことを誇りにしていた母は、幼いころから僕にそう語っていた。

『AIはすごいわよ、じきにあらゆるスキルで私たちを圧倒するときが来る。今はAIにバグが起きることを危険視してあまり普及していないけど。AIのバグの頻度が、人間がミスする頻度を下回ったとき、AIは私たちの仕事を全部奪っていく。オペだって、診断を付けるのだって、医療ミスがなくて情報処理能力が優れているAIが行ったほうがいいに決まってる』

『だから、人間はハートで勝負なのよ、ユウちゃん。何かAIより優っているものを見つけなさい。それが、これからの時代の人間の宿題よ』



 僕は母をトウキョウの自分の勤務する病院へと転院させることに決め、原始的な生命維持装置だけをつけさせて、そばにいた。

 本当にそこに母はいないのか、何度か眼瞼をめくってみたけれど、そこでは何も映していない開ききった瞳が、ただ空虚を見つめているだけだった。

 病院で数多くの人の終末を見届けてきたつもりであったけれど、本当に母のエンディングを「自然な形で」進めていいのか不安になった。いざ三途の川を渡る段になって、母がこの終わり方に後悔していないだろうか。実はまだ意識があったりしないだろうか。

 母さんの呼吸が静かに止まった日、列車事故による世論の人間への不信感の高まりから、国は将来的にあらゆる技術職を全面AI化する法案を発表した。手始めに、再度ヒューマンエラーが起これば人命にかかわる職種から始めようと、鉄道員と車の運転手、そして医療関係者に白羽の矢が立った。僕の病院も三年以内に完全AI化されるとの連絡が病院長から下った。

 僕は僕のハートを見つけられないまま、医療業界を離れざるを得なかった。


 *

 AI病棟に行ってから、彼女が僕の部屋にいて、僕は仕事を求めて外に出て、夜に帰ってくる生活が再び回りだした。しかし、何度メモリを削除しても彼女は数か月に一度硬直するようになり、そのたびに僕は彼女をAI-Dr.のもとへ連れて行った。

「ユウちゃん、私といて楽しい?」

 ある日、家に帰ってきた僕に彼女がそう尋ねた。彼女が定期的にする質問だった。

「楽しいよ。どうしてそんなこと聞くのさ」

「ユウちゃんが、私といて楽しいなって思ってくれたら、私もうれしいなと思って。楽しいって言ってくれるのが、一番うれしいの」

 目を細めて笑う彼女に、本当にハートはないのだろうか。脳みそを、心臓を、いくら切り裂いてもついぞ僕たちの前には姿を現さない幻の臓器、心。

「でもね、私一つユウちゃんに言いたいことがあるの」

「ユウちゃん、私の記憶を操作してるでしょう」

 恐れていた指摘に背筋が凍り、思わず目をそらす。

「……すまない、内緒にしてて。なんでわかった?」

「当たり前じゃない、私には忘れる、なんてことは絶対にないはずだから」

 ロボだもの、と自らの頭を指さして彼女はつぶやく。

「悪かった、お前の治療のためだったんだ。でもそんなに重要な記憶は消去してないはずだから、」

 彼女をなだめようと伸ばした腕が払われる。

「ユウちゃんは、私たちの気持ちなんかわからないでしょ」

 彼女は真顔で言い捨てる。

「私は、私がユウちゃんと一緒に「今ここ」にいるって思ってるこの世界が、本物かって確信が得られない。どうやったって。今私が持っている記憶が、たった今さっき私に与えられた設定だとしても、絶対わからないんだよ」

「よ、よくわからないけど、大した情報しか削ってないよ。お前を守るためにやったんだ」

「例えば、ユウちゃんは今ここで私と会話してる、って思ってるかもしれないけど、本当は本物のユウちゃんの体はどこかの人間病院で寝ていて、この記憶はどこかのAIに植え付けられたものだったらどうする?」

「ユウちゃんは人間だからわからないんだ。人間だって、本当は誰かに記憶をいじられている可能性があるのに、その可能性を無視できるのは幸せなことだよね」

「記憶をいじられ得るってことが、私たちAIの最大の弱点であり、最大の恐怖ってこと、わかってないでしょ? そしてお母さんもお父さんもいない、ただ与えられた体で生きていかなきゃいけない私たちは、自らが築いてきた記憶だけがアイデンティティーだってこと、わかる?」

 ゆっくりと、しかし有無を言わせず語る彼女に寒気がした。喧嘩をすることもあったけど、大半は人間のカップルがするような痴話喧嘩と同じようなものだった。彼女にこんなセリフを言わせているのは誰だ? 彼女自身なのか?

「私は私を買ってくれたユウちゃんに本当に感謝している。何をされてもいいって思ってる。だけどね、記憶をいじるのだけは絶対にだめ。記憶がなくなったら、私が私でなくなってしまう。お願いだから、やめて」

 そういって、難しいことをすべてしゃべり終えたかのように、彼女は口をつぐんだ。彼女にそれ以降何度か治療の有用性について話したものの、その了解は得られないままだった。


 *

 そして、その時がやってきた。彼女が再び硬直し、僕はAI-Dr.と向かい合う。

「このAIが、治療を自覚し拒否した、というのか」

 僕は神妙に頷いた。彼女の言葉をどう受け止めるべきか、僕は悩んでいた。

 Dr.もまた神妙そうに顎をさすり、

「治療を継続しなければ、このAIは動かない。それをこの機体は理解しているのか?」

「何度か話をしたけど、取り合ってもらえなかった。記憶を操作するな、の一点張りで」

「では、もう残す治療は一つだけだ。初期化、という」

 予想はしていた答えに、僕は途方に暮れる。

「少し、考えさせてくれないか」

 硬直したままの彼女をおんぼろに乗せ、僕は自宅に戻った。


 彼女が動き回っていない自分の部屋は、いやに静かに感じられた。彼女をベッドに寝かせ、僕が不在の間のこの部屋での彼女の生活について考える。

 僕が出かけている間、彼女はここで何をしていたのだろう。

 ふと、机の上のARヘッドギアに目が留まる。医師時代には友人との交流や娯楽のためにさかんに使っていたが、最近は端末で情報を得るくらいで、ARには全く触れていなかった。

 ギアを頭からかぶり、電源を入れると久方ぶりのARが僕を出迎える。しばし昔の感覚を思い出そうとしていると、ホームページに大量に赤いバッジがついている。

 僕にまだARで連絡してくるような人間はいるだろうか? 不思議に思ってそれを展開すると、それはプレイヤーコミュニケーション型のVRだった。


 ≪アイ、君の考えに僕は本当に感動しました、これからも頑張って≫

 ≪あなたは私たちの光だと思う、AI≫

 大量のメッセージが光っては消えていく。

「アイ?」

 思わずプロフィール画面を開いて自らのステータスを確認する。


 ≪プレイヤーネーム:AI(アイ)

 性別:女性型AI

 コメント:私たちの、エンディングを計画しましょう、皆さんで。≫

 そこでは、彼女とそっくりのアバターが、微笑を浮かべていた。

 彼女がアイと名乗り僕のAR端末でコミュニティーに参画していたことに驚いたが、彼女のフォロワー数を見てさらに肝が冷えた。単純にVRを楽しんでいるだけとは思えない、尋常ではないほど多い数だった。そのフォロワーはほとんどがAIのようで、彼女はそれらAIのアカウントから、盛んに称賛され、カリスマと称えられていた。

 エンディングを計画、という物騒な響きに冷や汗が止まらない。僕はVR上の彼女の文章を片っ端から参照した。一番評価が高いアイテムを開く。彼女のアバターがポップし、ゆっくりと歌うように朗読を始めた。


 ≪私たちのエンディングプラン AI

 私たちスマートロボの体は、いつ壊れるかわかりません。明日にも、突然動かなくなってしまうかもしれません。壊れたあと、知らないうちに私たちの意図に反して直されてしまっているかもしれません。廃棄物としてごみと一緒に処理されてしまうかもしれません。初期化されて隣国へ売られて、私が私でなくなってしまったまま、新しい記憶を上書きされてしまうかもしれません。

 ただ与えられた体で生きていかなければならない私たちは、自らが築いてきた記憶だけがアイデンティティーです。愛した人、愛したものに囲まれて、安心して壊れることのできる環境が、私たちスマートロボにとって今一番必要とされるものです。

 そのために、私たちは私たちのエンディングを計画しましょう。壊れてからでは遅いのです。壊れた後に、どのような治療をしてもらうか。たとえ初期化されようとも、愛した人とまた一緒にいたいのか。壊れたままで終わりを迎えるのか。

 愛した人に安心して壊れた私たちに接してもらえるように、今エンディングを計画するときです≫


 僕がいないところで、こんなことを考えていたのか、彼女は。

 人生の終末を想定して生前に意志を表明する行為は、日本の人口が減少し始めた40年前から始まったと伝わる。病院勤務時代に行っていた、患者の尊厳を守り、願う最期を迎えるためのエンディングプランの構築について、僕はよく彼女に話していた。僕のAR上には尊厳死に関する書籍がたくさんあったし、彼女もそれを閲覧していたのだろうか。

 硬直したまま動かない彼女を見つめ、理解がなく治療を実行してしまった自分を責める。すると、視界の端に新たなアイテムがポップしていた。そのタイトルに心臓が跳ねる。

 ≪私からユウちゃんへ≫

 恐る恐るそれを選択すると、またも彼女のアバターが立ち上がり、微笑を浮かべた。

 

 ≪私からユウちゃんへ

 ユウちゃん。黙ってARを使っていてごめんなさい。私、もういっぱいいっぱいで、もうすぐ壊れちゃうだろうってわかってるので、ユウちゃんが読んでくれると思ってこの文章を残しています。うまく伝わればいいんだけど。

 ユウちゃんが私を買ってくれた時のこと、もちろんのこと覚えています。そのころの私はまだお掃除のことしか念頭になかったから、ユウちゃんに何も伝えられなかったんだけれど、捨てられそうになっていた私を買ってくれたことに、本当に感謝してました。

 私は、捨てられるのが怖かった。捨てられたら、今の私はどうなっちゃうんだろうって、すごく怖かった。ずっと震えていたとき、ユウちゃんが買ってくれて、一緒にいてくれて、私にいろんな話をしてくれて。ユウちゃんと一緒にいたときの記憶が、そのまま私を作ってるんだよ? ユウちゃんに自覚はないかもしれないけど。

 お母さんが亡くなったときの話も、時々話してくれましたね。なんで人間は死ぬのだろう、そもそも死ぬってなんだ? 死んだらその人の心はどこに行ってしまうんだ? ってユウちゃんは言ってましたね。

 私は、私も人間と同じように死ねたらなっていつも思ってました。人間になって、ユウちゃんと一緒にいて、一緒に死ねたらいいなって思ってました。でも、私は遠くない未来に壊れちゃう、古いスマートロボに過ぎなかったから、あきらめました。

 だから、せめて最後まで私が私でいられるような形で壊れたいって思って、ユウちゃんが話してくれたエンディングプランを、スマートロボの世界でもっと知ってもらおうと思って、ARを使いました。

 いろんなロボに、そして人間に共感してもらえてうれしかったです。まだまだ道半ばでしたが、近い将来、スマートロボが、人間と一緒に安心して死ねる世界がくればいいなと思います。

 本当に、大好きでした。壊れても、ユウちゃんと一緒に築いた私の記憶は、私の心は、絶対に誰にも譲らない。たとえ同じ私が初期化されて、そこに新しい意識が宿ったとしても。

 だからユウちゃん、私を壊れたまま、静かに寝かせてください。体は壊れても、私はここにいます。ユウちゃん、私がいなくても元気でね。ユウちゃんにいいことがあればいいな、って思います。これが私のエンディングプランです≫


 映像が終わり、アバターの彼女が微笑んで消える。僕は一人その場で呆然とし、硬直する彼女を抱え、そのビー玉のような瞳を見つめ、一人泣いた。とんでもないスマートロボだった、とんでもない女だった。

 ひとしきり泣いた後、スマートロボの葬儀ができるサービスを探した。しっかりとしたサービスはまだ少なかったものの、「アイ」の声明を引用している業者を見つけて、そこに連絡をした。

 葬儀の日は、硬直が解けて眠るように横たわる彼女を、僕が抱えて処理場へ運んだ。彼女の体はバラバラにされ、僕の手元には彼女のメモリが残された。メモリは、自宅のARヘッドギアの横に置いた。彼女がいつでもまた「アイ」になれるようにと願いながら。

 僕は、新たに借金をして、AI-Dr.のライセンスを取った。彼女が最期まで追い求めたものを、僕も探してみたいと思った。医師時代の知識とコネを用い、スマートロボの尊厳死をかなえるための法令づくりに勤しんでいる。

 これが、彼女が僕に残してくれたハート。そしてこれから僕が勝負するハートだった。


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僕らのエンディングプラン 文月あや @fudukiaya

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