第2話
キーボードに視線を落とすことはなく、ひたすらにそれぞれの指に意思が宿っているかのようにキーボードを鳴らす。
タイピングスピードは明らかに速くなっていた。
「うっしゃ~、あがりっ!」
と隣で一人の若い男性が、声がこちらに聞こえるくらいのボリュームでそう言った。
同時に一度、夕貴にチラリと視線を入れる。
ウザい。
「おや、まだ終わってねえのか?」
「見れば分かるだろ?急ぎで資料をまとめてくれって、追加が来たんだよ……。クッソ、これじゃ残業になっちまう」
「仕方ね~な~。手伝ってやるよ」
そう言って、隣にある資料の束の半分を掴んだ。
彼の名は
入社当時から部署も同じ、席も近くだということで話すようになり、今では二人で飲み行くくらい親しい友人である。
しかし隆介は無償で他人の仕事を手伝ってやるほど心優しい人間ではない。
隆介は他に聞こえない声で、夕貴に言う。
「この後、お前の奢りで一杯な」
最初からそれが目的らしい。
「はぁー、分かったよ」
諦めて、その条件を呑むと「うっし!」とガッツポーズを決めて隆介は自分の席へと戻った。
カタカタと隆介は再び集中モードで夕貴の分の仕事に取り掛かる。
それでも定時に帰るのは厳しいほどの仕事量だった。
夕貴はスッとスマホを出して、電源を入れる。堂々と職場でスマホを弄るわけにはいかないので、多少は隠しながら操作する。
メッセージアプリを起動した。今の時代なら、誰もが使っているあのアプリだ。
そしてトーク画面の上には「千夜」という名前が映っているのを確認するとパパッと文字を入力する。
「今日は帰りが遅くなる」「飯も先に食べててくれ」の二つのメッセージを送信すると既読が付くか確認することなくすぐに電源を落とした。
「よし、俺も集中するか」
そうしてさっきよりもさらにペースを上げてキーボードを鳴らすのだった。
隆介の手伝いもあってか、案外残業確定と思っていた仕事量は定時までに片付けることができた。
今は会社を出て、隆介の二人で行きつけの居酒屋にてちょうど乾杯をするところである。
「んじゃ、久しぶりに二人で飲むんだし、カンパーイ!」
「乾杯」
ジョッキに入った生ビールを天に掲げるかのように持ち上げる隆介に、夕貴はそれにそっと自分のジョッキを鳴らした。
そして隆介は一気に半分以上を一口で飲み干してしまう。
「っぷはぁ! うんめええ!」
声が裏返り、シュワシュワののど越しがまだ喉に残っているのが分かる。
それに比べ、夕貴は軽く一口、口をつけるだけだった。
「なんだ? 飲む気分じゃねえのか?」
「違うよ。一気に飲んだら、すぐ無くなるしすぐ酔っちゃうだろ」
「ふん、ホント最近の夕貴は変わったよな」
テーブルに並ぶ焼き鳥を頬張りながら隆介が言う。つくねやネギま、豚バラなどとりあえずいつもの種類を注文しており、夕貴も箸で摘む。
いい歯ごたえの肉とその油を流し込んでくれるビールの組み合わせは最高だったし、久しぶりな気分だった。
「最近じゃろくに飲みに誘っても断られるし、何かあったのか?」
「別に何も」
「嘘つけ! 仕事だってよ、昔なら残業だろうが構わずやってたし、その後に一緒に呑みに行くのなんて日課だったじゃねえか。なのに、なんだ? 最近じゃ定時にあがることばっか考えてやがって」
隆介の口ぶりが荒い。もう酔いが回ってきたのか。
「今日だって定時にあがって、すぐに帰るつもりだったんだろ?」
「まぁな。でも、いいよ。最近じゃ付き合いも悪かったし、たまには飲まないとね。それより、ペースを落とせよ。お前の介護なんてしたねえんだから」
通りかかった店員に水を一杯頼む。
しかし隆介の飲むペースは落ちるどころか、どんどん速くなってる。既にもうジョッキ二杯目が飲み終えるところだ。
飲み終えてしまった空のジョッキをドンと置くと、ぎろりと隆介の細めた視線が向けられる。
「……なんだよ」
「……女だな。お前、彼女ができたんだろ?」
「はぁ⁉ ゲホッゴホッ……」
ちょうどビールを口に付けたところだったため、噎せてしまった。
「別に隠すことじゃねえだろ。男が定時に仕事を終えて、さっさと帰る理由なんて女しか有り得ねえ」
「それは限定しすぎでしょ」
「だったら、他の理由があんのか? 今までの飲みの付き合いも断ることが多くなって、さっさと帰りたがる理由がよ」
「うぐ……」
夕貴の言葉は詰まった。
確かに隆介の言っていることは正しくて、急に付き合いも悪くなって、会社でも黙々と仕事に集中して我先にと退社するようになった理由が異性関係だと予想が立つのは当たり前だった。
「それに、だ」
「まだあるのかよ」
「お前、引っ越したんだろ。前のところは家賃も安くて住みやすいって言ってたじゃねえか。なんで急に引っ越しなんかしたんだ?」
「それは……」
夕貴の口が籠もる。
「女と同棲でもしてんだろ」
「……違う」
「んじゃ、家に行ってもいいか? お前ん家で朝まで飲もうぜ」
「それはダメだ」
「ほーら、やっぱり女がいるんじゃねえか」
ニヤリと口角を釣り上げて隆介は言った。
こいつは勘が鋭い。
昔から観察眼が良いと言うか、人の細かい表情や動作、様子の変化などを見極めるのが非常に優れているのだ。
だからなのか、会社でも人付き合いが上手で、その個人に合わせて喋りや態度を変えて接している。さらに仕事も出来るせいで、人からの信頼がとても強く集められているのだ。
「観念しろって。俺に隠し事はできねーぞ」
その通りだ。こいつには下手な嘘は通用しない。
夕貴は小さく嘆息しながら、グビッと残りのビールを飲み干す。
「……ああ、そうだよ」
「ハハハ! んで、一緒に暮らしてるのか?」
「まぁな。誰にも言うなよ?」
「ああ、分かってるって! でも、夕貴にもようやく彼女か~~。よかったな、おめでとう」
隆介はからかうような顔をしながらも、素直に祝福の言葉を送ってくれる。
こいつの信頼は、こういう人柄とかもきっとあるんだろう。「ありがとう」や「おめでとう」をちゃんと言えるこの素直さが。
「彼女が愛しいのは分かるが、俺にもちょっと構ってくれよ? 急に付き合いが悪くなると悲しくなるだろ」
「それは悪かったって。前にみたいにはいかないけど、たまには飲みに行こう」
「ああ。んじゃ、夕貴に彼女ができたのを祝って、乾杯だ!」
さらに生ビールが届く。
二回目の乾杯を交わし、またも一気に半分以上も喉を通す。それは夕貴も同様にお互いにガッツリと飲み干した。
結局、その後は夕貴も飲むペースを上げていき、二人とも足元が覚束ないくらいには酔っ払った。
「会計は俺がするから、いいぞ」
「え? でも隆介が奢れって」
「金、あんま使いたくないんだろ? いいから、久しぶりに一緒に飲めたし、また一緒に飲んでくれるなら今日のところは奢ってやるよ」
「……悪いな。ありがとう」
ということになって隆介がその場は払ってくれた。
「ううぅ、さむっ!」
外に出ると、街明かりが差し込むと同時に冷たい風が頬を撫でる。
二人ともトレンチコートを羽織り歩き始めた。十一月の冷たい風のおかげで、二人の酔いもだんだんと醒めてくる。
駅まで帰りは一緒のため、並んで歩く。
「なぁ、隆介」
「なんだ、夕貴」
「どうして俺が金を使わないようにしてるって分かったんだ?」
「お前、ずっと節約してるだろ。飲みに行かないのも金を無駄に使っちゃうから、ってのもあるいだろうし、何より昼飯だ」
なるほどな、と夕貴も察する。
「お前、最近安いものばっか頼み過ぎだ。どの飯屋行っても一番安いメニューを注文するじゃんか」
「よく気づくな」
「そりゃ、ろくに何年も友人やってねーし。後は煙草も減らすようにしてるしな」
「そこまで⁉」
流石にそこまでバレると、怖くなってくる。
なんで煙草の回数を減らしてるのまで気づくんだよ! ストーカーか?
隆介は愉快に笑い声をあげた。
「隆介だって彼女いるだろ? 金とか溜めてないのか?」
「ああ、ちゃんと溜めてるよ。いずれ結婚もしたいし、プレゼントとかデートとかの金も俺が全部払ってやりたいしな」
隆介はどこ遠くを見るような目で言う。
そしてその気持ちは夕貴も痛いほど理解できた。
「やっぱ金かかるもんな」
「ああ、デートとかもそうだが、結婚まで考えてるんなら、プロポーズするための指輪とか、式を挙げる資金とか、二人で暮らすマンションや家の金とか……考えるだけでもキリがねえ」
「でもさ、お前の彼女って大手の企業で働てるんだろ? ならそっちの稼ぎもかなりあるんじゃないのか?」
「そりゃあ、あるさ。けど、そこは男のプライドってもんだろ。でも、流石に足りない時は助けてもらうかもだけど」
「そっか」
隆介はちゃんとこの先の将来を考えている。一生を共に過ごす彼女と結婚する時が来れば、俺は全力でこいつを祝福してやりたい。そう思えた。
それと同時に夕貴の表情は曇ってしまい、歩くコンクリートの道路に視線を落とす。
夕貴の様子に気づく隆介は横目で顔色を窺い、再び前を向く。
お前の彼女は働いてんの?と訊ねようとしたが、何故かそれは今聞いていけないような気がした。
「そんじゃ、また明日な」
「ああ、今日はありがとう」
そう言って改札でお互いそれぞれの電車のホームに足を進めていく。
時刻は二十一時を少し回っている。
帰り着くのは二十二時ぐらいだろう。
電車に揺られ、酔いもいい感じに醒め、しっかりと地を踏みしめて自宅に帰っていく。予想通り、二十二時前に帰り着いた。
マンションの三階のエレベーターから降りて、右から三部屋目が夕貴の今の家だ。
扉は鍵がかかっているが、中は照明がついて明かりが零れている。ガチャリと鍵を開けると、明るい玄関と暖かい空気に包まれて、安堵の息を洩らす。
「ただいま」
そう言うと、居間からドタバタと足音が鳴り、彼女が顔を出す。
「おかえり、おにぃ……夕貴くん!」
「ああ、ただいま、千夜」
俺の彼女であり、俺の妹でもある、春瀬千夜だった。
セーターの上からエプロンをかけており、とても似合っている。可愛い。
鞄とトレンチコートを預けると、千夜は夕貴の顔を見て鼻を摘まんだ。
「お酒臭いよ……。飲みに行ってたの?」
「ちょっとな。急に悪かったな。飯はもう食べたか?」
「うん、食べてていいって言ったから。どうする? 一応、夕貴くんの分も用意してるけど」
「んー、今日って何?」
「寒かったからシチュー作ったの」
「そっか。じゃあ、シチューだけ少し貰おうかな」
「うん! 先にお風呂入ってきて」
「おう」
浴室へと向かい、シャワーを浴びる。
部屋着に着替えて、ドライヤーで髪を乾かす。歳なのか知らないが、ちゃんとドライヤーで髪を乾かさないと最近、抜け毛が酷いのだ。
せめて五十まで禿げたくはない。
そもそも髪を濡らしたままというのは良くないらしいし。
居間に入ると、千夜はシチューを注いで待っていた。
「はい、食べていいよ」
「ありがと」
スプーンで掬い、少し冷ましてから口の中に入れると熱が口の中に広がる。ニンジンやジャガイモがゴロッと入っている。
「美味い」
「フフッ、よかった」
千夜は嬉しそうに微笑む。
しばらく食べ進めている間、千夜は同じテーブルで参考書とノートと広げていた。
「今日はどうだった?」
参考書を横目でチラリと捉えると、そんなことを訊ねる。
「うん、大丈夫。この調子なら大学受かりそうだって」
「そっか。ならよかった」
千夜と駆け落ちしてからもう半年以上が経った。
両親には本当に悪いことをしたと思っているが、一応書置きを残して俺は高校を卒業した千夜を連れて、俺の住む街までやってきた。
ずっと務めている会社を辞めるわけにはいかず、だからと言って住んでいたアパートは両親にバレているし、二人で住むには狭すぎる。
だから別の広いマンションに引っ越したのだ。会社から少し遠くなってしまったが、それでも一駅分なのであまり問題はない。
俺は変わらず会社で仕事の毎日を過ごしているが、千夜の方は現在予備校に通わせている。
駆け落ちの条件である大学なり専門学校なり通えという約束を守るために、来年受験しようと勉強をしているのだ。
けど元から成績も良かったこともり、一年ブランクに少し不安もあったが何とか大学には行けそうな具合である。
「で、どこ受けるんだっけ?」
「近くにある有馬大学だよ。ちょっとレベル高いけど先生も私なら問題ないだろうって。それに……小学校の先生とかなってみたいなって思ってて」
「いいじゃん。応援するよ」
「うん、ありがと。えへへ」
と頭を掻きながらはにかむ千夜だったが、目の前の参考書を眺めながら急に表情は暗くなる。
「でも、本当にいいの?」
「何がだ?」
「だってこの参考書や予備校の学費だって安くないのに、夕貴くんに出してもらっちゃって……」
「そんなことか。だったら心配するな。俺がちゃんとお前が大学卒業するまでお金を賄ってやる。母さんたちを裏切ったんだ。俺が何とかするしかないだろ」
「だったら、私もバイトして少しでも――」
「それは大学受かってからにしろ。それまではちゃんと受験に集中すること。それも約束しただろ?」
「……うん」
「それに貯金だってあるんだから、心配するな」
「……分かった。絶対に受かるからね!」
「ああ、頑張れよ」
千夜の勉強も終わり、夜もだいぶ更けてきた。
寝室で二人布団を並べて千夜がスー、スーと寝息を立てるのを夕貴は傍らで眺める。
白く柔らかな頬を摘んでも、突っついても千夜は起きない。
「絶対に幸せにしてやるからな」
夕貴はぼそりと呟いた。
兄妹で駆け落ちなんかして、普通じゃ考えられないようなことだ。隆介にも実の妹が彼女で、同棲してて、駆け落ちしてるなんて知ったらどんな顔をするだろうか。
きっと反対するだろうな。
でも、俺たちはそういう茨の道を選んだのだ。
だからこそ俺は千夜を幸せにしないといけない。ずっと守ってあげないといけない。それが兄として、彼氏としての責任だと思ってる。
絶対に幸せにしたい。千夜が笑ってくれる毎日にしたい。
千夜のおでこに軽くキスをすると、夕貴は千夜を起こさないように寝室を出た。
クローゼットの奥に隠してある通帳を取り出して、中を開く。
「やっぱり、マズいよな……」
三百万近く貯めていたはずの通帳は、いつの間にか二百万を切っている。
このマンションの家賃や予備校の学費が思った以上に響いてきている。さらに二人分の生活費や光熱費で自分一人の稼ぎでは明らかに賄いきれていない。
大学の学費だって、まず百万以上は吹っ飛ぶ。
そうなったら貯金はほぼ底を尽いてしまう。
「はぁー……」
こんな通帳、絶対に千夜には見せるわけにはいかないな。見たら絶対に今すぐバイトをするとか言い始める。
せめてバイトは大学生になってからしてほしい。ただでさえ浪人生で遅れてるんだから、その分勉強に集中してほしいものだが。
「近々、昇給ないか聞いてみようかな」
もっと俺が頑張って働かないと……。
そっと通帳を閉じる夕貴だった。
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