第3話
朝の通学路、康介はあくびを堪えながらペダルを踏む。鬱積したもののせいか、両足には自然と力がこもる。しかしながら、そうすることで康介の足に疲労が蓄積されることはあっても、心に積もり積もったもやもやしたものが解消されることはない。
康介は上がりすぎた自転車の速度を落とすため、ペダルを踏むのを一旦止めて一息吐く。そして、左側に広がる海に目を向け、今度は大きなため息を吐いた。
昨夜はあまり眠ることができなかった。それは、意中の女の子のことを考えてというようなロマンチックなものではなく、次の日に何か楽しみなものがあって興奮して眠れないというようなかわいらしいものでもない。ただ、家の中がとてもうるさかったのである。昨日の夜半、康介の家では罵声が飛び交っていた。その罵声の主は康介の父と母である。彼らは二、三年くらい前からだろうか、夜が深くなると喧嘩をするようになった。
康介がいることが抑止力となっているのか食事をしたり、テレビを見たりと康介がリビングにいる間、自分の部屋に戻っているときであっても康介が起きているような時間では喧嘩をすることはない。康介が自分の部屋に籠り寝静まったであろうことを見計らい、彼らは口論を始める。しかし、実際には眠っていない康介にその喧嘩は筒抜けであった。眠っていたとしてもその声は大きく、康介の目が覚めてしまうほどである。当初は月に一度あるかないかくらいのもので、康介もさして気にすることもなかった。しかし、気にしないとは言っても、康介は両親の喧嘩が始まると携帯型音楽プレイヤーから流れる大音量の音楽で耳を塞いだ。思わず目が覚めてしまうほどの声が聞こえなくなるような大音量の音楽を耳元で流していては眠ることがなかなかできなかったが、月に一度くらいであればそんな日もあっていいと康介には思えた。
ところが、その頻度は時を重ねるごとに増してきている。そして現在は毎日のように行われている。月に一度くらいであれば我慢することはできたが、毎日となればそうはならない。限界はもうとっくに超えている。康介が幸広の墓に行くことは家から少しでも長く離れていたいからというわけでもあるのだ。
康介は彼らの喧嘩の理由を知らない。というより、知ろうとしなかった。彼らがどのような理由で喧嘩を行っているのか興味がなかったわけではないが、その内容次第では自分が彼らの中心に立ってしまうことだってあり得るのである。康介はそうなることが恐ろしかった。知らないことでどこか他人事であるかのように思うことができた。それはただ逃げているだけなのかもしれない。康介はそんなことは理解している。そして向き合わなければならない時がやがて訪れるであろうことも。わかっているからこそ康介はその時をできるだけ遠ざけようとしているのかもしれない。
「おはよう、鷹野君」
教室に入って自分の席に着くなり、亮二が康介に駆け寄ってくる。それまで亮二と話していたであろう女子数名の視線が康介に突き刺さる。康介は溜息を吐いて、亮二を軽く睨む。
「どうしたの?」
亮二はにっこりと微笑みながら首を傾げる。
「鬱陶しいんなら、そう言ってやればいい。いちいち僕を巻き込むな」
「そんなこと言われてもなあ」
しゃりしゃりと頭を掻きながら困ったように笑う。
「そんなこと言ったら傷ついちゃうでしょ?」
「誰が?」
「彼女たちが、に決まってるでしょ」
「鬱陶しいってのは否定しないんだな」
康介が言うと、ふっと亮二は息を吐いて笑った。
「今日は妙に突っかかってくるね。何かあったの?」
「何にも」
ふいっと康介は顔をそむける。
「何があったの?」
「別にないって」
亮二は、はははっと声に出して笑う。
「鷹野君はわかりやすいね。何かあったって顔に書いてるよ。まあ、言いたくないなら聞かないけど」
亮二に線を引かれたような気がした。おそらくそれは気のせいではないのだろう。自分がこれ以上踏み込まないのだから、お前も踏み込んではならない線を越えてくるなとそう言われたように康介は感じた。そして、康介にはそれをする理由もないのでそれに従う。
しばらくの沈黙の後、亮二は何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。
「そう言えば、彼女のことなんだけどさ……」
亮二はあの最前列廊下側の席に目を向ける。康介もつられてそちらへと視線を動かす。まだ彼女は来ていないらしく、空席である。
「昨日途中だったよね。鷹野君気になってたでしょ?ちらちらと見ていたもんね」
「……いや、別に」
康介は恥ずかしさに顔を俯ける。
「あの子さ、いじめられてたらしいんだ。前の学校で」
「……え?」
康介は思わず絶句する。
いじめという言葉はまったく珍しいというものではないが、それが自分の周囲に存在することが信じられなかった。いじめなんてどこでも起こり得るのだとわかってはいたが、何故か自分の近い所ではそんなことは起こるはずがないのだと康介は思ってしまっていた。
「だから転校してきたのか?」
「どうもそうらしいね」
康介が聞くと、亮二はそう眉を顰めながら言った。
「とは言っても詳しいことは知らないし、ただの噂なんだけどね」
「誰から聞いたんだ?そんな噂」
「うーん、誰だったかな?いろんな人からいろんな噂を毎日聞いているからなあ」
「全く信用できないじゃないか、そんなの」
「言ったでしょ。ただの噂だって。でもさ、転校生には何かインパクトのあるドラマが必要でしょ?それにはぴったりな話だと思うんだ」
亮二の不謹慎な物言いに康介は顔を顰める。言いたいことはわからないでもなかったが、賛同はできな
かった。むしろ不快感を抱いた。
「人がいじめられて喜ぶなんて最低だな」
康介が詰るように言うと、
「本気にしないでよ。ちょっとした冗談なんだからさ」
焦ったように亮二は取り繕う。
「そんなことを冗談で言う奴も同じくらい最低だよ」
「冗談通じないなあ。そんなだから鷹野君は僕以外に友達ができないんだよ」
「余計なお世話だ。それに僕はお前のことだって友達とは思っていない」
そう言って康介は亮二を睨む。
「今日はほんとに機嫌が悪いね。何があったのか知らないけどさ」
康介にもその自覚はあった。いつもよりも何故か苛立っている。それは両親の喧嘩のこともあるのだろうが、それでもいつもここまで苛立つことはない。他人に当たってしまうことだってしない。自らの苛立ちの自覚を持ちながら何が自分をそうさせるのか、康介自身にも判然としなかった。
「ごめん。今日はもう話しかけないでくれると助かる」
亮二から視線をそらして康介は言った。少し間を開けて、
「そうした方がいいかもね」
亮二はそう言って微笑んだ。
授業の内容などまるで頭に入らないものだから一日中窓の外の景色を眺めて過ごした。その間、特に何かを考えていたわけではない。ただただぼーっと窓から見える景色を眺めていた。そうすれば苛立ちが鎮まるかとも思ったが、それが原因で授業中に何度も教師から注意されて苛立ちが余計に増してしまった。
教師というものは自分の授業を真面目に受けない生徒がいると頭ごなしに叱ってくるが、その要因は自分にあると考えないものなのだろうかと康介は思う。いくら生徒側にやる気があったとしても、授業が理解しづらくつまらないものであればやる気など線香花火のようについ先ほどまでパチパチと燃えていたというのに突然ぽとりと落ちてしまうのである。生徒に前を向いて欲しいのであれば、そうなるように努力をしろ。不真面目な生徒を叱る権利を持つのはそれをした教師だけではなかろうかと康介は考えるのである。
そうは言ったものの、康介が真面目に授業を受けなかったのは完全に康介の個人的な理由なのでそのことは全く関係ない。苦手な授業だけでなく、割と好きな授業でさえもそうであった。これはどうにもならないなと思い、康介は学校を早退することに決めた。学校は勉強をする場所である。その勉強に身が入らないのであれば学校にいる意味などないと康介は考えた。
しかし、担任の教師に早退の意思を伝えても了承をしてはくれなかった。もちろん考えたことをそのまま伝えたわけではない。勉強に身が入らないから帰るなどと言えば叱られることは了然としている。康介は体調が良くないことを装い、立つことすらもままならないという様子で早退したい旨を担任に伝えたのであるが、どこが悪いのか、どう悪いのかと深く突っ込まれてしまい咄嗟に答えることができず、嘘であるということが見抜かれてしまった。そしてそのまま説教されてしまった。
こうなればもう大人しく放課後を待つしかない、などと康介は思わない。しかしながら、こっそりと抜け出してやろうなどと考えはしても実際に行動に起こすような度胸も存在しない。そんなことをしたならば、またもや叱られてしまう。それは教師からだけでなく康介の両親からもである。
結局のところ、康介は放課後が来るのを大人しく待った。そして、ホームルームが終わると同時に康介はいつもより足早に教室を出た。今日も幸広の墓がある墓地へと行くのである。
あそこは康介の心を落ち着けてくれる唯一の場所だ。墓地の奥にあるあの場所から景色をぼーっと眺めることでささくれ立った康介の心も和らぐ。めったに人も訪れず、一人でいられるのはあの場所はいつのまにか康介の心の拠り所となっていた。
しかしながら、自転車に跨って校門を出たところで予定は変更された。康介は急いだ様子でどこかへ向かう亮二の姿を見たのである。これは常々気になっていた亮二の秘密を知る好機ではないかと康介は思い、後をつけることに決めた。しかし、後をつけるとはどのようにすればいいものなのか康介にはよくわからなかった。正確にはどのようにすればうまく尾行できるのかがわからないのである。
とりあえず康介は自転車から降り、マンガの見よう見まねで一定の距離を保ちつつ、電信柱などの物陰に時折身を隠しながら亮二を尾行した。亮二はとても急いでいる様子で後ろをまるで見ないものだから見つかることはなかった。しかし、尾行を行う康介はとても不審であるようで人々の視線が少し痛かった。そんな視線に耐えながら亮二を追っていくと、彼はとある建物の前で足を止めた。そしてその中に入っていってしまった。少し距離を置いて後をつけていた康介にはそれがどのような建物であるのかよく見えない。確認するために恐る恐る康介もその建物に近づいていく。
するとそこにあったのは、レンガ造りの建物であった。『喫茶 クレッセント』という看板が立っているので喫茶店であることは間違いないだろう。どのような理由で亮二はこの喫茶店の中に入ったのか気にはなるが、確かめようにもこの喫茶店には窓がついておらず外から中の様子を窺うには入口の扉を開くしかないらしい。康介がどうしたものかと迷っていると、突如その扉が開いた。出てきたのは亮二ではなく、大柄な中年の男であった。男は鋭い眼光を康介に向け、
「何か用か」
と低くどすの利いた声で康介に聞く。康介は突然出てきた強面の男に怯んでその場で立ち尽くしてしまう。何か言おうとするも声が出てくれない。
「冷やかしなら帰れ」
男は先ほどよりも一段と鋭い目で康介を睨みつける。
康介は何も言わず、少し泣きそうになるも涙をこらえ、来た道を引き返そうと男に背を向ける。あんなに怖い男に凄まれては撤退するほかないだろうと康介は逃げるようにその場を立ち去ろうとする。
「あれ、鷹野君?」
背後から声がかかる。振り返ると大柄な強面中年とともに亮二がそこに立っていた。
「僕、ここでバイトしているんだ」
亮二は苦笑混じりに言う。
「へえ、そうなんだ」
そっけなく康介は答える。
康介は亮二に喫茶店の建物の中へと招かれていた。中はカウンターに席が五つほど、四人掛けのテーブル席が四つとそれほど広くはない。康介は亮二に導かれてカウンター席に腰掛けた。カウンターにある棚には高そうなカップが大事そうに飾られている。高そうとは言うが、当然康介には陶器の価値などわからない。なんとなく高そうに見える、その程度である。
店内にはこの店の主が猫好きなのか、猫の絵や猫の置物など猫グッズがたくさんある。そういえば、店先にもやたらと大きな招き猫が置いてあった。しかしながら本物の猫は見渡してみてもどこにもいない。康介は少し残念な気持ちになる。
康介は猫が好きであった。しかし、両親は飼うことを許してはくれずかわりに野良猫を愛でようとしても皆康介が近寄れば途端に逃げ出してしまい触ることもできない。康介は猫愛を発散できず持て余しているのである。
亮二いわく店主であるらしいさっきの強面の大男はコーヒーを淹れており、店内にはコーヒーの香りが充満している。その動作は容貌に似合わず繊細で美しく、思わず康介はその様子に見入ってしまう。
「鷹野君はどうして店の前にいたの?」
亮二は康介の隣に座る。
「……たまたま」
尾行していたなどと言えるはずもなく康介は咄嗟にごまかす。
「ほんとに?」
亮二にじっと見つめられて思わず康介は目をそらしてしまう。
「鷹野君は本当にわかりやすいね」
そう言って亮二は笑う。
「僕の後をつけてきたんでしょ?」
「どうして僕がそんなことをしなくちゃいけないんだ」
「だって前に聞いてきたじゃないか。僕が放課後どこに行っているのかって。それが知りたくて僕をつけてきたんでしょ?」
康介は黙って何も答えない。どうやってごまかそうかと考えるも全く思いつかず、どうしていいのかわからずにいた。康介は何でも見透かされてしまうのでどうにも亮二のことが苦手である。どれだけ心の奥底に閉じ込めたこともいとも容易く見抜かれてしまう。自分の思ったこと、考えていることを何でも言い当てられて気持ちの良いことなどあるはずもない。とても気味が悪い。
亮二は見たところ怒ってはいないように思えるが、内心を隠すのが上手い彼が本当のところどう思っているのか康介にはわからない。もしかしたら、その笑顔の裏では激怒しており康介に対する復讐を画策しているのかもしれない。もしくは本当に怒っていないのかもしれない。
店主がコーヒーの入ったカップを康介と亮二に差し出した。
「ありがとう、マスター」
亮二はそう言ってカップに口をつける。
「あの、僕お金を持ってないんで……」
しかし、康介はそう言って押し返す。
「いいから飲め。冷めちまうだろ」
「でも……」
「早く飲め。淹れ立てが一番うまいんだ」
仏頂面してどすの利いた声で店主は言う。そんな顔してそんな怖い声で言われても、と康介はますます尻込みしてしまう。
「マスターがいいって言っているんだから飲みなよ」
亮二はそう言って微笑む。
「あの……」
康介は店主に向かって呼びかける。
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼なんざいいよ」
「あの……」
「なんだよ、いいから早く飲めよ」
「できれば砂糖とミルクが欲しいんですけど」
「どうしてアルバイトしてるんだ?」
砂糖とミルクをこれでもかと入れて甘ったるくなったコーヒーを啜りながら康介は亮二に向かって聞く。店主は康介が砂糖とミルクを大量に入れる様子を見て何か言うことはなかったが、顔を顰めていた。
「それは教えられないよ。それより、これは一つ貸しだからね」
「え?」
「僕の秘密を一つ知ったんだから、鷹野君の秘密も一つ教えてもらうよ」
どうして亮二がそんなふうに言えるのか康介には理解が出来ない。
「でも、バイトは禁止されてるだろ?」
この秘密は康介の秘密を明かす対価とはならない。先に知った自分の勝利だと康介は思った。
「そんなことを言うんだ。僕を脅すっていうわけ?」
「先に脅してきたのはどっちだ」
康介が言うと、亮二は笑った。
「そうだね。でもまあ、友達が僕以外いない鷹野君だと脅しにはならないかな」
「先生に言うに決まってる」
「へえ、言うんだ」
言ったところで康介に得なんてない。むしろ危険性の方が高い。人気のある亮二に敵対するような行動をとった人間がどうなるかなど考える必要もない。
「言うかもしれない」
けれど、ここでは嘘をつかなければならない。ここで負けを認めてしまってはならない。康介は精一杯睨み付ける。しかし、亮二はそれを見て盛大に笑った。
「そんなに必死になるほど、鷹野君には言いたくない何かがあるんだね。正直なところ僕は学校に許可は取ってるんだよ。秘密にしているのはここに誰にも来てほしくないからなんだ」
亮二は緩く笑った。あんなふうに愛想を振りまいて自ら望んで人気者となったくせに、それを鬱陶しくも思っている。康介にはそれは全く理解できないことであった。
「それで、鷹野君の秘密ってなあに?」
今度はにたりと嫌らしく笑う。康介は何も言わず睨む。それ以外に抵抗のしようがなかった。
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