第6話

 雨が少し弱くなったのを見計らって、ふもとの祖父の家に戻った。傘を借りるために行ったつもりだったが、ずぶ濡れになった二人を母は強引に引き入れた。


 康介は少女と引き離された。少女は祖母に連れられて別の部屋で着替えさせるらしい。康介は母に連れられた部屋で、服を脱がされそうになる。康介はそれに必死で抵抗した。


「何やってんの。服濡れてるんだから」


「自分でやれるよ」


 恥ずかしくなって、康介の声が大きくなる。


「今更恥ずかしがってどうするのよ。小さなころから散々見てきたんだから」


 そう言って、また強引に脱がせようとする。


 康介の羞恥心を嫌悪が塗りつぶしていく。


「大丈夫だって」


 康介は声を荒げ、母を強く突き放す。


「ごめん」


 母は弱々しく笑いながら呟いた。


「お母さん、あっち行ってるから着替えなさいね。濡れたのは洗濯機に入れときなさい」


 そうして、逃げるように部屋から出ていく。


 自分は悪くない。仕方ない。康介は心中でそう呟く。


 康介はまた先程のように母の弱さを見るのは避けたいと思った。そうして再び、祖父に責められることもどうにかして避けたかった。だからどうにかすぐにこの家を後にしたい。しかし、少女をそのまま置いていくわけにはいかない。着替えながら康介は考えた。


 着替え終わり康介は部屋から出て、足音を消して歩く。少女はどこにいるのだろうか。もしかしたら居間に連行されているのかもしれない。


 居間に近づいていくと話し声が聞こえる。


「どうすればいいのか、わからない」


 母の声だ。康介は部屋のそばで耳を澄ます。


「なんともないようなことをずっと言っとったじゃないか。それが昨日になって急に駄目だと言われたって知らんよ」


 祖父の声が聞こえる。


「どうにもならんくなってからどうにかしようとして、上手いことなるわけないだろう」


「そりゃ、そうだろうけど……」


 祖父の厳しい声に母の弱々しい声が応える。康介は自身が責められているような気持ちになった。そして、思い出すのは毎晩行われる父と母の口論のこと。思わず耳を塞いで、その場へとうずくまる。


 自分はこれから一体何をどうすればいいのだろうか。これまでどうしていればよかったのだろうか。聞けば、祖父は教えてくれるのだろうか。おそらくは母にするように厳しく責め立ててきっとすんなり何かを授けてはくれないだろう。


 どうして祖父はそんなふうにふんぞり返っているのだろう。康介に対しても、母に対しても厳しいことを言う祖父はどれほど立派な人間なのだろう。


 ふいに康介の肩に何かが当たった。


 はっとして見ると、祖母が立っている。その後ろ、隠れるように少女がいる。


「大丈夫?顔が真っ青」


 少女が康介のそばに来てしゃがみ込み、頬に優しく触れる。


 少女の像が歪む。康介は顔を背けて、右手で目元を拭う。


「康介くん?」


 少女が名前を呼んだ。それは何だかくすぐったくて、康介の羞恥心を増加させた。


「もう行こう」


 康介はそう言って、立ち上がると少女の手を掴む。


「康介、どこへ行くの」


 祖母が言う。


「傘借りる」


 傘立てに刺さった2本を取って、片方を少女に渡す。そして、玄関から飛び出した。


 外はまだ雨が降りやまない。空一面にもやもやと雲が張り付いている。


 康介は何となく、墓地とは違う方向へ歩き出す。少女は何にも言わずに康介について来る。どこへ行こうというあてもないが、学校へ行こうという気はない。


「それでいいの?」


 少女の言葉は静かだが、雨の音を貫いてしっかりと康介の耳に届く。


「何が?」


 逃げるなということなのだろうか。


「傘」


 そう言って、康介の持つ傘を指差す。見ると、康介の持つ傘は白地に鮮やかな花がいくつも散りばめられている。一方、少女が持つのは黒の無地と飾り気がない傘である。康介は傘には全く注意を置いていなかった。


「派手なのが好き?」


「いや、違う。換えて」


 そう言って、康介は少女に傘を差しだす。


「嫌だ。そんなおばさんみたいなのは趣味じゃないから」


 少女は笑う。


「ねえ、着替えなかったの?」


 少女の服装は変わっていない。制服のままである。


「うん。拭いてもらっただけ」


 少女はくるりと一回まわってみせる。


「大丈夫なの?」


 康介は心配になる。


「大丈夫だよ。こう見えても、私は体が強いんだよ」


 少女の体は細い。康介の弱い力でも折ることが出来そうなほどに。本人がそうは言っても、康介には信じることができない。


「君の方が心配だよ。大丈夫?」


 少女の言葉に、康介は先程晒してしまった醜態を思い出し、顔が熱くなる。


「ごめん、君まで巻き込んじゃって」


「ううん、平気」


 少女は微笑んだ。


「学校行く?」


 何となく尋ねる。もしかしたら、少女にはその気があるのかもしれない。


「その格好で?」


「僕は行かない」


「学校楽しくない?」


「あんなところを楽しいと思う人はおかしい」


 そうは言ったが、康介にも学校が楽しいと思える時はあった。しかしその時に思いを馳せると、現在の康介は過去の康介へと嫌悪感を抱いてしまう。


「私は楽しかった」


「それじゃあ、行けば?」


 突き放すような言い方をしてしまう。


「でも、もう楽しいと思っちゃいけない」


 少女は悲しそうに笑う。


「どうして?」


 少女はきっと聞いて欲しいのだ。康介はそう言い訳をつけて、踏み込む。


「学校で少し噂になっているみたいだから、知っているでしょう」


 少女は自嘲めいた笑いを見せる。


「何が」


 亮二が言っていたことを思い出す。


「私はいじめられて、転校したから」


 雨の音が強くなったような気がした。単に雨が強くなったのか、それともそうであって欲しくなかった現実をかき消すために、外から音を多く取り入れようと耳が働いているのか。


「それなら、こっちで新しく始めればいいじゃないか」


 過去の人間関係を転校という形で断ち切って尚、何故彼女は苦しむのか。またそうなるのではという恐怖に震えているのだろうか。


「私だけ始めるわけにはいかない」


「私だけ?」


 少女は弱々しく笑ってみせる。


「そう、私は置き去りにしてきたんだ。あの子はきっとまだ苦しんでいる。私だけ解き放たれてはいけない」


 彼女の嘆きはとても静かだが、雨の音にかき消されることはない。気付けば二人の歩みは止まっている。これは果たしてどちらが先に足を止めたのだろうか。康介は分からない。歩みを進めようか、どうしようか。彼女を率いて先へ進むべきか。彼女とともに、止まったままでいるべきか。


「置き去りって、どういうこと?」


 先を促すような言葉を吐いてしまう。雨の中の立ち話は少し辛い。どこか腰を落ち着ける場所へ行きたいと康介は思う。


「いじめられていたのは最初は私じゃなかった。あの子でもなかった。名前も知らない。同じ学年だけど他のクラスの人……だったみたい。いじめって本当に他人事で、私には全く関係のないことだから、知ろうなんて思わなかった。

いじめている奴らのことは知ってた。いつも4人でつるんで、でかい態度で騒いでばっかりの連中だったから。でもそれ以外何にも知らない」


 言葉が次々と紡がれる。吐き出す機会が訪れることを待っていたのかもしれない。


「私たちはいつも二人だけだったからまわりなんてどうでもよかった。あの子はとても仲の良い友達だったの。唯一私の友達と呼べる大切な人。あの子さえいればあとは本当にどうでも良かった」


 少女は表情を陰らせる。康介は何も言わない。彼女の言葉を受け止めることで精一杯である。


「ある日、私たちに向けられているとんがった視線に気づいた。それに私は何も思わなかった。そもそも仲良くしていたわけではなかったから。それでいたずらされるようになって、ああ標的にされたんだと分かった。だけどそれでもあんまり何も思わなかった。でもそれがどんどんエスカレートしてくの。たとえば、最初は靴を隠されるくらいだったのが、直接私を攻撃するようになった。私がトイレに行ったら、後ろからついてきて、頭を掴まれて便器の中に突っ込まれたり、歩いていたら足を引っかけられて転ばされたりとか。でもやられるのは最初、ずっと私一人だった」


 光景を浮かべてみると、康介は胸がひどく苦しくなる。


「あの子は遠巻きに私がやられるのを見ていた。悲しかったけれど、巻き込んじゃう方が嫌だから、良かったの。それに私だって、やられっぱなしじゃない。私に直接危害を加えようとするのはでかい顔している4人。そいつらを私も暴力で迎えた。リーダーっぽい奴には特に思い切ってやった」


 康介は少女の細い腕を見てしまう。それと暴力とは結び付けることができない。


「結構、目立っていたと思うんだけど、誰も止めないの。教師も、誰も。何だろう、私、面白いと思っちゃったの。それで、彼女たちに暴力を振るうことも面白くなってきちゃって。それで、一人に大怪我させちゃった。そうしたらやっと問題になって、私は1週間停学させられて……。

1週間後に学校行ったら、あの子がいじめられていた。どうしようかと私は一瞬迷った。でも、助けに入った。迷ったのは遠巻きに眺めるあの子の姿を思い出したから。それからずっと話してなかったなあって。なんかずいぶんと長い間独りだったような気がして、寂しくなって。少しすっとしたの。それで怖くなった。

 あの子がひどい目に合うのを見て、そんなふうに私が思うはずない。だから、必死になった。そうすれば、あの子との楽しい学校生活を取り戻せると思った。でも、ふとあの子を見たら、いじめている奴らを見るのと同じような、怯えた目で私を見ていた」


 少女の口から乾いた笑いが漏れる。


「もうどうでも良くなって、抵抗することもやめて、あの子と私は二人で一緒にいじめられた。何をされたか、それ以降はあんまり覚えてない。

 いつもボロボロだったって、お母さんが言ってた。それで転校させなきゃって思ったって……。覚えてないって言ったら、とても辛そうにしてた。私は何も話さないから、学校に問い合わせても誰も知らないって言われて、そうするしかないって思ったって。

 転校することになったって前に立たされて、挨拶させられた。その時のあの子の顔が忘れられない。

……睨んでた。視線で射抜いて殺そうとするみたいに私を睨んでた」


 ふっと少女が一息吐いた。その音を聞いて、康介は自分の呼吸がいつからか止まっていたことに気付き空気を取り込む。


 少女が歩みを始める。康介もそうしようとするが、足が固まって上手く動かない。とっさに少女の腕を掴んでしまう。


「どうしたの?」


 少女が眉を顰める。


「足動かない」


「何それ」


 少女は笑う。


 康介の体が力強く引かれる。それに続くように足が前に出る。それほど強く掴んでいなかった康介の手は少女の腕からするりとほどけ、前のめりに倒れそうになる。少女の体がそれを柔らかく受け止めた。細い体の感触に康介は驚く。少女は優しく康介の体を立て直す。


「何してんの」


 少女は無邪気に笑う。


「急に引っ張るから」


 恥ずかしくなって康介は顔をそらす。そして、動くようになった足で先へ踏み出す。しかし、さあっと少女が康介を追い越し、止まらずそのまま駆けて行く。少女は康介を顧みない。康介は少女を追いかけようと駆け出す。少女の足は速く、追いつくどころかその背中はじわじわ離れていく。


「待って」


 康介は息を切らしながら言うが、届かない。そのままどこへ行くのだろう。ここで彼女に届かなければ、もう二度と会えない。そんなふうに康介は感じてしまう。


 少女の内側を一部覗いた。それで少し彼女へと近づいていけるように感じた。けれど、全くそんなことはなかった。それを思い知らされているのかもしれない。


羽山はやま千歌ちか


 ぼそりと呟くのは先程聞いた少女の名前。口に出して言うのは初めてのこと。ようやく名前を知った彼女のことを康介は本当に何も知らない。彼女が今、何を思い走っているのか、その推測もつかない。


 ついに康介は体力を切らし、その場へと足を止める。そして息を切らしながら、5m、10mと離れていく少女の背を睨む。康介の内に積もっているものへ彼女に対する苛立ちが重なる。しかし、それは混ぜてはならない。


「羽山千歌」


 叫び、怒りを外へ放り出す。何かが一緒に飛び出したような気がした。それが何であるかという自覚は康介にない。


 ぴたりと少女が足を止めた。


「何してんだよ。わけ分かんない」


 怒る康介の叫びは少女を振り向かせた。康介は少し俯き、傘を傾け、その顔を見ないようにする。

少女が近づいてくる。先程は必死で走っても近づけなかったはずが、容易にその距離は縮まってしまう。


「いつ名前呼んでくれるのかなって思ってたんだけど、すごい乱暴だね」


 何にも言わずに俯いたまま、康介は彼女の足だけ見つめる。


「ねえ」


 少女の顔が康介の目の前に急に現れる。驚いて康介は2、3歩後ずさる。


「怒ってるの?」


 笑いながら、少女は首を傾げる。


「別に」


「分かりやすいね」


 にやにやと笑う少女を康介は睨む。


「さっきみたいにさ、叫んだらいいんだよ」


 優しい声色で少女が言う。


「何のことだよ」


 康介は分かっている。しかし、反射的に反発してしまう。


「分かっているでしょ?」


 それを見透かしたように少女が微笑む。


「そんなことできない」


「何で?」


「当たり前だろ」


「どうして?」


 何も言うことができなくなって、康介は歩き出す。少女も隣に並び歩く。


「どこへ行く?」


「分かんない」


 康介はこれから先のことを考えて、憂鬱な思いになる。


 雨はいつのまにか上がっていた。派手な花柄の傘を閉じて鬱憤を晴らした空を見上げながら、康介は向かう先をどうしようか考えていた。

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そらをとぶ 海谷羽良 @umitaniharu

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