なんとなくブラジル

新巻へもん

後朝

 ふと目を覚まして横を見ると彼が居ない。手を伸ばすと滑らかなシーツにまだ微かな温もりがあった。カーテンの隙間から見える外の薄明かりの感じではもうすぐ夜明けのようだ。窓辺からしんしんと冷気が流れ込んできて、今日も底冷えがしていることを伝えてくれる。


 耳を澄ますと階下で小さな物音が聞こえた。体をずらして、もう一つの枕に顔を埋め思い切り息を吸い込む。彼の香りが鼻から気管、肺一杯に広がり、体の奥の熾火が疼く。昨夜の嬌態を思い出して、思わず頬が緩み、口元に笑みを浮かべた。我ながら少々やりすぎたかもしれない。


 年末調整の書類の山と格闘する毎日に心底疲れ果てた私が彼の店にタクシーで乗り付けたのは木曜日の25時だった。週末まで待てない。そうメッセージを送っておくと、彼が戸口を塞ぐようにして出迎えてくれる。鍛え抜かれた体を窮屈そうに屈めて、触れるか触れないかの軽いキスをした。


 靴を脱ぐやいなや、起重機のような力強い腕で横抱きにされる。盛り上がった肩に頭を預けるとそのまま2階へと運ばれていった。さっとシャワーを浴びた私がバスタオル姿でベッドの上に腹ばいで横たわる。彼の大きな手が頭に触れると絶妙な加減でマッサージが始まった。


 何十センチと積みあがった書類と格闘してバリバリに凝った後頭部を彼が優しくもみほぐしていく。それから、首筋、肩と念入りにコリをほぐしていった。分厚い筋肉に覆われた巨体にこのような繊細な技があるとは想像もできないだろう。ほとんどマウンテンゴリラと変わらない大きな体にも関わらず彼の指先はしなやかに動く。


 さらに背中、脚、脹脛、足裏といつものコースが終わる頃には私の強ばりはすっかり溶けてなくなっていた。私は気だるい体を起こすと彼の耳たぶを噛む。少し強めに歯形が残るぐらいに。これが二人の間の合図だった。彼の指の動きの目的が変わる。


 髪を撫で、眉をなぞり、鼻梁を通って、私の上唇を撫であげる。吐息と共に指をついばむと一旦離れ、今度は首筋をすっと撫でられる。そして、彼の指と舌が私の敏感な場所に触れる。丹念にゆっくりと愛撫が繰り返されて、ふわふわした気分になっていった。体を重ねてからも彼は決して激しく動くことはない。ゆっくりと高みに押し上げられていった。


 昨夜の記憶に満ち足りた気分に浸っているとカチャカチャという音が聞こえてくる。部屋のドアが開かれ、ぬっと大きな人影と共に香しい匂いが部屋に満たされた。シーツを巻き付けて体を起こすと薄闇の中で白い歯が光る。


「よく眠れた?」

「もちろん。あなたのお陰よ」

「それは良かった」

 彼が私にソーサーを手渡す。カップから立ち上る香りと温もりを堪能してから一口含んだ。


 酸味が少なく深みのある味が口いっぱいに広がる。

「ねえ。朝のコーヒーはどうしていつもサントスなの?」

「なんとなく」

 そう答える彼の目が笑っている。


 尖った特徴はないけれど、他のどんな豆とも相性がいいブラジル・サントス。温和な彼そっくりな穏やかなコーヒーを味わいながら、私は幸せをかみしめていた。



 

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