第4話
たいしたものを得られなかった上に、面倒なことになってしまった。
「今度、聞かせてもらうからね」
と満面の笑みで言う亮二は何だかとても恐ろしかった。
どうしたものかと考えながら、康介は喫茶店から来た道を戻り中学校へと行き、尾行のために乗り捨てた自転車を回収に行く。そして自転車に乗り、本来行く予定であった墓地へ向けてペダルを踏んだ。
坂道を全力で漕いで行く。いつもであれば自転車を押して上るが、このときは自転車に乗ったまま坂を上りきりたかった。亮二の尾行のときには静まっていた苛立ちが康介をまた襲っていた。それを発散するように立ち漕ぎでペダルを力いっぱい踏む。
ペダルは徐々に抗う力を強くする。それに対抗して康介も踏む力を強める。しかし、康介は体力のある方ではないし運動なんて体育の授業以外にはしない。そんな人間が勝てるほどに坂は弱くはない。まだ四分の一にも達していないところで康介の足は悲鳴を上げる。それでも必死に漕いでなんとか半分ほどまで到達したが、すでに体力の方は限界に達している。呼吸をするのが苦しい。足は重たいペダルを踏み続けて感覚が鈍くなってきている。どうして自分はこんなことをしているのだろうと不意に康介は思った。
康介は坂の真ん中でペダルから足を離し地面へと置く。そして、ふと空を見上げてみる。青空は望めず、灰色の雲がもやもやと一面を覆っている。今にも雨が降り出しそうな具合である。そういえば梅雨だというのに二、三日雨が降っていない。たまった鬱憤を吐き出したくてうずうずとしているのであろうか。
康介はうらやましいと思う。雨という形でたまったものを吐き出せる空を。
何かもやもやしたものを心に抱えても、康介はそれをどう処理していいのかわからない。今現在の康介の状況がそうである。ここ最近の康介はずっともやもやしたものを心に抱えている。しかし、吐き出す術を知らないからそれは康介の心の中に滞在し続け、うずうずとうごめきながら何か得体のしれないものへと姿を変えていこうとしている。
もやもやの原因は何か。それは幸広との死別が発端であるのではないか。幸広が病気で死んでしまってから、康介はかなり変わった。とても明るい元気のある少年だったのに随分と暗くなり塞ぎこむようになった。友達も大勢いたが、彼らを自ら突き放した。おかげで友達の多くは離れていき、現在友達と呼べるのはかろうじて亮二くらいのものである。
幸広は康介にとってたった一人の兄弟であった。その唯一無二の存在との別れがあのような形になってしまったことが何よりの悔いとなって康介の心に大きな傷を残しているのである。
最後に仲良く過ごし、幸広の心からの笑顔を見れたなら、ここまで引きずることはなかっただろう。最後に傷つけてしまったという事実はこれまで仲良くしてきたことや楽しかった思い出などをすべて打ち消して、康介の心に重くのしかかる。それはまるで康介が幸広を傷つけてしかいなかったように錯覚させる。
幸広が死んでしまった悲しみは癒えたがその傷は未だに癒えない。というよりも康介自身がそうなることを拒んでいる。そうなってしまえば幸広のことをきれいさっぱり忘れてしまう気がしてならない。だから癒えてしまう前に自らの手でもう一度その傷を広げる。毎日毎日幸広の墓の前で懺悔することで康介は自分自身を傷つけた。
そんな日々を過ごすことで康介の心の中にもやもやしたものが生まれた。しかし、それを自覚することはなかった。生まれたときそれはほんの小さなものであった。それが康介の中に寄生し長い時間をかけて成長した。成長したもやもやは康介にも変化を与えようとしている。
そして康介だけではなく、両親の問題もある。それも日々康介の中に鬱憤を積もらせていく。
呼吸を整え、康介はもう一度自転車のペダルを踏み出す。しかし、先程よりも一層強い抵抗を示すペダルに康介の足はすぐさま音を上げる。康介はしばらく意地になって漕ぎ続けるがそれも長くは続かない。またもや自転車は動きを止めた。
康介はもうあきらめて自転車を降りて、押して上ることにした。
そこからの道のりはそんなはずもないのだが、何だかいつもより長い気がした。いつも数えながら上る石段もいつもより段数が多い気がしたが、二百段と変わりはなかった。
康介はそんな道のりの中で自らの行動を少し後悔した。
幸広の墓参りを終え、康介は墓地の奥にいつものように足を運んだ。するとそこには誰かがいた。その後姿には見覚えがあった。昨日会ったばかりの悲しそうに笑うあの少女である。少女は柵にもたれて景色を見下ろしている。
どうしようかと康介は迷う。彼女に声をかけようか、それともそのまま帰ろうかと。そんなことを考えながら佇んでいると康介のいる気配を感じたのか少女が振り向いた。
「君もまた来たんだね」
そう言って少女は微笑む。
「僕はここに毎日来ているから……」
「そうなんだ。じゃあ、もしかして私は邪魔なのかな?」
少女は不安げな顔をする。
「別にそんなことはないよ。それにここは僕のってわけじゃないし」
「そう、よかった」
少女はぱあっと笑顔になる。
そうは言ったが、実を言えば康介は一人きりになれるこの場所を自分以外の誰かに侵されたくはなかった。長い間自分だけの場所だったのである。それが突然に変わってしまうのはやはりすんなりと受け入れることはできない。しかし、康介が自分で言ったようにこの場所は康介の場所というわけではない。だから康介に他人が踏み込むことを禁止するような権利はない。康介は心の中で小さくため息を吐く。
「でも、君はいつもここで何をしているの?」
「別に何も」
少女はふふふと声に出して笑う。
「何それ変なの」
「じゃあ、お前はここで何をしていたんだよ」
康介は笑われて少しむっとなる。康介にそう言われて少女は右手を頬に添えてうーんと唸り、考えるような素振りを見せる。
「そうだね。私も特に何もしてなかった」
「じゃあ、お前だって変な奴じゃないか」
「そうかも。……じゃあ私たちは似た者同士だね」
少女は微笑む。
もしかしたら彼女がこの場所に来た理由は自分と同じなのかもしれない。どのような事情があるのかはわからないが、何かを抱えており、それを一時でも忘れていたいということなのかもしれない。一人になることができ、何かを考えることを放棄することができるこの場所はそんな彼女を引き寄せたのだろうか。少女のあの悲しみを含んだ笑顔は康介にそんな考えを起こさせる。
「あのお墓は誰のお墓なの?」
少女は不意にそんなことを聞く。瞬間、康介は体の熱がすっと抜けていくような感覚に襲われる。
「気付いていなかったの?私、君がお墓に拝んでいるときに後ろを通ったんだよ」
康介は何も言わない。何を言ったらいいのかわからなかった。
自分と同じ中学に通っているであろう目の前の少女が誰かにそれを言いふらしでもすれば、康介が守ってきた秘密は秘密ではなくなってしまう。
康介は自分がおかしなことをしているという自覚はあった。だから誰にも知られないように毎日行ってきたのだ。おかしくたってそうする以外に幸広に対する気持ちをどうすればいいのかわからなかった。まともな方法があるのであれば誰か教えてほしいと康介はいつも思う。
「私、おかしなこと聞いた?」
康介の様子を変に思ったのか、少女は訝しげな視線を向ける。
「弟の墓だよ。二年前に死んだんだ」
康介はもしかしたら同じようなものを抱えているかもしれない少女に話してみることで何かが変わるかもしれないと思った。言いふらされてしまう危険もあるが、それを聞いたところで実際誰も大きな問題として扱うことはないだろう。それが康介と幸広だけのものでなくなってしまうが、一人きりで背負うことに限界が来ていたところでもある。
「毎日お参りに来ているの?どうして?」
「忘れないためだよ」
「そんなことしなくたって忘れないでしょう?弟なんだから」
「そうかな?」
「そうだよ。家族じゃない人間のことだって忘れたくっても忘れることができないんだもの、私は…」
何か嫌なことでも思い出しているのであろうか、少女の顔が翳る。
「君の場合は家族なんでしょう?忘れるなんてありえない」
少女の強い口調に康介は少し気圧される。
「そうかもしれない。でも僕はやめちゃいけないんだ」
「他に理由があるの?」
「僕は弟を傷つけたんだ。弟に許してもらえるまで僕は謝り続けないといけない」
少女は笑う。康介を嘲るように。
「ばっかみたい……そんなの馬鹿だよ。それって死ぬまでってことじゃない。君は一体弟に何をしたの?」
「僕は……」
康介はそこで口を噤んだ。
やっぱり理解してもらえないのかもしれない。誰も自分のことなんてわかってはくれない。そもそも、誰かに自分を理解してもらおうなんて思うことが間違いなのかもしれない。自分自身でさえもまだ完璧には理解していないものを誰かが理解できるはずなどないのだ。少女の様子に康介はそんなことを考える。
康介自身、幸広に対する執着をおかしいものだと思っているというのに、他人がそれを聞いておかしいと思わないはずがない。実際少女は康介を馬鹿だと言った。それが康介の行動をおかしいと思っての言葉で、理解しての言葉では決してないのは明らかである。
「お前はどうしてここに来たんだ」
話題を逸らすために、康介は少女に質問をする。
「理由なんて必要?」
「こんなところに来るなんて何か理由があるんじゃないのか」
康介だって幸広の墓参りがなければこの場所を知ることなんてなかった。
「理由なんてないよ。ただふらふらと歩いていたらこの場所に辿り着いたの。そしたら君が飛び降りようとしていたんだよ」
「じゃあなんでふらふらと歩いていたんだ?」
「別にふらふらと歩くことに理由なんていらないでしょ。君は何でも理由を知りたがるんだね。すべてのことに理由を求めていたら疲れちゃうよ。もっと力を抜きなよ」
康介は別に何だって理由を知りたがるわけではない。むしろ、細かいことは気にしないたちである。康介は素直に少女のことをもっと知りたいと思うからこそ、その行動の理由を聞くのだ。
康介は少女のことを何も知らない。その名前すらも。
その着ている制服から同じ中学校に通っているということがわかるくらいだ。だからもっと知りたいと思った。彼女があのとき悲しげに笑ったその理由も。
「……なあ、空を飛ぶってどういうことなんだ」
「ん?」
「お前言ったよな。空を飛びたくなったら私に教えてって。どういうことなんだ?」
少女は黙りこんで康介を見つめる。先程まで笑っていたその顔は真剣な表情に変わっている。
「空を飛びたいの?」
「だからその意味がわからないんだよ」
「そのまんまだよ。他に意味なんてない。ここから空を飛んで違う場所に行くの」
「どこに?」
「さあね。どこに行くんだろうね。飛んでみないとわかんないよ」
「どうやって?」
「ここから空中に身を投げるんだよ。これだけ高いんだからきっと空を飛べるはずでしょう?」
康介は少女の言葉が何を指しているのかを理解する。
「死ぬってことか?」
「君も死にたいんでしょう?」
少女は悲しげに微笑む。その表情は康介の胸をちくりと刺す。
「どうしてお前は……死にたいんだ?」
「君に言うことじゃないよ」
それは康介にとっての毎日の墓参りと同じように、少女の誰にも言えない秘密なのだろうか。しかし、彼女を死に追い込むほどのそれはどれほどのものなのだろう。
康介は気にはなるが、彼女がそれを秘密にしたいのであれば踏み込むべきではないと思い、それ以上何も言わない。少女もそれから何かを発することはなかった。
やがて日も落ち、街灯がぽつりぽつりと灯り始める。しかし墓地に明かりはなく、それが少し不気味な雰囲気を醸し出している。
康介と少女はどちらもあれから言葉を発することもなく、柵にもたれてぼーっと景色を眺めていた。
康介はもう帰ろうと、柵から離れて振り返り、歩み始める。数歩歩んだところで振り返り、少女の方を見る。すると、少女も康介の方に顔を向けていた。
「またね」
そう言った少女の顔は暗くてよく見えない。
「お前は帰らないのか?」
康介は少し不安になる。自分がこの場所を去った後に少女が飛び降りたりしないだろうかと。
「もう少しだけここにいようかな」
そんなことを言う少女に康介の不安は募る。彼女がこの場所を去るのを見届けなくてはこの不安を晴らすことができない。そう思い、康介は帰路につこうとしていた自らの体の向きをもう一度変え、少女の隣に戻った。
「どうしたの?」
少女は首を傾げる。
「僕ももう少しだけここにいようと思って」
康介がそう言うと少女は何も言わずに視線を正面に戻した。
再び沈黙が二人を包む。康介は少女の名前を聞いておこうかと思い、言葉を発しかけてとどまる。
日も完全に落ち、墓地は真っ暗になった。見える民家や街灯の明かりに不思議と安心する一方、暗い中墓がたくさんある道を通って帰らなければいかないのかと思うと康介は少し憂鬱になる。
まだ帰らないのかと少女の方を窺うが、帰ろうというような素振りは見せない。彼女はこの場所を去る気はあるのだろうか。やはり自分が帰るのを待っていて、その後で自殺を図るつもりなのだろうか。康介はそんなことを思うが、少女は実際のところは何を考えこの場所に留まっているのだろうか。
「なあ、こんな遅くまで大丈夫なのか?」
「君の方こそ」
「僕は大丈夫だよ」
「私も」
康介は実のところ大丈夫ではない。母親にこっぴどく叱られる覚悟を康介は心の中で決めている。
「こんな遅くまでここにいる理由はなんだ?」
「私がそれを君に言う義務はないでしょう?」
またそれか、と康介は小さく息を吐く。少女は康介に何かを明かす気はないようである。康介はそれにがっかりするが、当然だとも思う。誰にも見られないように隠したものをわざわざ取り出して誰かに見せるにはそれなりの理由が必要である。康介はそれをよく理解している。
けれど、康介は少女のことを知りたいのである。幸広と同じような表情を浮かべる彼女が何を考え、何に苦しみ、そして何故死にたいと思うのかを。
「それじゃあ、もう帰ろうかな」
少女は言う。それを聞いて康介は少し安堵する。
「君は帰らないの?」
少女ももしかしたら自分と同じことを感じて不安に思っているのかもしれないと康介は思った。
「僕ももう帰ろうと思っていたんだ」
「じゃあ帰ろう」
少女は少し弾んだ声で康介に言う。康介は少女の不安を拭ってあげられたのだと思い、ほっと胸を撫で下ろす。そして康介は少女と共に帰宅の途につく。
少女と二人だったので暗がりの墓地を通るのもさして怖くはなかった。
康介は自転車を押して少女と並んで歩く。二人の間に会話はなく、康介は少し気まずさを覚える。けれど、康介は話しかける言葉を見つけることができなかった。
そうして何かを話すこともないままに少女と別れた。
家に着き、玄関の扉を開くと母親のがなり声が聞こえる。それが止んだと思ったら、途端に父親の声が家の中を響き渡る。母親と少し早めに仕事から帰宅した父親が喧嘩をしているようだ。何をそれほど毎日争うことがあるというのだろうか。康介は深いため息を吐いた。
康介が帰宅したことに気づいていないのか、気づいていたとしてもそれを気にも留めていないのか二人の声は止まない。それどころか一層激しくなる。
康介は自分の部屋へと行き、ベッドへと腰かけ、彼らが喧嘩をしているときにいつもするように自らの耳をイヤホンで塞いだ。そして瞼を閉じて大音量で流れる音楽に心を集中させる。そうして周りの雑音を完全に断ち切る。
最近、自分と血の繋がった家族であるはずの二人が、何だか得体のしれないものに見えるようになった。彼らは康介の見えないところでは今みたいにお互いを汚く罵り合って、康介がいるところでは薄っぺらな笑顔の仮面をつけてまるで何事もないかのように過ごすのである。そんな二人が康介には気持ち悪くて仕方がない。それは取りようによっては彼らの思いやりとも言えるのかもしれない。しかし、夫婦は崩壊しようとも家庭は崩壊させまいとする彼らのそれは康介の為であるのか、それとも体面の為か、果たしてどちらなのだろうか。
康介は閉じていた瞼を開き、イヤホンを耳から外す。時間を確認するため枕元に置いてある目覚まし時計を見ると針は九時を指している。帰ってきた時間を確認していないので時間がどれほど経過したのか判然としないが、少し眠っていたような感覚がある。家の中は先程の喧騒が嘘であるかのようにしんと静まり返っている。
少しだけ安心したからか康介は空腹を感じ、何かを食べたいと思う。けれども、夕食をとるためには二人が先程まで喧嘩していたリビングへと行かなければならない。そう思うと康介の体はまるで鉛にでもなったかのようにずんと重みを増す。しかしながら康介は空腹を我慢することができず、重たい体を引きずってリビングへと向かう。
リビングに行くとどちらの姿もなく、食事の用意もされていない。康介は安堵すると同時にこの時間に母がリビングにいないことなど経験がないので少し戸惑う。
「母さんならいないぞ」
背後からの突然の声に驚いて咄嗟に振り向くと、父がリビングの入口に立っている。
「どこに行ったの?」
康介はなるべく平坦な声で言う。
「さあな、わからん」
父は怒ったような調子でぶっきらぼうに答える。
「そうなんだ」
そう言って康介は自分の部屋へと引き返す。怒っている様子の父とこれ以上関わりたくなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます