00 笹貫透の話③
「やだ、帰る」
聞いたこともない声音で彼女がベッドからおりる。「待って」と俺はその細い肩に手を伸ばして――
「嫌ッ! やめてよ!」
「ウソでしょ? 何なの? きっしょ……」
人の言葉に、人の視線に、こんなにも傷ついたのは初めて? いや違う。傷なんていくらでもあった。でも、でも、彼女からの言葉は、私をめちゃくちゃに砕いた。砕いた? それも違う。わからない。わからない。
私が呆けているうちに彼女はさっさと服を着て出ていったらしく、ばたん、と玄関ドアの開閉音だけが耳をすり抜けていった。しんと静まり返った暗い部屋で私はのろのろと服を着る。今日はカッターシャツに、薄手のジャケット。オフホワイトのスリムパンツ。清潔感があって素敵、と昼間言ってくれたばかりなのに。
――気持ち悪い?
その瞬間私のなかの何かが沸騰した。気づけば叫声のような悲鳴のような獣じみた大声をあげて、彼女のあとを猛然と追いかけていた。
夏の日だった。蒸し暑い、霧の夜だった。肌にまとわりつく湿気は不快感でしかなく、私は私が汚れる気がした。走れば走るほど額を首筋を汗が流れていって、私はとても気持ちが悪かった。そう、きもちわるかった。何もかも不快だった。鼓膜にこびりついたままずっとエコーする彼女の言葉も、目の前で
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。耳から離れない。追いかけてくる。逃げなくちゃ。気持ち悪い何かから、逃げなくちゃ。逃げて、そう、洗わなきゃ。私についた、気色悪いものを。洗って、落とさなくちゃ。清潔感があって素敵、って彼女が言ってくれたから。ごしごし。じゃばじゃば。水辺で私は汚れを洗う。やめて、苦しい、とバイ菌が泣く。キレイにできてる証。私はさらに力をこめて洗う。ばしゃばしゃとぬるい水しぶきが
これで私はもう気持ち悪くない。気色悪くない。私は気持ち悪くなんてない。俺を気持ち悪いなんて言う人はどこにもいない。私はすっきりとした気分になり唇で弧を描く。
ぷかりと浮く垢は恨めしそうに私を睨んでいた。般若を思わせるその顔は私の知らない女だった。お人形さんのように愛らしかったのに。あの花を誰がこんなに踏みつけたのだろう。可哀想。なんて酷いことを。私は眼前の惨状に思わず涙した。どうして、どうして? と問う間もなく彼女は流れにさらわれて遠ざかって行く。やめて、行かないで、私の光。俺の愛。置いていかないでほしい。俺は本当に君が好きだったんだ。
「愛していたのに」
本当に、愛していたのに。わたしが、おれが、
***
ぼんやりと思考に霧がかかったようで酷くもどかしい。もどかしい、と感じられるほどには現状を理解できつつあった。
「おはよう。……どうやら僕の仕事は今日でおしまいみたいだ」
彼と顔を合わせるたびに思考は、記憶は、その内に広がる霧を濃くしていく。いや、逆だ。ほかがクリアになるせいで、常に霞みを帯びた箇所が如実に顕れるのだ。頑なに、霧を晴らさない、空白が。
「……先生」
呼んだ声は自分でもわかるほど震えていた。「先生」はそんな俺を見てもとりたてて驚くことはなく、これまでと変わらない、快活な笑みで、これまでと同じように喋りだした。
「その顔を見ればわかるよ、毎日君と話してきたからね。ちょうど二十回めか」
この人はきっと知っているのだ。俺が告白するのを待っている。きっと、この二十日間、ずっと。俺は俺がわからない。俺が誰なのかわからない。名前を聞いてもまだぴんとこない。「先生」がすすめるように触診しても、毎日いろいろな話をしても。ほかに、まだ、何か、確かめるべきことが、あるような気はしても。
俺は人殺し。それは間違いない。俺はこれから罪の告白をする。自分が犯した過ちを誰かに告白する、という行為がこんなにも怖いものだったなんて、俺は知らなかった。知らなかった? なんだろう、いま、何か既視感が……。自分から告白をするのは私は初めてで。愛の告白でもあるまいし。俺は二度めの告白を××に――。俺は……。
膝が急に震え出す。何かのはずみで傾けた箱の中身がこぼれるみたいに。混乱という渦が脳内で荒れ狂う。
それでも「先生」の声は不思議とよく聞こえた。嵐の夜の、灯台のような。
「じゃあ、今日は。彼女でも彼でもなく、ほかでもない、笹貫さん。――さあ、
〈10111001111100001100011111110010/完〉
10111001111100001100011111110010 早藤尚 @anyv-nt41
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