第5話

 母は結局朝になっても帰ってこなかった。しかし、父は何事もなかったかのようにいつも通りに仕事へ出かけて行った。


 康介は昨夜から眠ることなく、母が帰ってくるのを自らの部屋で静かに待った。明かりもつけず、ベッドの上で膝を抱え、物音を聞き漏らさないように耳を澄ました。夜は途轍もなく長かった。眠らずに過ごす夜はこんなにも長く寂しいものなのだと初めて知った。


 朝ご飯は父が焼いた食パンを一枚食べた。腹は膨れないが我慢することに決めた。


 いつもの朝ならば、父が出かけた後の家にはまだ母が残っており、康介が学校へ行くのを見送った。けれども今は康介が一人で残るのみだ。こんなことは今まで一度もなかった。一体どうすればいいのだろうかと康介は悩む。


 どうして父はいつも通りに過ごせたのだろう。あれが正解なのだろうか。このまま中学校へ行けば良いのだろうか。そもそも母はどこへ行ったのだろうか。喧嘩の果てに自ら出て行ったのか、父に追い出されてしまったのか、行く当てはあるのか、考えだしたら尽きない。


 こんなままに学校へ行けるはずがない。しかし、一人でずっと家にいることは不安に押し潰されそうになる。そう考えれば、一つだけ行くべき場所が思い浮かぶ。


 まだ少し登校時間には早い。それは康介にとって都合が良かった。誰かに見られてしまうことは避けたい。


 康介は風呂にも入っていなかったので、シャワーをさっと浴びて、Tシャツとジーパンに着替え、キャップを目深に被って、自転車に跨った。



 今日もどんよりとした曇り空である。一体いつ雨が降るのだろう。


 行く最中に、老人がもそもそと徘徊している様子がぽつぽつとある。彼らも油断ならない。そばを通るときは顔を見られないようにして過ぎる。


 そうやって向かったのはやはり墓地だ。いつもみたいに階段を数えて上がっていくと康介は少しずつ心が平穏に近づいていくような気になる。墓石が規則的に並んでいる中を歩き、幸広のいる場所へと近づいていく。すると、その前に人影があるのが見える。


 その顔を見ると、康介は最近まで負の感情しか湧かなかった。どうして幸広の墓へ行くことをそんなにも怒るのか、どうして父とあんなふうに喧嘩ばかりするのか。


 これほど穏やかな表情の母は見たことがなかったかもしれない。幸広の前だといつもそうだったのだろうか。手を合わせ、瞑目しながら、母は幸広に何を語っているのだろう。目を開き、幸広へ微笑んで康介の方へ向きを変えた。母は驚いたように目を見開く。


「何してるの」


 いつものように怒るようなことはないが、先程のような穏やかさもない。


「母さんこそどこにいたの」


「ちょっとおじいちゃんちに行ってたの。お父さんの方じゃなくて、お母さんの方の」


 母の実家は近くにあるといつか聞いた。父の実家に行くことはあったが、母の方には康介は行ったことがない。


 父方の祖父は幸広の一年前に亡くなっている。祖父は一度として康介の名前を呼んだことがなかった。毎度訪ねるたびに知らない子供が来たかのように言い、母に対しても知らない人間だと冷たく当たった。病気だから仕方ないのだと父がよく言った。


 病気であれば何でも許されるのなら、自分も病気になりたいと康介は思う。そうすれば、幸広のもとへもいけるかもしれない。


「幸広のお墓にはしばらく来ていなかったけど、綺麗だね。ありがとう。康介がやってくれているんでしょう」


 康介が母に礼を言われたことは初めてかもしれない。それもいつも責められていることで言われるなど、思ってもみなかった。


 しかし、康介は首を横に揺すった。これは康介のやったことではない。


「いつもきれいだから僕もなんもしてない」


「そう……誰だろう」


 母は眉を顰める。


「あんた、学校は」


 はっとしたように、母が言う。


「母さんいないから……」


 康介は怒られることに備える。


「そう、ごめんね。何も言わずに出ちゃって」


 母は軽く俯きながら、静かに言う。


 自分に何かできたことがあったのだろうか。康介はふと考える。二人の仲介役として自分が喧嘩をおさめることが出来ただろうか。


 そういえば、母とこんなふうにじっくり顔を合わせたのは久しぶりかもしれない。何か変わっただろうか。よく分からない。


 幸広が死んでからはいろいろなことから顔を背け続けてきた。


「父さんと喧嘩してるの?」


 康介が尋ねると、母は顔を俯ける。理由を聞いていいのだろうか、康介は悩む。今更踏み込むことが許されるのだろうか。


「昨日夜ご飯食べた?」


 母が弱々しく笑う。康介は首を横に振る。


「朝ご飯は?」


「パン食べた」


「それじゃ、お腹すいてるでしょ。おじいちゃんちこの近くだから、行こう」


 言うと、母は康介の手を引く。それに強引な感じはなく、選択できる余地が康介にはあった。


 本当の心を康介自身、図り損ねていることの多い最近である。ここでの本心はどこにあるのかを康介は探る。


 こういうときに康介には反発心が生まれる。それは本意とは違うものであるが、覆い隠してしまい、そうであるかのように振る舞う。従って行動した後に、どうしてそんなふうに動いたのかと自身を責めることが多い。


 母の手の力は弱い。力の強くない康介でも簡単に振り解けてしまいそうである。そうしてしまいたい衝動が康介の中に生まれる。しかし、その手は母の命綱であるかのようにも感じられてしまう。それが母との今生の別れになってしまうような予感がしている。


 母の弱い力で康介はたやすく動いていく。何にも決められないままに。


 流れに乗ってプカプカ浮かんでいることが一番心地よいのかもしれない。


 すると、向かいから少女が歩いてくるのが見える。


「おはようございます」


「おはよう」


 少女と母が挨拶を交わす。康介はすれ違う時に少女の顔を何故か見ることができなかった。


「康介、知っている子?どうしてこんなに朝早くにこんなところにいるんだろう」


「見たことあるけど知らない」


 後ろ髪を引かれてその緩やかな流れに抵抗が生まれる。


 康介は振り返り少女に目を向ける。その後ろ姿を見つめていると重なるものが頭の中にあるような気がする。


 もしかしたら、そうではないかと思ってはいた。


「康介」


 心配するような母が聞こえる。流れが変わったような感覚がある。しかし、康介は母とともに行くことを今度は自らで選んだ。


 母に連れられて行った祖父の家は墓地へ上がる坂のふもとにあった。驚いたのは祖父が墓でよく会うあのおじいさんだったことだ。祖父は自分のことを認識していたのかもしれないと康介は思った。


 祖父と祖母と母と4人で朝ご飯を食べた。康介はお腹がひどく減っていたので、いつもより多く食べた。


「学校なんて行かんでええ」


 祖父が言う。


「そんなわけないでしょう。今日は特別なんだから」


 母が言い返す。


「二人で話したいんだから、あんたは口を出すんじゃないよ」


 祖母が祖父に向かって言う。


「分かっとるよ。別に何にも口出しとりゃあせんよ」


 祖父はうんざりするように言った。


「あの子は死んだ後にも何で現世のことで気に病まなきゃならんのか。体を病んで気まで病んで、酷なことだと思わんのか」


 祖父が止まらず話す。


「家族がどうしてうまくいっていないのか。その原因はなんだ」


 祖父の厳しい目が母に向けられる。


「幸広が死んでから、康介がすごく落ち込んでいることは分かっている。それで性格も暗くなって、友達とも遊ばなくなって……。でも何にもすることができなかった。どうしていいか分からなかったし、すぐに元気になるだろうと思った。それに私だって悲しかったし」


 康介と母の視線が交わる。 


「あの人は全く関心がなかった。幸広が入院しているときも私一人に全てを押しつけて、康介のことも勝手になんとかなるって言って」


 あらためてそんなふうに打ち明けられるとその責任を押しつけられたような気になる。


 母も苦しんでいた。分からないわけではなかった。


「康介、お前はどうしたいのか」


 祖父が康介に向かい、言う。


 どうしたいかなんて、そんなものは何もない。


「知らない、分かんない」


「自分のしたいことがないわけないだろう」


 きっと自分に何か望むことがあるのだろうと康介は思った。しかし、それが何かということは全く見当がつかない。


「そんなものない」


 康介は立ち上がる。そして、その場から逃げるように立ち去る。


 やはり、あそこで引き返しておくべきだった。家族のことは自分には背負えるようなものではない。康介は悔やむ。


 走って坂を上がる。すぐに息が切れるが、足は止めない。


 雨がぽつぽつと顔に当たり始める。それは何だか心地がよい。


 ついに彼女の後姿が見えるところまで来た。その後ろ姿はやはり見覚えがある。最近になって表れた後ろ姿だ。


「おはよう」


 近くまで行くと少女が振り返らずに言った。


「君の足音と息遣いで分かっちゃった」


 そう言って振り返って、微笑んだ。


 康介は膝に手をついて中腰となり、息を整えようと努める。


「学校行かないの?」


 少女が尋ねる。


「お前こそ」


「そうだね」


 少女は笑う。


「さっきの人はお母さんでしょう?怒られたんじゃないの?それで引っ張られて学校へ行くんだと思ったんだけど」


「怒られてはない」


「そうなんだ。つまんない」


 少女は呟いて、微笑する。


「同じクラスだったんだな」


「そうなの?」


 後ろ姿を康介が見ただけだ。少女が知らなくて当然だと思うも、やはり残念にも思う。


「そうだよ。今度来たときはもう少し周りを見てみるといいよ」


「うん」


 少女は悲しそうに笑う。


 彼女の事情に踏み込むべきではない。亮二の言っていたことの真偽を確かめる権利はない。それを背負い込む覚悟は自分には全くないのだから、好奇心に従って行動してはならない。康介は自らを戒める。


 そうすると言葉が出ない。沈黙が場を包む。


 ぽつぽつと降っていた雨だったが、少しずつ強くなっている。そのうちばーっと地面にぶつかる音を上げるようになる。


 康介自身は濡れることが嫌ではなかったが、少女が濡れるのは心配になった。少女は傘を持っていない上に、避けようとする様子もない。康介は少女の手を引き、近くの木陰に逃げ込んだ。木陰は二人の体を完全に覆ってはくれない。康介と少女の距離は近くなる。経験したことのないような緊張感が康介を襲う。


「降ってきちゃったね」


 他人事のように少女が笑う。康介は何も言葉を返すことができない。


「ねえ、私のことを知ってるの?」


 囁く声と息遣いが間近にあることがこそばゆい。


「転校生なんだろ。それくらいしか知らない」


「私のこと、知りたい?」


 微笑む少女の真意は何か。それは康介には図れない。その言葉に惹かれる思いが大きいが、少し恐ろしくも感じてしまう。


「名前を聞きたい」


「そうだね。名前も知らないんじゃあ友達にもなれないね」


 目の前の少女のことを知りたい。名前も知らない彼女のことを。


 それならば、まずは名前から知りたい。


 康介と少女は初めて、お互いの名前を知った。

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