第十二章 数年後の僕は
日記を読み終えた僕は、そっと表紙を閉じた。数年前の記憶が一気に蘇ってきた。
あの事故から三年。僕はクジラの絵を描くように頼まれた。
この日記を書きはじめたのは兄さんだ。たまたま兄さんの机の棚から見付けた日記の最後が、クジラの絵を描きに行く前日で終わっていた。僕は事故により日記の続きが描けなくなった兄さんの代わりに、続きを書こうと思った。その続きを書くためには、どうしてもクジラの絵を描きに行く必要があった。
母さんにこの日記の存在を伝えた後に、フランクフルトに行きたいと話をしたら、すごく心配していた。僕まで、兄さんと同じようにいなくならないかと。
でもこうしてクジラの絵を描き、無事に帰ってきた。僕は兄さんの分まで強く生きていこうとあのときに感じたのだった。その気持ちを、改めて日記を通して思い出させてくれた。
――僕は何がしたかったんだっけ。
厳しい父さんに、「お前は人のためになることを仕事にしろ」と言われた。それから絵を描くことを辞め、弁護士になるべく、勉強をすることとなった。その勉強の日々は思った以上に自分にとって、苦しいものであった。絵を描きたいという気持ちに蓋をして、目の前に広げた書物を何とか読み続けた。
――嫌だ。やりたくない。本当にやりたいことは、これじゃない。そんな気持ちに、嘘をつき続けていた。
改めて、何がしたかったのかを思い直す。兄さんの分まで生きようと思った。兄さんの分まで絵を描こうと思った。兄さんが見ることのできなかった世界を代わりに見ようと思った。もっともっと、絵を描きたいと思った。フランクフルトで絵を描いた思い出は、それほど僕の人生にとって、一番素敵なんじゃないかと思うくらい、思い出深いものだった。絵を描いている時は、自分が自分でいられる気がする。絵を描けば、少なくともミイ、母さんが喜んでくれる。それだけでも僕は十分に、嬉しい。
――日記を読み終えた今の僕の目に映る景色は、少しだけ色味を取り戻したように感じた。少しずつだが、心が僕との会話に応じてくれそうだ。
過去は振り返らないものだという人もいる。けれども、たしかに今の僕を形作ったのは過去だ。過去がなければ、今の僕はいない。僕はある日を境に、その支えをうっかり離してしまったのだろう。支えは現実にあるものだけではない。もう現実にないものでも、支えとなるものはいくらでもある。今の僕がそうだ。
僕はずっと一人でいるような気持ちだった。けれども、僕の人生にはたしかに支えがいる。兄さん。母さん。ミイ。先生。友達。あのときの絵描きさん。きっとまだ、支えになってくれる人はたくさんいるだろう。
――完全に絵の道に進むことは無謀かもしれないけれども、少しくらい、描いたって、いいじゃないか。気概が一気に、湧いてきた。
「ミイ」
そっとミイを呼ぶ。遠慮がちに距離を置いていたその身を動かし、僕の元へとやってきた。
「みやああ」
「ミイ、僕はまた絵を描こうと思う。ずいぶんと久しぶりだから、筆の握り方とか、色の塗り方とか、忘れちゃったけど」
「みやあああ」
ミイが、それはもう嬉しそうに鳴いた。すっかりおばあちゃんとなったミイも、僕の絵のことは忘れていないようだ。
僕は鉛筆を取り出した。白い紙の上をそっとなぞるようにそのミイの輪郭を描く。昔描いたときよりも、すっかりミイは痩せ細ってしまった。このまま描くのは可哀想だから、少し肉を付けてあげよう。
そしてミイの隣には僕。ミイをしっかりと抱きかかえ、澄んだ目で正面を見つめるような表情で。今の僕よりもはるかに凛々しい。僕はその理想を描き上げる。
最後に、もう一人追加しようとした。
「ミイ、やっぱり僕が抱きかかえるのは辞めるよ。君のことを抱きたがっている人がいる」
僕は先ほど描いた自分の腕を消した。そして、追加した人物の腕が伸びる。大事そうにミイを抱える表情は晴れやかだった。ああ、こうやって過ごすことができたなら。
「みやあああああ」
ミイは寂しく鳴いた。まるで兄さんを想うかのように。
僕は理想を描きたい。そしてその理想を持って、現実世界で生き続けたい。
誰もが自由で、誰もが平和で、誰もが誰かの支えになるような、そんな世界でありたい。
――僕はこれからもずっと、絵を描き続ける。そう決めた、十八歳の十二月一日であった。
ミイとクジラ ふっふー @nyanfuu1818
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