第2話

 朝の教室は昨日見たテレビ番組の話や彼氏彼女とのノロケ話など様々な会話があちらこちらで繰り広げられており、わいわいがやがやととても賑やかである。そんな教室の中で康介は誰と話すこともなく、最後列窓側の自分の席に座り、窓の外をぼーっと眺める。


 梅雨明けはもう少し先だと天気予報で綺麗な女の人が言っていたが、昨日に続いて今日も梅雨なんて嘘であるかのように雲ひとつない快晴であった。それを今朝父親はコーヒーを啜りながら「女はこんなふうに嘘をつく生き物だからな、気をつけろよ」なんて康介に向かって冗談を言って笑い、母はそんな父を恨めしげに睨んでいた。


 康介は一つため息を吐いてから、ふと視線を窓の外から教室の中に戻す。そして教室の喧騒をぼーっと眺めながら、その光景に違和感を抱いた。何かがいつもの教室とは違うような気がした。しかし、それが何であるかまではいくら考えても分からなかった。


「鷹野君」


 康介が教室の違和感の正体について考えていると、突然頭の上から声が聞こえた。突然の声に驚いて康介は反射的に声がする方へと顔を向ける。すると篠原亮二がにやにやした顔つきで康介の側に立っていた。


「よっ、おはよう」


 亮二はにやけた顔つきのまま、右手を軽く上げる。しかし、康介はそれに応えることなく、亮二に顔を見られないように窓の方に顔をそむけた。康介は亮二に驚かされたことがとても悔しくて恥ずかしかった。そしてそれらの感情がすべて映し出されていたであろう自分の顔を亮二に見せたくなかった。


 亮二は学業の成績がとても良く、学年トップのようである。しかしそれをひけらかすようなことはせず謙虚に振る舞っているので僻むものは少ない。むしろ、亮二はクラスでは人気者である。それはその成績によるものではなく、彼の端正な顔立ちと明るく人懐っこい性格によるものである。亮二は誰に対しても壁を築くことなく、かつ相手にも壁を築く隙を与えず、うまく懐に入っていく。そうやって誰とでも仲良くなれる。仲良くなろうとする。


 康介に対してもそうであった。


「どうしたの?なんか様子がおかしいけど」


「別に・・・なんか教室の様子がいつもと違うなあと思っただけだよ。多分気のせいだけど」


 康介が言うと、

 はあ、と亮二は溜息をついた。


「鷹野君はクラスメイトが一人増えたのに気のせいで済ますの?」


「え?」


「ほら」と亮二は康介の席の対角線にある最前列廊下側の席を指さした。見ると、その席には女の子が座っている。それを見て、ようやく康介は自分が感じていた違和感の正体に気づいた。


 このクラスにはいつも空席が一つあった。


 中学二年生になった最初の頃にいつまで経っても埋まらない席があることに気がつき、そのことに疑問を抱いていた康介であった。しかし、いつのまにかそれに慣れてしまっており、疑問を抱かないどころか空席がないという本来はそうあるべきであることに違和感を抱いてしまっていたようである。


 後ろからなので顔は見えないが、髪の短い細身の女の子がその空席であった場所に座っている。その少女はピンと背筋を伸ばして本を読んでいる。そんな後ろ姿をじっと見つめ、康介は考えた。ずっとその机といすが空席として存在していたということは、四月からその少女はこのクラスの一員だったのだろう。誰も使う予定のない余分な机といすが教室にずっと置いておかれ続けている理由などないはずなのだ。しかし、何らかの理由で彼女は今日までこの教室に顔を出すことはなかった。では、その理由とはどんなものなのだろうか。


「あの子はけがでずっと休んでいたんだって」


 亮二は少し声をひそめて言う。亮二はどうやら何かを知っているようである。


「けが?」


 亮二につられて康介も声をひそめる。


「これはうわさなんだけどね」


 亮二は先ほどよりもいっそう小さい声で康介に耳打ちをする。

広い交友関係を持つ亮二は康介の知らない校内に流れるうわさをたくさん知っており、聞いてもいないのにいつもそれを教えてくれる。


「あの子は―」


「しっのはっらくーん!」


 突然の大きな声に亮二の言葉は遮られてしまった。声のする方を見ると、クラスの女子が大きくこちらに手を振っている。康介が亮二の方を向くと、亮二は「ごめん」と声には出さず口だけを動かし、康介の元から離れてその女子たちの方へと小走りで行き、その輪の中に入って談笑を始めた。康介は中途半端なところでおあずけをくらったせいか、その少女のことが妙に気になってしまう。もう一度彼女の方に目をやると、どこに行ったのか、その席に少女は座っていなかった。

彼女はそれから放課後になっても、教室に姿を現さなかった。


「彼女どうしたんだろうね」


 亮二が心配そうに言う。


「さあ」


 康介はなるべくそっけない返事をする。康介もとても気になっていたが、それを亮二に悟られるとからかわれると思ったので、気になっていないような素振りをした。朝の話の続きも気になっていたが、聞くことができなかった。


「それじゃあ、僕はもう帰るね」


 そう言って、亮二は去っていった。


 亮二は毎日放課後になると、誰よりも早く教室を出る。毎日毎日、放課後になるととても慌てた様子である。


 亮二は部活動には所属していない。亮二は運動も得意なようで、体育の成績も五段階評価の五であるらしい。そして、それを聞きつけた運動部の連中にしつこく入部を懇願されているが、いつも断っている。康介がどうして運動部の勧誘を断るのか、放課後に急いでどこに行っているのか、聞いてみてもどちらの問いも曖昧な答えではぐらかされるだけであった。


 誰にだって秘密はある。康介が毎日幸広の墓参りに行っていることだってそうだ。それは誰にも言っていない、そして誰にも言うことのできない康介の秘密である。しかしながら、自分の秘密は誰にも知られたくはないが、他人の秘密となるとどうしても知りたくなってしまう。康介は身勝手だとは分かっているが、亮二の秘密をあばきたいと常々思っている。



 中学校から歩いて三十分程、決して近いと言えるような場所ではない。しかも平坦な道は少なくほとんどが上り坂で、自転車通学の康介は自転車を押してそこを上る。そして、さらに二百段もある石段を上がらなければならない。


「百九十一、百九十二……」


 こんなふうにして、康介はいつも石段を数えながら上がっているので、間違いなくこの石段は二百段である。一年前くらいに少し気になって数えてみてから、自然とこの石段を上がる際に数えることが康介の習慣となってしまっている。何度数えても当然結果は同じである……のかと思いきや、たまに一段増えたり、二段減ったりする。なんてことのないただの数え間違いなのだが、そんな単純なことが妙に楽しく感じられてしまい、やめることができないでいる。


「百九十八、百九十九、二百……ふう」


 石段を上がりきれば、たくさんの墓が規則正しく並んでいるのが見える。この墓地には墓がいくつあるのか数えてみたいと康介は思っているが、何だか罰当りな行為になるような気がしてできないでいる。


 幸広の墓は墓地の少し奥の方にある。墓同士の間隔はあまりに狭く、幸広は窮屈な思いをしていないか康介は幸広の墓を見るたびにとても心配になる。そして、そんな気持ちになるたびに、康介は幸広のあの表情を思い出して胸がぎゅっと締め付けられているように痛む。しかし、その痛みは康介に安心も与える。幸広のことを忘れたくない康介にとって、それはしるしのようなものであった。


 幸広の墓がある墓地は坂を上って、石段を二百段も上がっただけあって、とても高い所にある。まわりは落下防止の柵に囲まれ、その外側は背の高い木々が生い茂っており、そこからの景色を望むことはできない。しかし、墓地の奥の方へ行くと木々に遮られていない視界の開けた場所があり、そこからは町を一望することができた。康介が住む町は海も山もある自然の豊かな田舎の町である。幸広が病気になる前は、一緒に海へ泳ぎに行ったし、山にクワガタを捕まえにも行った。父親に連れられ、魚釣りをしたりもした。そんな思い出の詰まった町が墓地からは見える。幸広の墓をお参りした後に、柵に寄り掛かってそんな景色をぼーっと眺めることも康介の日課であった。この景色が好きなわけでは別にない。この町に特別愛着を感じているわけでもない。何も考えないでいられる時間が好きなのである。この場所でぼーっとしている間だけは何も考えないで、すべてを忘れていられる。しかし景色を眺めていると、たまにふと考えてしまうことがある。


 ここから落ちれば、僕はどうなるのだろう。何だか空を飛べてしまいそうな気がする。空を飛んで幸広の元へと簡単に行けてしまいそうだ。そのとき、幸広は僕にもう一度あの笑顔を向けてくれるのだろうか。それとも、憎しみに満ちた目で僕のことを睨みつけてくるのだろうか。そんなことを康介は思う。思いながら、康介はふわっと自分の身が浮かぶような不思議な感覚を覚える。


「何をしているの?」


 後ろから声が聞こえて康介はハッと我に返り、同時に自分の置かれている状況に気づく。そして、それに愕然とする。康介の体は柵から半分以上も乗り出しており、足も地に着いておらず、康介を支えているのは柵を掴んでいる手のみでそれを離せば途端に真っ逆さまに落下してしまうであろう。そんな状況にあった。


 自らの危機的状況に気づくや否や、康介は柵から乗り出していた体を引き戻そうと、腕を力いっぱい突っ張る。すると康介の体は柵の内側に戻り、そして背中から勢いよく地面へと倒れ込んだ。

心臓が限界まで膨らんだり、萎んだりしているのがわかる。それも物凄い速さで何度も何度も。胸が張り裂けてしまうかと思うくらいに痛い。呼吸もうまくできない。 


 もう少しで落下してしまうところであった。そうすれば、間違いなく康介は死んでいただろう。空を飛べるかもしれないなんて考えてはいたが、そんなはずもないことを当然康介は分かっている。それゆえ、これほどまでにうろたえているのだ。自分がもう少しで身を投げてしまいそうになっていたことに。そしてそれが康介の無意識下の行為であったという事実が何よりもその身を震わせた。


「大丈夫?」


 康介は乱れた呼吸を整えながら声のする方へと目を向ける。涙でぼやけてはっきりとしないが、誰かが康介のことを覗き込んでいるように見える。康介は呼吸が落ち着くのを待ってから立ち上がり、服に付いた砂を払う。声の主もそれを待ってくれているようだ。


 声の主は、康介が通う中学校の制服を着た少女である。


 少し短めの髪の毛は綺麗な黒で染まっており、鼻筋は綺麗に通っていて、肌は異様なほどに白い。少し釣り上った大きな目で康介のことをじっと見つめている。制服こそ康介と同じ中学ではあるが、康介は目の前の少女にまるで見覚えがなかった。


「大丈夫?」


 康介が落ち着いたのを見計らい、もう一度少女は康介に問う。


「大丈夫」


 康介はとんでもなく無様な姿を晒してしまったことがとても恥ずかしくて、顔を俯かせた。


「自殺しようとしていたの?」


 少女は康介の顔を下から覗き込むようにして、視線を合わせようとする。


「わからない」


 康介は顔を横にそむける。


「わからないはずないでしょ。あなたのことなんだから」


「そんなことを言われても、わかんないよ」


 少女の責めるような口振りはまるで母が康介を叱るそれのようで、康介は少し苛立ちを覚えた。

 少女はふうと息を吐いて康介から離れ、柵の方へ歩みを進める。そして、柵から身を乗り出して下を覗いた。


「ここから落ちたら死ねるのかな?」


 少女は康介に背を向けたままぼそっと呟く。


「え?」


「こんな高い所から飛び降りたら、痛みを感じる前に死ねそうだね」


「死にたいのか?」


 そう康介が問うと少女は振り返り、


「一緒に飛び降りる?そうしたら怖くないかもよ」


 そう笑って言った。そんな彼女の顔が康介には笑っているというのに悲しんでいるように見えた。それはまるであのときの幸広の表情のようである。涙こそ浮かんでいないが、彼女が笑いながら泣いているように康介の目には映った。ちくりと刺すような胸の痛みを感じながらも、そんな彼女にどう声をかければよいのか考えるが康介は何も言うことができなかった。


 しばらくその場が沈黙に包まれる。康介と少女は見つめ合い、どちらもなかなか声を発さなかった。

その沈黙を切り裂いたのは、少女の笑い声であった。


「冗談だよ、冗談。君は冗談とかわからない人なの?すっごい深刻な顔するから私びっくりしちゃったじゃない」


 笑いながらそう言う彼女の顔は先程とは打って変わって悲しみなどまるで感じられない晴れた表情であった。そんな少女の変わりように康介は驚いてしまい、またもや言葉を失う。


「ねえ、よくここには来るの?それとも今日が初めて?」


 女は嘘をつく生き物だと今朝父は言っていたが、彼女は嘘をついているのだろうか。だとすれば、彼女の嘘はどちらなのだろう。康介は目の前の少女のことを少し恐ろしく思う。


「私はね、初めて来たんだ。いい眺めだね」


 少女は軽く伸びをする。


「私ね、高い場所が好きなんだ。高いところにいるとまるで自分が空を飛んでいるみたいですごく気持ちいいの」


 言い終えて、

 あ、と少女は声をあげ、柵を掴んで、脚を地面から離し、身を柵の外へと乗り出そうとする。康介は少女が地面から脚を離したその瞬間に、あわてて彼女の腰に抱きつくようにしてそれを阻止する。


「ちょっと、お前何してんだよ」


 康介は声を荒げる。少女はそんな慌てた様子の康介を見て、ふふふ、とかわいらしく笑う。


「私が飛び降りると思ったの?……だーかーらー、そんなことしないって言ったじゃん」


「じゃあ―」


 何をするのか、と康介がそう問う前に少女はもう一度柵の外へと腰から上半分乗り出し、両足を地面から離す。そして、柵に寄り掛かった下腹と掴んだ手を支点にして、柵と垂直になる。


「おい、だから何やってんだよ」


 康介は叫ぶ。


「こうすると、本当に空を飛んでるみたい」


 少女は足をばたつかせて無邪気にはしゃぐ。康介は呆れた様子でそれを見つめる。少女はそんな康介の冷めた視線などにはまるで気付く様子もなくはしゃぎ続ける。時折両手を離してはしゃぎ、康介をハラハラさせた。


 何がそんなにも楽しいのか康介には不思議でならなかった。しかしながら、それを少女に直接聞くことは何だかためらわれた。少女の楽しげな様子に水を差すようなことを康介は避けたかったのである。わからないにしても、それを楽しむ少女の様子が気持ちを明るくしてくれるのを康介は感じていた。


 満足するまではしゃいだのだろうか、少女は両足を地面につけ、振り返って康介に視線を向ける。少女と目が合い、康介は咄嗟に目をそらす。


「空を飛びたくなったら私に教えてね」


 少女の声に康介が視線を戻すと、少女は康介の方を見て微笑んでいた。それはあの悲しげな笑顔であった。

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