終戦
大伝は、どうと倒れた。
射られたのは片目だが、もう片方の目も、鼻も、耳も、まるで利かなくなってしまった。身体中から泥がこそげ落ちていくのを感じた。
今の矢は間違いなく深く刺さった。命の線を断ち切らんばかりに、深く。
「とどめを刺せ」
と、天人が叫んだ。まだ生きている天人たちが一斉に槍を向けて来た。もう死んでいる者へ、さらにとどめを刺すために。
それでも大伝が生きていたのは、雄伝のおかげだった。
「ゆうぅ……でえぇぇ……」
剥がれ落ちた泥の中から黒蛇のような尾が出でて、迫りくる槍を薙ぎ払った。「奴め、まだ意思があるぞ」と天人は緊張を高めたが、大伝にはほとんど無意識の行動だった。
辺りに降り注ぐ泥の雨。その中を飛んできた矢の鏃にかすかな泥が付いていなければ、雄伝ほど我が身の守りに長けていない大伝はそのまま死んでいた事だろう。泥のおかげでほんのわずかながら矢の刺突が鈍り、また矢とともに頭部へ食い込んだ泥が、死に体の大伝を動かしていた。
「大伝。生きろ。生きて殺せ。人間どもを、父の仇を、右眼と左眼の仇を取れ」
「大伝、夫の仇!」
泥の尾が天人を薙ぎ払った一瞬の隙を突いて、躍りかかった女狩人が長刀を振り下ろした。大伝が子供の頃に初めて狩った人間、それが女狩人の夫だった。完全に不意をついた一撃は大伝の無意識の防御さえ間に合わなかったが、灯子は間に合った。
「それに手を出すな、人間のメスめ」
「おのれ、獣の分際で火を使うなど生意気な」
生きた火矢と化した灯子の突進を受けて、女狩人は大伝を討ち損なった。それを追撃する余裕も大伝にはなく、灯子が応戦するのを感じている他なかったが、やがて、女狩人は恨みの弁を吐きながら、刀を抱えて逃げ去って行った。それを追いかける余裕は灯子にもなかった。
ふう、と熱い息を吐いて、灯子は尻尾の火を消した。傍らには大伝が転がっていた。背中の火傷が剥き出しになっていた。
「生きているか」
「……たぶん、生きてる」
「返事が出来るなら生きているに決まっている、愚鈍め。それより……」
灯子は昏い目で周囲を見渡し、音もなく溜息をついた。
「床々山は、もう終わりだ」
泥の雨は止み、初冬の晴れ空が山を覆っていた。
山頂近く、泥の鬼と化した雄伝が逃げ着いた場所。そこは大伝のねぐらでもある滝の傍だった。
鬼は鎮まっていた。大伝を守るために最後の意思を飛ばし、虚ろな泥の塊に過ぎぬ物質となっていた。だが、それを見下ろす今朝治と、これまでどこにいて、どこから現れたのか、猿のように小柄な老いた天人の目には、まだ油断ならぬ陽炎があった。
「これを放っておけば、また意思が宿る。山に燻る狸共の怨念、意思の残滓が。我らはそれを封じねばならぬ」
老いた天人の声は皺枯れきっているが、鋼のような硬さ、老いを弱きとせぬ強かさに満ちていた。
「今朝治よ。狩人を取り逃したからには、わかっておろうな」
「覚悟の上でございます。瑞葉様」
今朝治の態度は凪いでいた。言葉にする以上に、全てを覚悟し受け入れていた。
「狩人を狙ったのは、飛び込んできた手頃な贄を活用しようとしたまでの事。拾い損ねたものに未練などありませぬ」
「ウム……。お前が死に臆したなどと誰も思うてはおらん。お前はわしが手塩にかけて育てた勇士。我ら天人の未来を担う大器じゃ。なればこそ……」
「器の責を果たしまする」
今朝治は泥の前に両膝をつき、惑いなき手で仮面を外した。汗の玉一つ浮いていない、役者にでもなれそうな端正な顔が露わになった。
「瑞葉様、最後の願いがございます」
「申せ」
「最後の始末は、どうかこの手でつけさせて頂きたく」
今朝治は仮面を脇に置き、両拳を膝に乗せて主の答を待った。瑞葉は時を置かず答えた。
「構わぬ。これはお前の獲物、お前の手柄じゃ。今朝治。この仮面は後の世の天人たち、いやこの島のすべての人間たちに、英傑の形見と崇められるであろう」
ありがたく、と口に出したいのを堪えて、今朝治は両手を泥へ差し出した。ぬるりと、白い指に泥が絡みついた。こうして触れてみると確かにまだ生きている。意思はなくとも命がある。これを封じねばならぬ。天人の、人の未来のために。
今朝治は口を開き、泥を喰った。
「丈吉、しっかりしろ」
頼もしい声に呼びかけられ、丈吉は薄く目を開いた。いつの間に倒れたのか、大伝に矢を放ったところまでは覚えているのだが、その拍子にどっと背中の傷から血が噴き出して、そこから先は覚えていない。
「一応手当はしたが、まだ傷はふさがっておらん。無理に動くなよ」
「健人、様……」
六武太を連れて山を下ったはずの健人が、丈吉を抱き起して顔を覗き込んでいた。その顔を見て丈吉の頭はにわかにすっきりし始めた。
「六武太は……?」
「あいつなら他の者に預けた。それより、戦は終わりだ。我らの勝利だ。雄伝は死に、大伝は逃げた。生き残った狸どもも大伝とともに逃げたようだが、なぁに、すぐに追手を差し向けて始末してやる。お前はよくやった。雄伝にとどめをさしたのは天人だが、大伝に深手を負わせたのはお前だと聞いている」
まるで実の兄のように、健人は丈吉の額を撫でて慰めた。丈吉もそれを甘んじて受けた。
「後の事は俺たち、横倉家の裁量に任せておけ。今はお前を無事に帰してやることが何より大事だが……なあ、お前の連れはどうした? 六武太ではない。もう一人、大人顔負けに馬を駆る幼い相棒がいたはずだが」
「丈吉さん!」
蹄の音と共に、幼い相棒が姿を現した。元々赤い顔がいっそう上気して見えたのは、丈吉の見間違いだろうか。
ともかく。
戦は、狩りは終わったのだ。
丈吉は目を閉じて、今度こそ深い眠りについた。
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