そらをとぶ

海谷羽良

第1話

 放課後の墓参りは康介の日課である。二年間、一日として欠かしたことはない。今日も康介は中学校での授業を終えると、まっすぐに幸広の墓がある墓地へと足を運んでいた。


 六月の半ばでまだ梅雨真っ盛りであったが、この日は一日中晴れていた。晴れてはいるものの、前日までの雨で空気はじめじめとしており、乾き切らない地面からは雨の日特有の土の匂いが漂う。


 康介は幸広の墓の前立つと、手を合わせ、目を瞑った。そして、心の中で幸広に呼びかける。


(幸広・・・・・・幸広・・・・・・俺だぞ、康介だ、兄ちゃんだぞ)


 幸広がいつか呼びかけに応えて自分の前に姿をあらわしてくれることを願って、康介はいつもこんな風に幸広に呼びかけているのであるが、その願いが叶ったことは一度としてない。しかし、康介は墓参りをやめることはしない。これは、康介なりの幸広に対してのつぐないなのである。


「おや、ぼうずは今日も来てんのかい?」


 康介が声のする方へ顔を向けると、痩せこけたおじいさんがにこにこと目尻にしわを寄せて微笑んで康介の方を見ている。康介はこのおじいさんを何度もこの墓地で見かけており知っていた。康介のように毎日ではないが、頻繁にこの墓地に来ているようだ。たまに物言いたげに康介を見ていることはあったが、実際に話しかけられたのはこの日が初めてだった。


「じめじめしているなあ」


 おじいさんは問いかけるような口調で言うが、康介はそれに応えない。しかし、かまわずおじいさんは続ける。


「わしは湿っぽいのは苦手でねえ・・・・・・。こう湿っぽいと体が痛くてかなわん。わしもお前さんのように若ければ、毎日来られるのになあ・・・・・・まあ、若かったらこんな場所には来ないで遊び呆けているだろうがな」


 ハッハッハとおじいさんは豪快に笑う。少しムッとして康介はおじいさんを睨みつける。しかし、言葉は発さずすぐにおじいさんから目をそむけ、その場を立ち去ろうとする。そんな康介を呼び止めるようにおじいさんはさらに続ける。


「わしがここに来とるときにはいっつもおるが、墓なんてお前さんのような若いもんがしょっちゅう来てええような場所じゃあないぞ」


 おじいさんは諭すような口振りで言った。


「どうしてですか」


 康介は怒りをあらわにして言う。康介はおじいさんと話すつもりは全くなかったが、反射的に言葉を発していた。幸広の墓に行くことをいつも母に咎められていてうんざりしているところに、どこの誰かもわからないただこの場所でたまに会うだけの老人にまでそんなことを言われたものだから康介は憤慨していた。


 おじいさんは康介のそんな様子を見て、ハッハッハと快活に笑った。


「元気がよいな。元気がよいのは素晴らしい。若いもんはそうでないといかん」


 そう言っておじいさんはもう一度笑う。


「・・・・・・」


 康介は突然大笑いをするおじいさんに呆気にとられた。康介はおじいさんが怒鳴り返してくるものだと思って身構えていたので、肩透かしをくらったような気分だった。


「やはり人間元気が一番だな」


「はあ・・・・・・」


 康介はこのおじいさんは年のせいでボケてしまっているのだと思い、話をしてしまったことを少し後悔していた。ボケた老人に怒りを向けたところで、それは何の意味もなく、ただむなしくなるだけであることを康介は知っていた。それに、老人の話はやたらと長いということも康介は知っていた。しかも、ただ長いだけでその内容はよくわからない、つまらないものばかりなのである。


 一方、康介がそんなことを考えていることなど知らないおじいさんは、ご機嫌な様子で話を続ける。


「だがなぼうずよ、その元気は使い道を間違えてはいかんぞ。ぼうずのような若いもんは特に間違えるもんが多いからな、気を付けんといかん」


 康介はもうあんまり喋らないでおくことにした。変にちゃちゃをいれて、無駄に長引いてしまったらたまったものではないので、好きなだけ喋らせてとっととお帰り願おうと康介は考えた。


「偉い外人さんが言っとったらしいぞ。若い時分には大志を抱かんといかんと。その元気はその為に使わんといかんよ。・・・・・・ぼうずには大志はないのかい?」


「・・・・・・?」


 康介は大志というのが何なのかよく分からなかった。そんなよく分からない言葉を向けられて、康介は戸惑ってしまう。そんな康介の様子をおじいさんはまた笑う。


「夢だよ。夢はないのかい?」


「・・・・・・わからないよ、そんなの」


 康介は俯いた。

 ガッハッハとおじいさんは豪快に笑った。よく笑うじいさんだなあと康介は思った。


「まあ、焦るこたぁない。こんな老いぼれと違って、まだまだ先の長い人生だ」


「・・・・・・長い人生」


 先の長い人生と聞いて、幸広の姿が康介の頭の中によぎった。

 幸広はまだあんなに幼かったのにこの世を去ってしまった。幸広のように自分もいつ死んだとしてもおかしくはない。例えば、今日死んだとしてもそれは不自然なことはないのではないか。だとしたら、何を根拠に先の長い人生だなんて言うのだろうか。そんなことを康介は考えた。


「おいおいぼうず、そんな陰気な顔をするな。わしがここに来るなと言ったのは、お前さんがそんな顔をしているからだよ。その墓の主もしょっちゅうそんな陰気な顔を見せられてうんざりしとることだろうよ」

 


 幸広が死んだのは、小学校に通っていれば三年生のとき、年齢にしてみれば九歳のときであった。そのとき、康介は小学六年生で十二歳だった。


 幸広は康介が小学三年生の頃に入院して、病院で寝泊まりするようになった。どういう病気だったのか康介はいまだによく知らないのだが、幸広はかなり長い期間病院のベッドの中にいた。入院して間もない頃、康介は時間の許す限り、幸広のお見舞いに行っていた。 


 幸広はよく笑う少年だった。康介は楽しそうに笑う幸広しか見たことがなく、苦しそうにしている姿なんて見たことがなかった。そんな幸広を見て康介は、病気は辛くて苦しいはずであるのにどうして幸広はいつも笑顔なのだろうと疑問に思っていた。とはいえ、風邪すら一度もひいたことのない康介には病気というものがどういうものなのか、実際にはよく分からなかった。そして、病気になった人の気持ちについては全く分からなかった。


「病気って辛くないのか?」


 だから、実際に幸広にそう聞かずにはいられなかった。


「辛いに決まっているでしょう」


 康介を窘めるような口振りでそう言ったのは、ともに幸広のお見舞いに来ていた母だった。母はとても怒っている様子である。母がそんなに怒っているということは、もしかしたら幸広の病気は自分が思うよりも深刻なものなのかもしれない、そんな考えが康介の頭に浮かんだ。


 しかし、幸広が病気で苦しんでいる様子を見たことがない康介にはいまいち実感が湧かなかった。そして、それから何度病院に行っても、幸広の様子に変わりは見られないものだから、そんな考えはいつのまにか消え去っていた。


 いつしか康介が幸広を心配することは全くなくなった。そして、康介が病院に行く回数はだんだんと減っていった。毎日幸広に会いに通っていたこともあった病院に、ひと月行かないこともあった。いつでも病院に行けば会えるのだから、今日でなくてもかまわない、それに幸広と会うことよりも、友達とテレビゲームをする方が断然楽しかったのである。


「幸広がとても寂しそうにしているわよ。会いに行ってあげなさい」


 ある日、こんなふうにお見舞いに行くことを母に促された。いつもであれば、そんなふうに母親に言われれば、素直に従っていた康介であるが、その日はどうしても行きたくなかった。友達に、テレビゲームの新しいソフトを買ったから一緒にやろうと誘われており、それをとても楽しみにしていたのである。それに、幸広ばかりに目を掛け、自分をないがしろにする母に対しての不満がたまりにたまっていた。だから、幸広のお見舞いに行くことを拒んだ。母はとても怒った。


「幸広は優しい子だからわがまま言わないけど、本当はもっとあんたにお見舞いに来て欲しいと思っているんだよ。なのに、あんたは友達と遊んでばっかりで、最近は全く行ってあげていないじゃない。たった二人っきりの兄弟なのに、どうしてもっと思いやってあげられないの?」


 それでもやはり、康介は病院よりも友達の家の方に行きたかった。何度訴えても母はそれを許してくれず、ついには康介の頬をはたいた。そして、康介の腕を乱暴に引っ張って、幸広の元へと連れて行った。


 その日、康介は幸広に対してとても冷たく当たってしまった。今となれば、康介にとってそれは悔やむべきことであるが、そのときは幸広を恨みに恨んでいた。病院についてから、康介は幸広と目も合わさず、話しかけられても無視をした。母が席をはずしている隙に、ゲームができなかった悔しさと母に怒られた恨みを幸広にぶつけた。しかし、幸広は笑顔だった。まるで、その表情しか持ち合わせていないかのようにずっと笑顔で、康介が冷たく当たっても表情は変わることはなかった。


「何がそんなに面白いんだよ。僕がゲームをできなかったことがそんなに面白いのか?お母さんに怒られたことがそんなに面白いのか?僕の不幸がそんなに面白かったか?」


 気付けば、康介はこんなことを口走っていた。幸広は一瞬当惑したような様子を見せて、


「ごめんね、兄ちゃん」


 笑顔でそう言った。康介はそんな幸広をとても気持ちが悪いと思った。そして、


「気持ち悪いよ、お前」


 声に出して、言ってしまった。乱暴に、吐き捨てるように。


 康介は言った瞬間、少しだけ後悔をした。さすがに言いすぎたかもしれないと思った。


「ごめんね」


 そう言う幸広の顔はまたもや、笑顔であった。しかし、さきほどとは違って、その目には涙が浮かんでいた。そして、堰を切ったようにそのしずくが溢れ出した。



「あんた、また行ってたんじゃないでしょうね」


 康介が帰宅すると、夕飯の支度をしていた母がキッチンから大声で叫んだ。


「もう行くなって言ったでしょ」


「行ってないよ」


 康介は叫び返した。


「じゃあどうして遅くなったの」


 康介は母の問いかけを無視して、自分の部屋のドアを開ける。そして部屋に入り、わざとバンッと大きな音を立ててドアを閉めた。


「いちいちうるさいなあ」


呟いて、康介は溜息をついた。

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