マイクロマラソン

真花

マイクロマラソン

 受け入れられるか分からない。でも、どうしても聞いて欲しい。

 そんな顔をするから、見ていたドラマを消して、ダイニングで息子と向き合って座った。

 小学四年生になる今日まで、ここまで真剣な、どこか必死な、そして楽しそうな感情の複合体となった姿は見たことがなかった。一体何を話されるのだろう。母親として彼の成長のためになる一言を掛けてあげられるだろうか。

 息子はここに他の誰も居ないことを確認する。じっと見つめる瞳。それなのにモジモジするから私から水を向ける。

「何があったの?」

「あのね、僕、前世の記憶が蘇ったんだ」

 想定していた人間関係とか勉強とかバレるとまずい悪戯とか、全部が一瞬の内に蒸発する。

「え?」

「前世の記憶が、蘇ったの」

 にわかには信じがたいが、息子は正気のようだし、聞いてから判断しよう。

「それって、武士だったとか馬だったとか、そう言う奴?」

「違うよ。僕達は、選手だったんだ。そして、僕は勝ったんだ」

 話が見えない。その通りの顔をしたのだろう、息子が説明を始める。


 僕達はうじゃうじゃ居た。周りを見渡しても全部が仲間だった。たくさんの仲間に囲まれて僕達はその時を待っていた。

「君は前世は何をしていたんだい?」

「僕はミミズだよ、君は?」

「僕はらっきょう」

 前世のことを大体みんな覚えていて、待っている間はその話をすることが多かった。それは退屈と言うよりも平穏な日々で、僕達に待ち受ける運命のことはみんなうっすら気付いていたし、僕達は世界を謳歌していた。

 ある日、サイレンが鳴った。世界の全部に行き渡るけたたましい音は、僕達が参加するマラソンの出発が近いことを示している。僕達は身構え、最後になる交流に一抹の切なさを携えながら、号令を待つ。

 出走の号令が響く。

 スタートラインは一定ではない。そのときにたまたま居た場所がその人のスタート地点になる。僕達はうじゃうじゃ居たから、そもそも自分がどの辺りにつけているのか把握は出来ない。

 それでも進むべき前は分かる。殆どの人がそっちに向かっている。僕はとにかく前へ、前へ進んだ。

「頑張ろうな」

「健闘を祈る」

 見知った顔と声を掛け合うけれども、一緒に走ったりはしない。

 左右を見ると壁があり、比較的細い一本道であることに気が付く。

 どれだけ進んだだろうか、急に壁がなくなる。どっちに進めばいいのか全く分からない。周囲には大勢の仲間が居て、景色としてはスタート地点と大差がない。違いがあるのは山が一つ、ここはその麓のようだ。山以外の方角は谷になっている。

「山があったら登りなさい。穴があったら入りなさい」

 前世話の間に、長老から聞いた言葉だ。僕はそれを信じて、山の方を目指した。半分以上の仲間が谷の方に行ったけど、山の方に来ている仲間も相当数居る。

「山ですよね」

「山が正解だと思います」

 僕達は励まし合いながら山を登る。

 山のてっぺんに穴を見つける。躊躇せずに入る。きっとこっちがゴールだ。先にここに進んだ奴もかなり居るから、ここから追い上げなくてはならない。

 穴の向こう側は徐々に広くなっている。

 あちらこちらで仲間が倒れているのが見える。死屍累々とはこのことだろう。

 概ね、右と左に別れて集団は進んでいる。真ん中は仲間の亡骸ばかりが横たわっているから、道ではない。

 右か。左か。

 何のヒントもない。

 進んでいる仲間の数を数えてみても左右で差があるとは言えない。

 つまり、完全な勘勝負と言うことになる。

 右だ。何となく呼んでいる気がする。

 進む。道には仲間だった者達。

 進む程に、険しい。

 前で横で斃れてゆく仲間達。

 それでも僕は前に進むしかない。

 そこからかなりの距離を走って、やっとゴールが見えて来る。それは初めて見るものなのに、ゴールだと本能が告げている。そして、仲間達がそこに向かって突き進んでいる。

 ゴールテープは分厚い。これを突破した者が勝者だ。既に何人もの仲間がゴールテープを破らんと頭から突っ込んで行っている。僕もそれに加わる。一番でなければ意味はない。

 グリグリと頑張っていると、急にテープを抜けることが出来た。

「やった」

 そう思った瞬間に、体が役目を終えたかのように消えて行く。


「そうして今世では僕になったと言う訳なんだ。前世はマラソン選手だったんだよ」

 息子の目は眩しく輝いている。

 最高の秘密を私と分け合ったことに喜びを、話の次にはこの気持ちを受け止めて欲しい。そう言う顔だ。

 私は手をテーブルで隠したまま、下腹部を押さえる。

「それは、ギリギリ前世じゃないわね」



(了)


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