翳あるいは重なる者

らきむぼん/間間闇

翳あるいは重なる者


 部屋の掃除をしていると、学生時代の荷物のペンケースからフラッシュメモリが出てきた。十二色入りのアクリル絵の具の赤色のような鮮やかで単調な色合いのプラスチックで覆われたフラッシュメモリ。

 好奇心に駆られ、私はノートパソコンの電源を点ける。起動するまでの間、少々の懐かしさが喚起され始めていた。何か他人に見せるのが憚られるようなものであったような気がしている。思い出せそうで思い出せない詳細な記憶がもどかしい。

 私が学生時代の想い出に馳せていると、突然照明が切れてしまった。周囲には闇が落ち、パソコンの液晶だけが光を放っていた。風雨の音が窓の外から聞こえてくる。停電だろうか。台風が近づいているらしいので、考えられないことでもない。一応、ブレーカーを確認しに行こうと椅子から腰を上げかけると、妙なことに気付いた。

 何やら液晶の明かりが背後で仄かに拡散しているようなのだ。つまり、何もないはずの椅子の後ろから光が反射しているのだ。それに気付いた瞬間、私はゾッとして上げかけていた腰を下ろしてしまった。反射的に振り返っていたならば何のこともなく勘違いだと言い切れたかもしれなかった。しかし、一度尻込みしてしまうとどうにも何かがそこに「いる」としか思えなくなってしまった。

 私がこのような感覚に陥っている一つの原因は今読んでいる小説にある。その小説は私が所属しているミステリ小説の社会人サークルで課題本として決まった小説だった。内容はまさに今私が味わっているような背筋の凍るようなホラーと精緻なミステリが交わったような作品だ。きっと作品に感化されありもしない気配に敏感になっているのだろう。

 とは言え、私はすっかり生気を失ってしまっていた。背後の存在に気付いてからたった十数秒しか経っていないはずなのに、まるで嵐の只中の小さな山荘に数日閉じ込められたかのような疲労感だった。

 ピコン、とパソコンが立ち上がった音がした。その音に肩を跳ね上がらせて驚く自分が情けなくなる。すぐに振り返ってそこに何もないことを確認したい。しかしどうにも凝っと見られているような気配が絶えない。振り返ったら最期、という予感が行動を渋らせてしまっていた。

 パソコンの画面に、差し込んだフラッシュメモリに入っていたファイルが自動的に表示された。ファイル名は【奇譚】とある。――そうか、と記憶が蘇ってきた。私はホラー小説を自分でも書こうと思い立ち、幼い頃からの不思議な体験や、友人の恐怖体験、創作した怪談などを資料としてまとめていたのだ。今の今までその存在を忘れていたのが不思議だった。

 ――ガサッ

「!!」

 一瞬そのファイルの中身に気が逸れそうになったが、背後で布が擦れたような音がして、自分が今まさに恐怖体験の真っ只中にいることを思い出した。もう耐えられない、限界が来ていた。今すぐ振り返って恐怖心を払わねば、私は震えだす身体に力を込めた。

 その時、停電が終わり、部屋に光が戻った。身体から力が抜けていく。気配もなくなっていた。そうだ、そもそもそんな怪談地味たこと現実に起こり得るはずがない。自分の妄想に辟易すると同時に、安心もした。

 そういえば、私は一体何故収集した奇譚を封印したのだろう。ペンケースに入れていたとはいえ、それは大学時代の荷物と一緒に簡単には取り出せない位置にしまわれていた。おそらく捨てることはなくとも再び開くことは考えていなかった場所だったのだ。

 私は再び好奇心に駆られ、ファイルを開いた。中には様々なタイトルのテキストが並ぶ。【夏の翳り】【時間をお返しします】【水音】【水死】【屍声】【風鈴】【異界】……。どれも読んでみると懐かしく思うものばかりだ。中には背筋の寒くなるようなものも含まれている。

 あの頃から、もし今でも記録や収集を続けていたら、きっと良い資料になったと思う。しかし当時の私は、これを捨てるでもなく使うでもなく、ただ学生時代の思い出とともに忘れることを選んだ。それが自身の性格を顧みても不思議でならない。

 そんな疑念を持ちながら、記録された奇譚を読み進めると、その疑念を解決するヒントになりそうなテキストデータを見つけた。それは最後のテキストデータだった。つまり日付が最新のものである。タイトルは他のものと形式が少々異なっていた。私はそのテキストデータを開いてみる。


【翳あるいは重なる者についての手記】

 短い期間であったが私は幾つかの怪奇譚をここに記録していくことができた。そのことは非常に嬉しいことだった。しかし、触れてはならないものにまでその好奇心を至らせてしまったことが何よりも後悔している過ちだ。

 本当は、このテキストは私にとって最後の奇譚となる手記が記述されていた。しかし、あんなものを残していて私はこの先生きながらえることができるのだろうか。私は書き上げた手記を削除して新たにこの文章を記述している。

 祖父の家で見つけた「翳の匣」はもう処分した。しかしそれでどうにかなることではない。私自身が私自身について「重なる者」になってしまっていない保証ができないのだ。

 いや、もうやめよう、手記は消したのだ。その上こんな記録を残していたら、何の意味もない。記憶とともに全てなかったことにする。祖父はそうやって、合理主義者として生きてきた。尊敬する祖父の選択に倣おう。彼が記憶とともに匣を封印したように、私はこの記録を卒業とともに封印する。もう思い出すこともない。思い出したくない。思い出したくない。思い出したくない。思い出したくない。



「……………………なんだこれ」

 私は全身に汗をかいている事に気づいた。ぶるりと寒気が走った。これは私の文章だ。紛れもなく、私の記録だ。

 しかし記憶がない。一体私は当時何をしてしまったのだ。何を思い出したくないのだ。

 祖父は先年病に臥せ、亡くなった。私は祖父の家で何かを見た、何かをした、そういうことなのか。しかし、そんな記憶は少しもない。テキストにあった手記も書いた覚えがない。その後挿入されたであろうテキスト自体にも覚えがないのだ。

「翳の匣」「重なる者」とは、一体何なんだ――。

 頭の中を思い出せそうで思い出せない記憶の渦がキリキリとその範囲を広げていく。そして、眩暈がした刹那、再び照明が落ちた。

 部屋が再び黒い絵の具を浴びせられたように闇に染まった。

 しかし今度はパソコンのディスプレイからも明かりが消えている。完全なる闇だった。

 そして再び背後に何か悍ましい気配を感じた。先程よりも「それ」の存在は濃く感じる。最早勘違いなどではない。「それ」は私のすぐ後ろにいる。まるで影のようにーー。

 ーー影? もしかしたらーーコイツが翳、重なる者ーー?

 その時、私の右肩に冷たい何かが触れた。私は恐る恐るそれに視線を向ける、しかし暗闇が視界を遮り、「それ」が何なのか判然としない。

 いや、わかっている、わかっているのだ。それが「手」であることなんて。私は、まるで惹き寄せられるかのように、徐に右から後ろに振り返りーー。

 そして「それ」を見て、全てを思い出した。

 私は




 停電が終わると、私はパソコンのエディタを呼び出しタイトルを打ち込んだ。

 タイトルは『翳あるいは重なる者』。

 私は笑った。


 部屋の掃除をしていると、学生時代のペンケースからフラッシュメモリが出てきた。十二色入りのアクリル絵の具の赤色のような鮮やかで単純な色合いのプラスチックで覆われたフラッシュメモリ。

 好奇心に駆られ、


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