第4話 血は突然に

 タクシーに乗ると、運転手は「仙台駅の東口で良いんですよね?」と尋ねてきた。髪の毛が白くなり始めて、皺の深い顔の男性だったが、嫌味や裏を感じさせない営業スマイルは流石だった。今日は当たりの日だ、と思いながらも「はい、お願いします」と暁はなるべく声を出して頷いた。

 よく利用させて貰っているタクシー会社だが、どうやらお得意様には昇格できていないようで、時折、険悪な視線を送ってくるドライバーもいる。あまつさえ舌打ちする人もいるが、今日はそういうのは無かった。走り出してから暫くしても、ドライバーの男性は無駄な世間話をしてくれる訳でもないのは非常に良かった。赤の他人とにこやかに会話が出来るほど、暁の眠気は伊達ではない。

 あずま 松下まつした

 運転席の所に掛けられているドライバーの名前を覚えて、次からは彼を指名しようと暁は頭に刻む。

 無言のまま、当然ながら渋滞にも捕まらずに仙台駅の東口に着いた。

 人通りは皆無。車もだ。にもかかわらず、目の前の赤信号や外灯、無駄な広告のライトなどで辺りは明るかった。


「本当に東口で良いんですか?」と、赤信号で停車しているタイミングでドライバーは尋ねてきた。「もうどこも閉まっていますし、待ち合わせとかでしたら、言ってくれればそこまで運びますよ?」


 バックミラー越しに男性と目が合うと、暁はすぐさまメーターに視線を送った。

 約──三千円。これまでと変わらない値段である。そして、ここから店に行くとなると、不思議なことにピッタリ値段が上がるというのも、暁は知っていた。出来る限りの友好的な笑顔で応えた。


「待ち合わせじゃなくて、バイトがあるんですけど……あの、お金の方が…………」

「そう遠くなければ、おまけしますよ。まだ学生だよね? うん、確かに三千円は大きい。だから、ここで一度精算するから。どうだろう?」

「いや、そういうのはちょっと──」

「気にしなくていいですよ。私も学生の頃は馬鹿みたいにバイトとかしてましたからね、何と言うんでしょうね、応援したいんですよ。若い子がこんな夜更けにバイトをするなんて、褒められたものじゃないけど、うん、やはり応援したいね」


 ドライバーの厚意は嬉しかったが、しかし、あまり百羽兎へは案内したくはなかった。

 決していかがわしい店ではない。純然なレストランだ。メニューが和洋折衷を飛び越えて、インドやアラブやメキシコや、国境を粉砕するかのようなレパートリーがあるだけで、それ以外は至って普通だ。

 どちらかというと、客側の事情である。

 24時間営業のレストラン。しかも朝方前の深夜に来る客は、駅反対側の西口──そこから少し離れた所にある歓楽街の従業員たちだった。主に、オーナーや裏方の従業員がやってきては、他の店との交流や情報交換がなされている。

 そういった場所に、あまり一般の客が来るのは好ましく思わないらしい。

 店の内装は全て個室で区切られているものの、そういった商売を経営する人にとっては貴重なプライベートな空間だと重宝されているようだ。


「あの、大丈夫です」と、暁は小さく頭を下げた。「嬉しいんですけど、歩いて行きます。ありがとうございます」


 運転手は静かに笑顔を浮かべて頷いてくれた。料金を渡し、タクシーから降りると「頑張って」と、過不足のない言葉を残して、彼は静かなエンジン音と共に夜道を走っていった。


(……バイト、頑張るか)


 いつもは鈴が玄関でそう声を掛けてくれるのだが、赤の他人から言われるというのも悪くはなかった。夜に冷やされたコンクリートをフラフラと歩いていく。右に左にと、千鳥足な歩き方はすっかり暁の歩き方となっていた。どっぷりとした猫背は、両肩も引っ張って下げさせていた。

 人を見かけない深夜。

 静かで、静かが過ぎる夜だ。

 心地良い。頭の中で、世界史が巡っていた。特に苦手科目というわけでも、かといって得意科目でもない。科目の中で一番シンプルで、最も点数が稼ぎやすい科目だったから、ということくらいの理由だ。スラスラと第一次世界大戦から第二次世界大戦へと繋がる出来事をブツブツと、念仏のように復唱し続ける。

 大通りを進んで、信号を3つ通り過ぎる。

 次の信号を過ぎて左に曲がって、少しだけ背の高いアパートの少し離れた場所に店はある。暁が歩いている位置からはまだ見えない場所である。

 赤信号。

 ふと、暁は顔を挙げた。


「今日は、暇なのか?」


 心地よく、静かな夜。

 不気味なほどに、静か過ぎる夜。

 暁は、そこで初めて、本当に静かなのだと辺りを見回した。

 店の近くだというのに、人が誰も歩いていない。普段なら、店の近くともなれば客の二人や三人が歩いている。あるいは反対側の歩道にも人はいるはずで、いくら眠いと言っても、確かに車は一度も横を通ってはいなかった。

 こんな深夜に人が捌けるようなイベントも無いだろう。

 小さな違和感は、けれども、重い重い頭の中では大きく引き止める事は無かった。無音に色を変える蛍光色の信号を見上げ、横断歩道を渡り、左に曲がって進み、いよいよ違和感を確信した。


「うっそぉ……」


 店の灯りが点いていなかった。

 百羽兎。小綺麗なガラス戸の上に掲げられた横に長い看板は、普段の色とりどりのイルミネーションが息を潜め、夜のせいで真っ黒な看板に成り下がってしまっている。ガラス戸からは灯りが1つとして溢れず、暗闇だけしか見通せない。

 スマートフォンをポケットから取り出す。メールも通話も、店からの履歴が無い。

 かといって、ガラス戸には休業の札も飾られていない。通勤時間とタクシー代をドブに捨ててしまったのかと失望しながらも、念の為に戸に手を掛けた。店の裏側は店長と、その奥さんの自宅が繋がっている。アルバイトの暁はいつも店の入り口から入っていた。

手を掛けると、簡単にカラリと音を立てて開いた。

 流石の寝不足頭でも、この異常事態には寒気を感じてしまう。真夏の深夜に、悪い夢を見ているんじゃないかと、足元の暗闇が現実感を失わせる。

 頭の中に、家に帰ってしまおうかと声が聞こえてきた。紛れもない、本心だ。

 しかし、暁は静かにガラス戸を開けた。店長や奥さんが気になったからだ。高校生でアルバイトをさせてくれる二人に、恩を感じていたからだ。


「店長? 奥さん。あの、今日は店やってないんですか? 暁です。もしもーし」


 広がる店内の闇に向かって声を投げた。

 返事は……無かった。

 警察を呼ぼうか、そう思った、時だった。


「あ、暁くんじゃーん。ここで何してんのぉ?」


 店の外から女性の声が入ってきた。

 軽快な声質ながらも気だるい口調。その声は、この店にやってくる常連の女性だった。振り返ると、高そうなジャケットと薄いロングスカートを履いた女性が、細い指の指輪を月明かりに反射させながら手を振っていた。


「ケイさん?」


 女性は「あはは」と、不思議なことにコロコロ笑っていた。ケイはブロンドの髪を指先でいじりながら呟いた。


「駄目じゃん、高校生がこんな、、、夜中にいちゃあ。こーんな場所で。あ、もしかして逢引ぃ?」

「いや、今日は俺、バイトで来たんですけど。あの、それよりも、今日は店がやっていないみたいなんですよ」

「あー。そういえば暁くん、アルバイトしてるんだっけ? あ~、忘れてたよぉ? ん? まあでも、苦学生だねえ。あれあれ? だけど、どうしてここにいるのぉ? それに店って、何の事?」


 色気と愛嬌を合わせた、もはや洗練されたような首の傾け具合は流石はキャバ嬢を営んでいる彼女だ。とても良く似合っている。

 ただ、彼女の言葉の端々に違和があった。

 彼女とは顔馴染みだ。何度も仕事の愚痴を言われたり、時には勉強を教えてもらったりと、親しい間柄といってもおかしくはない。

 そんな彼女から出てくる言葉は、まるで、初めて会うようなものだった。


「え? あの、俺、ここでバイトを……」


 あはは、とまたケイは笑った。




「こんな何も無い空き地でバイトなんて。怪しいなあ」




 違和感も、

 現実感も、

 何もかもが食い違った彼女の言葉は、食い千切られた。

 彼女の──首と共に。

 顔に、彼女の血が降り注ぐ。ふと、暁は雨を思い出してしまった。顔に液体がかかる感覚が癖になってしまっているのか、一瞬、血が冷たいもののように感じた。だが、冷たさは錯覚で、じわりとした熱さだけがまばらに頬を塗りたくる。


「ケイ……さん?」


 意味もなく、そう訊ねた。そう、意味もなく。

 首と身体は既に離れている。身体は血を吹き上げながらゴトリと上半身だけを店内に入れて倒れた。首は、暗闇に浮いている。

 ──いや、咥えられていた。

 ケイの立っていた場所。そのすぐ後ろに、人影があった。身長は、ケイ、、よりも高いく、ケイ、、だった頭部は、その人影の、ちょうど頭部に位置する場所に在った。整った笑顔は消えて、顔は横に傾いている。整えられたブロンドヘアーは無造作に垂れ下がっては、首から滴る血に黒く染められていた。


「イイ……ニオイィ…………ヒト……ヒト?」


 人影が、ケイの首元を咥えながら声を発した。

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Blood road 地獄屋 @jigokuya

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