第十一章 ただいま

「お母さん、ただいま」

 帰り道はあっという間だった。疲労もあり、列車の中ではすっかりうとうとしてしまっていた。気付いたら家に着いていたといってもよさそうだ。

 ――お母さんは僕の顔を見るなり、安心したのか泣いてしまった。

「ああ、よかった。無事に帰ってきて」

「ごめん、やっぱり心配させてしまってたね。少しでも電話すればよかった」

 そう言う僕を、お母さんは優しい表情で見つめる。そう。お父さんは単身赴任でこの家にほとんど帰ってこないから、もし僕が帰ってこなかったら、お母さんを一人にしてしまうことになる。きっとお父さんが今朝この家にいたのなら、この旅を止めに入っただろう。お母さんは、心配な気持ちがありつつも、僕の「描きたい」という気持ちを汲んでくれた。

「ありがとう。クジラの絵を描いてきてくれて」

 そう言うお母さんの声はいつもよりも優しい。

「いいんだよ。僕にできることはこれくらいしかないからさ」

「あら? その猫は?」

「この子は、フランクフルトで出会った猫なんだ」

「あら、すっかり懐いちゃったのね。大丈夫よ、猫の飼い方は知っているから」

 よかった。ミイはこの家の家族になりそうだ。僕も胸を撫で下ろす。

「みやあああ」

 元気よく鳴くミイのおかげか、湿っぽくなった雰囲気が一気に明るくなった。

「お母さん、ミイとクジラって本、知っている?」

 お母さんはその名前を聞いた瞬間、ふと思い出したように、固まった。

 やはり、この本なんだね。

 あのときに兄さんが描こうとした世界のもとはこれなんだ。

「僕はね、この本の世界を絵にしたんだ」

「あらまあ……」

 その後の言葉が続かなかった。何かを思い出しているようだった。

 ミイを見る。ミイも僕を見た。何かを訴えようとしているような目だった。

 ――うん、わかった。僕の部屋に行こう。

 僕の部屋は、本来は僕だけの部屋ではなかった。この部屋で何年か、同じ時を兄さんと過ごした。

「やっぱり、クジラの絵を描いてきてよかったよ」

 こうやってミイと出会った。ミイを連れて帰ることができた。そして、ミイが見たがっていたものをこうして見せることができる。

「これが僕の絵。そしてこれが、兄さんが描こうとした絵」

 僕の絵と兄さんの絵を並べる。題材が同じだからか、構図はとても似ていた。

 ――兄さんの絵は完成しなかったけど。

「兄さん、描いてきたよ。あと、ミイも一緒だよ」

 空の遠く、フランクフルトの方を見つめる。

 マイン川の橋の上で、兄さんがクジラを描く姿がふと見えた気がした。

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