第3話

「え? 今日から早く行くの?」

「ああ、早く出勤して、仕事の準備とかもっと早く取りかかろうと思ってな」

「いいけど……」

「じゃあ、行ってきます」

「あ、待って!」


 玄関で靴を履く夕貴に千夜は慌てて駆け寄った。

 そして夕貴をぎゅーっと抱きしめてから、顔を上げて瞳を閉じる。

 いつものやつだ。

 夕貴も軽く抱きしめ返してから、そっと唇を重ねた。


「行ってらっしゃい。頑張ってね」

「ああ、千夜も頑張ってな」


 そう言って夕貴は寒い外へと飛び出したのだった。





「んで、二駅分も歩いてから出社と?」

「ああ、マジで疲れた……」


 デスクの前で夕貴は既に疲労感の漂う顔でPCに向き合う。

 それを呆れたように隆介が首を横に振っている。


「とりあえず昼休憩にでも三住みすみさんに昇給聞いてみれば?」

「そうする」


 なんとか午前中は乗り切ったが、仕事のペースが若干落ちる。

 午後からは巻き返さないと残業になってしまう。

 その前に、昼休憩に入る前に夕貴は席を立ちあがった。向かう場所は、自分の部署の上司である三住友恵ともえのデスクだ。

 友恵は真剣な表情でカタカタとキーボードを鳴らしている。

 すると夕貴が声を掛ける前に、友恵の方からチラッと視線を向けた。


「あら? 春瀬くん、どうしたの?」

「あ、あのー……すみません、ちょっと大事な話があるのですが、お時間よろしいでしょうか?」

「ええ、いいわよ。じゃあ、第三会議室で待ってて頂戴。すぐ行くわ」

「はい」


 しっかりとお辞儀をして、夕貴は先に第三会議室の中で待つことにした。

 待つこと数分。


「待たせてごめんなさいね」

「い、いいえ!」


 会議室に三住友恵が入ってきた。

 友恵は夕貴の隣の椅子に座って、向かい合うようにクルッと向きを変える。

 自然と肩に力が入る。もちろん彼女が上司であるというのもあるのだが、その大人びたスタイルに若干目のやり場に困ってしまう。

 女性の魅力とも言える胸はブラウスのシャツに窮屈そうに押し込まれており、しかしながらウエスト周りはキュッと引き締まっている。タイトスカートから伸びるすらりとした太もももチラリと視界に映るが、すぐに目を逸らす。

 逸らした先には二十八歳とは思えない程に綺麗に整った顔があった。「可愛い」ではなく「美しい」や「綺麗」と言った表現は適切だろう。


「それで、話って何かしら?」

「あ、はい。その言いにくいのですが……」


 前置きをしておく。


「……?」

「その、給料について、でして」

「お給料?」

「はい。かれこれ今年で五年目になりますが、そろそろ昇給とかあったりしないかな~と」

「確か前の昇給は……一年前だったわよね」

「はい。そうなんですが……ちょっとお金が必要な事情がありまして、給料の昇格ないものかと、訊ねたい次第でして……」

「あら? 春瀬くんってそんなにお金に困ってたっけ? 確か、まだ独身で一人暮らしって聞いてたような……」

「はぁ……それが、その……」


 曖昧な感じで言葉を濁しながら喋っていると、友恵の方がハッと事情を察した。


「あ、もしかして……彼女さんができたの?」


 やや、にまっと目を細めて訊ねてくる。


「いや、そうじゃないって言うか、そうって言うか……」

「はっきりしないわね。別に春瀬くんの恋愛をどうこう言う気はないわよ?」

「じゃ、その……一応付き合っている人はいます」

「そうなのね。おめでとう、春瀬くん」

「どうも」

「それで、彼女のためお金が欲しいって?」

「まぁ、そんな感じです」


 すると友恵は色恋沙汰だと分かった途端、顔色を変えて悪戯顔を浮かべた。


「なぁに? そんなに彼女に貢いじゃうタイプだったの?」

「そ、そんなことはないですって!」

「だって、今の春瀬くんのお給料も十分社内じゃ高い方よ? それでも足りないなんて、何か高価なものでも買ってあげたりしたんじゃないの?」

「えーっと、まぁ……」


 主に千夜の予備校の学費と参考書代である。

 だが、別に後悔なんてしていない。これは千夜にとっても必要な出費だ。だからお金の使い方を間違っていると思ってはいなかった。


「そっか。春瀬くんにもそういう女性ができたのね。それはとても喜ばしいことだけど、気を付けた方がいいわよ」

「え?」

「女性は怖いからね。男性の財布が目的なんてこともあったりするから、彼女さんに貢ぐのもほどほどにね」


 それは問題ないと思う。

 付き合いの長さで言うなら千夜が生まれてから十九年だ。ちゃんと千夜が信頼できる女性だというのは分かっている。


「それと昇給の件だけど、すぐにって言うのは無理かもしれないわ。来年辺りならできるかもしれないけど」


 それでは間に合わない。

 なんとかしてもっとお金を稼ぐ必要がある。


「けどね、こういうのはどうかしら?」

「はい?」

「私のサポートのお仕事もこなすって条件ならボーナスっていうか、その分の働きはお給料に上乗せするわよ」

「三住さんのサポートですか?」

「そう。今までの仕事とプラスで私の分のお手伝いや出先に行かないといけない時の話し相手になってくれるとか、そういうの」


 茶目な笑みを見せる友恵に、夕貴は意外な提案で目を丸くした。

 きっと気を使ってくれているんだろう。やっぱり三住さんは、彼女なりの考えで俺に仕事をくれようとしている。


「いいんですか?」

「ええ、いいわよ。でも最近定時あがりの春瀬くんには悪いけど、ちょっと仕事終わりが遅くなったりするけど大丈夫?」

「はい! 問題ありません!」


 それでちゃんと給料があるのならむしろ嬉しい限りだ。うちの残業手当は本当に高が知れている。


「じゃあ、手伝ってほしい時は連絡するわ」

「はい! ありがとうございます!」

「ほら、お昼ご飯行ってきたら? 時間無くなるわよ」

「はい!」


 夕貴は晴れた表情で会議室を後にした。

 残った友恵は、そんな彼の顔を思い出しながら、少し重いため息を洩らす。


「はぁー……。そっかぁ、春瀬くん彼女さんができちゃったんだぁ」


 ぼそっと声に出すが、会議室は防音性に優れているので、聞き耳を立てていない限りは聞こえることはない。

 やっぱりのんびりし過ぎちゃったのがいけなかったのね。

 でもあれだけ誠実そうで、真面目で、仕事もちゃんとできているのに、今まで彼女がいなかった方が不思議だ。


「やっぱりあの時に気持ちを伝えるべきだったかしら……」


 そんなことを言いながら、友恵はパンッとタイトスカートの上から自分の足を叩いて、気持ちを入れ変えるのだった。

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