第4話

 今日は夕貴も仕事がお休みの休日だった。

 朝をゆっくりとコーヒーを片手にテレビを見ながら過ごす夕貴。キッチンでは千夜が朝食で使った皿を洗って片付けていた。

 ブラックコーヒーの苦みで頭を徐々に働かせながら、テレビのニュース番組に耳を傾ける。


『昨日、駅前で二十代の女性が痴漢に遭う事件が起こりました。被害者――』

「ふーん……」

『さらに昨夜、女子大学生を無理やりに部屋へと連れ込み、服を脱がせるなど性的な暴行が行われる事件が――』

「物騒だよな……」


 こうして現実で強姦などの性犯罪が増えているのを見ると、世間がどれほど怖いものなのか思い知らされる。

 しかし、それは自分はどうだろうか、と思い返す。

 いくら合意とは言え、俺は妹を連れ出して、地元からも消息を絶っているのだ。

 母さんは泣いただろうか。親父はぶちキレただろうか。

 警察沙汰にまでなっていないだろうが、今顔を出せば間違いなく俺が、親父から半殺しに遭うだろう。


 身震いをすると、夕貴は千夜に視線を向けた。

 鼻歌を歌いながら、食器を片付けている。こうして見ると、本当に彼女って言うか新妻みたいだ。


「ん? どうしたの? 夕貴くん」

「いや、そういえば千夜も今日は予備校、休みだっけ?」

「そうだよ」

「久しぶりにどっか遊びに行くか?」

「うん! 行く行く! 行きたーい!」


 千夜はパッと花咲くように満開の笑顔を見せた。

 せっかくの休みだし、千夜も毎日勉強ばかりで羽を伸ばしたいだろうから、ちょうどいいかもしれない。


「んじゃ、支度するか」


 歯磨きをして、寝癖を直し、服も着替えて、夕貴は準備をした。

 千夜も着替えを済ませている間、夕貴は先に外に出てマンションの外で一服する。

 煙草の煙と、自分の息が白く口から吐き出されて、空気に溶け込む。


「パパー! ママー! 早くー!」

「待って。走ったら危ないでしょ」


 とマンションから三人家族が出てくる。

 ここは家族や夫婦で暮らしている人もいい。だからおかしくはないが、夕貴は自然とその家族を目で追っていた。

 男の子の方は、五歳とか六歳くらいだろうか。

 さらに母親の方は、恐らく二人目の子供だろう。お腹がやけに大きかった。父親は母親の補助をしながら、ゆっくりと歩いている。


「ほらー、早くー!」

「待ちなさい!」


 母親が声を張ると、お腹を押さえてくしゃっと顔が歪む。

 そんな母親を父親が支えて「大丈夫? 大声はダメだよ」と呼び掛けていた。


「もう! 先に行くよ!」


 男の子の方は親の方を見ながら、後ろ向きに進んで行く。

 そして歩道に出た時だった。物凄いスピードの自転車が迫っているのに、男の子は気づいていない。

 パッと振り向いた瞬間には、男の子は身体が金縛りにでもあったかのように、動けずに立ち尽くしてしまった。


「おっと!」


 しかし男の子の腕を引いて、歩道からマンションの駐車場側に引き寄せることで、自転車との衝突は綺麗に回避される。


「ちゃんと前を向かないと危ないよ」


 男の子の腕を引いたのは夕貴だった。


「すみません、ありがとうございます!」

「ありがとうございます!」


 追いついた母親と父親が夕貴に頭を下げた。


「いえいえ、それよりお母さんの方は大丈夫ですか?」

「これから検査で病院に行くところでして」

「それじゃ、タクシー捕まえてきましょうか?」

「え? そんな――」


 父親の方が慌てて遠慮しようとするが、どう見ても母親は辛そうだし、この人が傍についていた方がいいだろう。


「大丈夫ですよ。ちょっと待っててください」

「本当にすみません。ご迷惑をおかけして……」

「いいですって」


 夕貴は道路で適当にタクシーを見つけると、分かりやすく手を挙げて誘導する。

 無事に母親も父親もタクシーに乗ると、最後に男の子が乗ろうとするところを夕貴は呼び止めた。


「君」

「なに?」

「君がお母さんを守ってあげるんだよ」

「うん! もうすぐね、妹が生まれるんだ!」

「そっか。じゃあ、もう危ないことはしないんだよ」

「はーい!」


 無邪気な笑顔で返事をすると、最後まで父親の方が「ありがとうございます」と何度もお礼を言っていた。


 子供か……。

 俺と千夜は実の兄妹だ。だから子供なんて作れない。エッチなことはしても、妊娠させてはいけない。

 でも、千夜はどう思っているんだろうか。もしこのまま千夜が大学入って、卒業して、就職して、恋人から夫婦として一緒に暮らすようにして……千夜は子供を欲しいと思うのだろうか。

 俺たちの子供……。


「夕貴くん、お待たせ!」


 千夜の声に反応して振り向くと、早足でこちらに向かっている。


「……なにかあったの?」

「いや、ちょっとな。それじゃ行こうか」

「うん!」


 いや、そういうことは後々考えて行こう。

 もしかしたら、千夜にもまだ普通の恋が待っているかもしれないのだから。


 ***


 特に行く当ても考えていなかったため、とりあえず駅の方に向かうことにした。

 駅からだったら、遊園地でも水族館でも行きたい場所に行ける。


「行きたい場所とかあるか?」

「うーん、夕貴くんと一緒ならどこで楽しいよ」

「それは答えになってない」


 小さく溜息を洩らしながらも既に駅は目の前にまで見えていた。

 駆け落ちして、こっちで二人暮らしを始めてからというもの夕貴は仕事で、千夜は予備校で忙しくしていたので、なかなかデートというものに行く暇がなかった。

 もちろん初めの頃は、兄妹という関係もありぎこちなくも、不思議な感覚でデートをしたことがあるが、その時は映画館に行ったり、カラオケに行ったりしたぐらいだ。

 そう思うと、俺は千夜がどこで遊ぶのが好きなのか、どんな場所が好きなのか、どんな趣味があるのか、知らないこともかなり多いのかもしれない。

 どうしたものかと考えていると、千夜がふと足を止めた。


「千夜?」

「夕貴くん、行きたいところあるかも」


 そう言って、千夜は進行方向を変えた。

 駅の方からUターンして、さらに歩き続けると十数分。千夜の後ろを金魚の糞のようについていく夕貴は見えてくるそれに思わず声を零した。


「有馬大学……」


 そう、そこは以前に千夜が受験しようと口にしていた有馬大学だった。

 しかも、やたらと人が多く出入りをしており、中の方も賑わっている様子だ。


「うん、今日ね、たまたま学祭なんだって」

「そうなのか。でもいいのか? せっかくの休日なのに」

「……夕貴くんにも一応どんな大学か見てほしいの。それに学祭だったら、大学生気分でデートもできるよ?」

「俺ももうすぐ二十五だぞ? 流石にそれは……」


 しかも俺の場合、短大だったし、かれこれ四年以社会人やってんだ。もう大学生の気持ちなんて忘れちまった。


「ほーら、行こうよ!」


 けど千夜は夕貴の手を引いて、半ば強引に大学の中へと入っていった。

 中は学生や一般来場者でガヤガヤと賑わっている。模擬店がいくつも出展されており、食べ物かゲーム的なものまで様々に用意されていた。

 そのおかげもあってか、学祭にやって来ているのは若い人達だけではなく、大人や子供連れもちらほら見受けられた。


「夏にもオープンキャンパスは行ったんだよな?」

「うん、行ったよ」


 オープンが盛んな時期と言えば夏だろう。

 予備校に通っている千夜ももちろんいくつかオープンキャンパスに行っている。千夜には一緒に行ってほしいと言われたが、その時は夕貴も仕事が忙しく一緒について行くこともできなかったのだ。


「ねー、ねー、あれ食べたいな」


 千夜が指差したのは、リンゴ飴だった。

 マジか、リンゴ飴なんて出しているのか……。

 なんて思いつつも夕貴はその店まで足を運ぶ。


「いらっしゃいませ!」


 男の元気な声が飛んでくる。

 おお、若さゆえの覇気ある声だ。


「えーっと、リンゴ飴、一つで」

「ありがとうございます!」


 その高いテンションに若干気圧されながらも、ちゃんとリンゴ飴を受け取った。料金設定も三百円とお財布に優しい。

 遊園地とかで遊ぶよりは、安く済みそうなので安心する自分がどこかにいた。


「ほらよ」

「ありがと」


 千夜に渡すと、ガリッと外側の飴を齧りながら、綺麗なリンゴの形が欠ける。


「夕貴くんも食べる?」

「んじゃ、貰おうかな」


 受け取ると、夕貴もガブッと千夜の食べた場所をさらに齧った。シャキシャキとした清語の食感と飴の甘さがとても美味だ。


「にしても、結構でかいんだな」

「うん、だって国立だし学科も多いし」

「そっか」

「ねえ、もっと中の方も見て行こうよ」

「いいよ」


 基本的に案内は千夜に任せてしまう。

 講義室の中や、学内の施設もいくつか見られたが、どれも綺麗で広いものだった。去年あたりに改築工事が入ったとかで、校内のほとんどの施設が最新のものになったらしいのだ。

 外でもそうだが、校舎内でもサークルの出し物や模擬店もいくつか見える。


「夕貴くんってサークル入ってたの?」

「サークルか……。入ってたぞ」

「どんなの?」

「麻雀とか漫研とかだな」


 ただ気が向いた時に漫研に行けば、ただひたすらに漫画を読んで、麻雀の方はその名の通り、ひたすら麻雀を打っていた。時々、お金も賭けていたが、それは秘密にしとく。

 しかし酒が入った状態で麻雀を打つのは楽しいものだ。

 久しぶりに麻雀を打ちたい気分になる夕貴に対して、千夜はどうやらそれが分からなかったらしい。

 千夜のジトッとした視線が向けられる。


「まさかだけど、サークルで合コンとかそういうの行ったりしてないよね?」

「合コン……行ってないぞ」

「ほんと?」

「ホントだって! そもそも俺が合コンに行くような奴に見えるか?」

「見えるよ! だってお兄ちゃん、お酒好きだし飲んだらすごくテンション上がるじゃん」

「それはそうだが……って言っても飲み会とかはあったが合コンみたいなのは行ってないって!」


 千夜はまだ疑念の眼差しを向ける。

 それに呼び方も「お兄ちゃん」に戻っていることに本人も気づいていない。

 すると奥から生徒らしい男女が近寄ってきた。


「こんにちは。一般来場者の方ですか?」

「あ、はい。そうです」


 夕貴が咄嗟に受け答えする。


「では、うちのサークルを見て行きませんか? 映画同好会なんですが、これから上映会をするんですよ」

「映画か……どうする?」


 千夜に訊ねると、夕貴の袖を摘んで「どっちでもいいよ」と小さく呟いた。


「仲の良い兄妹なんですね」

「「え?」」


 夕貴と千夜はほぼ同時に同じような顔でぽつりと声を洩らした。

 理由も同じだ。「兄妹」と言われたからだ。


「兄妹って言いましたっけ?」

「いえ、先ほど、お兄ちゃん、と呼んでいたのを聞いたので」

「ああ、なるほど」


 そこで納得する。


「でも、最初は恋人同士に見えましたよ。本当に仲が良いんですね」

「あはは、それはどうも」


 夕貴の苦笑いに千夜は不満げな表情を浮かべる。


「じゃあ、せっかくだし、見に行きます」

「ありがとうございます。では、案内しますね」


 そうして映画同好会の教室まで案内されると、他にも学生やその友人などで席は半分近く埋まっていた。

 夕貴と千夜も後ろの空いている二席に座ると、ちょうど開演時間だったらしくアナウンスと共に部屋は暗くなり、大きなモニターに映像が流れ始めた。

 結果的に言えば、大学生の作った映画ということでクオリティは低いものだった。しかしシナリオも良かったし、芝居も表情から動きまでちゃんとできる者も数人見られた。

 ストーリーは教師と生徒の禁断のラブストーリーを描いており、徳人はどこか他人行儀では見れず、真剣に最後まで鑑賞していた。

 千夜は時折、欠伸を洩らしたり、退屈気な表情を浮かべたりするも、一応眠ることなく我慢していたようだ。


「どうだった?」

「なんか、微妙だった」

「そっか」


 まぁクオリティは自主製作なら仕方のないところだ。


「ねえ、あの話で最後に先生の男と生徒の女の子は結ばれたじゃん。あれって、なんかちょっと私たちに似てるよね」

「……そうかもな」


 そう、最後に教師の男が告白をして、最終的に教師と生徒の関係にありながら二人は付き合い始めて話は終了した。

 その後どうなるのか、なんてのは誰にも分からない。


「あの後、二人が幸せに過ごせたらいいね」

「そうだな」

「……あ」


 映画同好会の部屋を出て、適当に歩いていると千夜は何か思い出したように足を止めた。


「?」

「私は幸せだよ。夕貴くんと一緒にいれて、こうして一緒に過ごせて、すっごく幸せだよ」


 真っ直ぐに見つめる視線を逸らすことなく夕貴も見つめ返す。

 本心からの言葉だというのはすぐ分かる。


「夕貴くんは……幸せ?」

「……当たり前だろ」


 夕貴の大きな掌が千夜の頭をポンポンと優しく撫でる。

 千夜が今、幸せだと感じているのなら俺はそれで十分満足だった。


 それから夕方までいろんなサークルの出し物や模擬店を見て回り、久しぶりに遊び疲れる感覚を味わった。

 家に帰れば、いつもの変わらない空間と時間が待っている。


「ただいま」

「ただいま、おかえり」


 千夜は言って、フフッと可笑しく笑う。

 既に外は暗く、部屋の中も明りを付けないと暗くて何も見えない。部屋に明かりが灯り、千夜はせっせと夕飯の支度を始めていく。

 先に風呂に入ってあがると、火照った身体を冷ますようにベランダまで出て、煙草を一本、銜える。


「夕貴くん……」


 夕飯を作り終えた千夜がエプロン姿のままベランダにやってくる。


「有馬大学、どうだった?」

「良いと思うぞ。講師も生徒もいい人が多そうだし。第一志望だっけ。頑張って合格しろよ」

「うん、ありがと」

「ちゃんと大学に通ってくれたら俺も安心だしな」

「うん、でもいつかちゃんとお金は返すから……。バイトもして、少しずつでも――」

「そういうことは、余裕が出てきたら考えればいいんだよ。お前はまだ未成年で、これから大学生になるんだ。俺は社会人で仕事もしている。そういうお金のこととか、考えるのはいいが変に気遣うのはやめろ」

「……」

「俺たちは、その……恋人なんだろ?」

「うん!」


 千夜は優しい。

 相手のことをよく考えて、空気を読んで、自分のことよりも周囲のことをいつも優先して、気を利かせてくれる。

 だからこそ、自分がそれだけ救われているのかよく分かる。

 千夜がいるから今の俺は頑張れている。

 千夜が悲しまないように、千夜が笑ってくれるように、千夜が安心できるように、俺がもっと頑張らないといけないのだ。


「ご飯食べよっか」

「ああ」


 夕貴は半分残っている煙草を灰皿にすり潰した。

 この生活を続けること、守ることが俺の役目なんだと、今はただそう思う。

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兄妹が駆け落ちするお話 花枯 @hanakare

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