澄み

 誰がどう数えたのか知らないが、その戦で床々山の大伝が屠った人間の数は七十六名であった。その内狩人が二十五人、天人が六人で、後の四十五人は火災から逃げ惑うていた町民、女、子供であったという。

 非道なり大伝。

 多くの家屋敷が消失した大年の地には、狸との戦で塗れた夥しい血がまだ滲んでいる。天人の竜吐水をもってしても完全には消しきれぬ血の痕は、悪鬼大伝の虐殺の記録と共に、大年の人々にとって忘られぬ怨嗟の印として残り続けることであろう。冬になってもあまり雪が降らぬ大年の町では、戦からひと月過ぎた底冷えのする寒い朝の最中にも爛れた火傷の痕のような血の染みが日射しを浴びてくっきりと、人々の目を引きつけて離さなかった。


 島の北端、北門山は一面の雪景色である。

 元より狸は寒いのを好まない。寝てもよければ寝ていたい。ましてこの北門山に、のこのこと踏み入る狩人などまずいない。

 おかげで山は静かであった。あの床々山の荒くれ坊主、大年にとっての悪鬼、大伝でさえも。

「朝日に見惚れるなど、似合わぬ風情を気取るじゃないか」

 下からも寒風が突き上げる断崖の縁にて、灯子は崖っぷちに立つ大伝の背中へ挑発の言葉を吐いた。あたりに寒さを凌ぐ洞穴や木のないこの崖は、北門山の狸でも滅多に近づかない。いるのは大伝と灯子だけであった。

「おい愚鈍。ここへ連れてきてもう三十回も日が登ったというのに、毎日毎日よく飽きもせず日を眺められるものだな。ええ? それでいて飯は一丁前に食らうと来た。自分で狩ったわけでもない果実や獣を……お前、それでも床々山の力狸か。大伝は自分で狩った獲物しか口にせんと、散々向こうの狸に聞かされたのだがな」

 大伝の丸まった背中は、火傷の痕がほとんど治って冬の毛が生えていた。

 灯子はもう一度その背中を焼きたくなった。あの時の、熱い大伝はどこへ行った。

 しばらくして、大伝は灯子に尻を向けたまま口を開いた。

「あの松角とかいう力狸は、大した奴だな。逃げる途中の追手をほとんどあいつが追い返した」

「ああ、松角はいい狸だ。私も好いている。過ぎたことをウジウジ考えない性格だからな。お前と違って」

「俺は……」

 怒れ。憤慨しろ。灯子の瞳孔は先走ってちりりと燃えた。

「俺は」

 ――灼けろ。

「俺は、床々山に戻る」

 崖の風がびゅうと吹いて、灯子の火を消した。灯子は歯の隙間から呻くような声をあげた。

「床々山には、人間どもが……」

「だから戻らなきゃいけねえ。俺は雄伝に生かされた。雄伝に託された。……床々山の次の親分はこの俺だ。山を捨てたままよそでは生きられない」

「死にに行くのか」

「死なん。俺は死なん。今度は敵を皆殺しにする戦じゃない。やりようはあるさ」

「私は行かんぞ」

 灯子は最初から決めていた事を言った。大伝はくるりと振り向いた。左目の潰れたままに、朝日を背負って、憎らしいほど覚悟の決まった顔をしていた。

「ああ、いい。お前もこの山には必要だろう。あの天人とかいう連中が床々山を落とすのに味を占めて、よその町の狩人もけしかけてくるかもしれない。この山も昔ほど安泰ではなくなるかもな。お前なら、この山の狸たちを束ねて守れるだろう」

 大伝の、そういう気回しを期待していたのではなかったが、想定はしていた。こいつはどうせ戦馬鹿だ。いつだって、誰それと戦うとか、倒すことしか考えない。

 こいつとは相容れぬ。

「松角を連れていけ」

「いいのか? あいつも山の守りに必要だろう」

「良い。私が命じれば松角も文句は言うまい。大伝」

 今度、背を向けたのは灯子の方であった。ねぐらの方へ戻りながら足を止めずに言い放った。

「生き残るなら、もう一度栄えるつもりならば、女が必要だ。お前がいくら威張って強がりを吐いていようともな。松角ならばお前の粗暴も抑えられるだろうよ」

「馬鹿言え、抑えられてたまるか」

「どうだか。愚鈍め。自分の足元もロクに見えぬお前なぞ……。ねぐらの酒の話、聞いたぞ」

「な、な、誰にだ」

「さぁて!」

 ケラケラと灯子の笑い声は風に乗り、北門山に吹き渡った。山の狸たちが、はて、あれは誰の声かと不思議に思うくらい、朗らかで屈託のない声であった。


「……かくして天の岩戸は開かれ、世に再び光の戻った次第。あっぱれ、あっぱれ」

 幕内に喝采が鳴る。太陽神の衣装を纏うて舞台を降りた咲江の白い顔は、紅圭座に集った人々の餓えるような喝采を背に受けて、決して晴れやかではなかった。彼らは芝居を見に来たのではない。天人の物語を、彼らの謳う『人間は天の神の子孫である』という話を聞きに来たのだ。芝居は、天人の教えを伝えるための皮でしかなかった。

 ――けれど、それもやむを得ない。

 咲江はやると決めたことをやりきった。丈吉がこの芝居を気に食わないのも知っているが、それでも舞台に上がることを決意した。

 大年の人々には、柱が必要なのだ。あの戦は惨いものだった。狩人のみならず、多くの女子供までも犠牲になった。冬を前にして家を失った者も多くいた。心身ともに深く傷ついた人々が生きる力を取り戻すためには、心から信じられる柱が必要なのだ。

 その柱に天人がまんまと居座った、と丈吉なら言うだろう。

 大年を炎から救った竜吐水といい、床々山の親分雄伝を討ち取った手柄といい、それまで山奥に暮らす変人とばかり思われていた天人の活躍は狩人以上に頼もしく、人々の信頼を集めることに、と。それでも咲江が舞台に上がる事に反対せぬのは、大年のために人々の柱が必要であることを、丈吉も理屈では理解しているためであろう。

 舞台後の始末や挨拶を済ませると、咲江は足早に幕を離れた。今日も丈吉は狩りに出ず、家で黙々と木彫りに没頭しているに違いない。背中を斬られた傷が膿んで、一時は酷い熱を出したが、近頃ようやく熱も落ち着いて平静にしていられるようになったところだ。傍に居て少しでも話相手になってやらねばと、咲江は白い息を吐きながら飛ぶように長屋へ駆けていく。

 だが、このところ丈吉の機嫌がよくないのは、そのためだけではない。あの戦以来、顔に深手を負った六武太が行方知れずなのだ。

「天人の女が治療をするというので、託した」

 六武太を山から連れかえっていた健人は、後に丈吉へ語った。あの状況下では妥当な判断だと丈吉も責めはしなかったが、健人の眉間にははっきりと悔恨の皺が寄っていた。一刻も早く戦場へ戻るためだったとはいえ、得体の知れぬ者に仲間の身を預けるなど言語道断、軽率な判断だったと皺が語っているのを咲江も見た。見て、「六武太さんならきっと大丈夫です」と慰めを述べる他なかった。

 咲江が案じているのは、六武太の妹のお菊の方であった。ただでさえ心配性なあの娘が、兄の帰らぬ日々に耐えられるのか……。しかし、嬉しい事にこれは杞憂だった。

「兄さんは必ず戻ります。いつも、狩りに出る時は約束をするのです。必ず無事に帰るのだと。……今回の大きな戦でも、兄さんは約束をしました。だから必ず戻ってきます。兄さんが約束を守るのなら、私も元気に待っていなければならないのです」

 病弱の、色の薄い肌のままでありながら、お菊は気丈に笑って見せた。

「安心してください、お菊さん。六武太さんは必ず私が見つけ出してみせますから」

 夢若屋もそう言って白い歯を見せた。

 しかし……どこか以前の、女の子のようにも見えた幼子の顔ではない。幼いながらも、決意を秘めた男の固い顔に近付いているように咲江には見えた。丈吉が動けぬ今、大年を去った天人を追えるのは夢若屋において他にないと、張り切っているのだと咲江は思った。夢若屋は十日ほど前に大年を去った。天人が、次は北方の七加瀬へ向かったのだと言う。それを追って行った。夢若屋について咲江は信じて待つしかない。

 今は各々が、各々の役目を果たすべきなのだ。そう肚をくくった咲江であったが、長屋へ帰りつくや否や、いつかのように逆立ちをしていた丈吉の放った言葉には驚いた。

「咲江、俺は明日から山へ出る」

「丈吉様、そのお傷ではなりません」

「いや、案ずるな。何も今すぐ狩りをするわけじゃあない。山の狸どもはあらかた片付けられて、残党狩りもほとんど終わっているようだ。今の床々山は人間の統治において平穏だ。今のところはな」

「いずれ、そうではなくなると……?」

 戸口で固まる咲江の前で、丈吉は逆立ちを止め真っ直ぐ立った。

「大伝は必ず戻って来る。あれを始末せねば、狩りは終わらない」

 丈吉は咲江の傍へ来た。いつものように咲江の手を取り感激する代わりに、腕を広げて咲江を包んだ。そして咲江が抱き返す前に、つと身を離して外へ出た。

「まだ終わっていないんだ、咲江。戦の事も、天人の事も、六武太の事も……。俺はどうでも、そこに足を突っ込まずにはいられない」

 丈吉は冬空を見上げ、そこに片目を射られた大伝の顔を描いた。あの残った方の目は、まだ生きた光を宿している。狩人の本能がそう告げていた。

 咲江はそんな丈吉の背中を見ることもなく、長屋の奥へ引っ込んだ。準備をするために。丈吉の傷を一刻も治し、彼の最も輝ける場所へ送り出すために。まずは飯の拵えだと袖をまくった。

 凍える冬がやってくる。雪は降らず、剥き出しの血溜まりの残り続ける冬が。

 人も、狸も知っていた。次の戦が来ることを。

 されど、島の永い永い歴史の中、本当の冬が訪れるのはまだこれからなのだと、予見できた者は僅かであった。

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澄み泥 狸汁ぺろり @tanukijiru

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