兄妹が駆け落ちするお話

花枯

第1話 プロローグ

 それは妹の千夜ちやが高校を卒業した日のこと。

 今でもこの日のことは鮮明に記憶に焼きついている。ビデオフィルムに焼かれたように、はっきりと俺はその日ことを何度も思い出すことが出来た。


 卒業式が終わり、今日は家族で美味い飯でも食べに行こうということになっていたのだが、それは千夜の意思によって中止になった。

 いつも通り、変わらない食卓で家族揃って母の手料理を囲む。

 その日は俺も久しぶりに実家に帰省していた。

 せっかくの妹の卒業式だから兄である俺は、有休を使って多少強引にも三連休で実家に帰ってきたのである。


 実家を出て数年経つが、ちゃんと年末年始とお盆には帰ってきているから、年に二回は千夜の顔をも見る機会があった。

 しかしその日の千夜はいつにも増して、どこか艶っぽく大人びた雰囲気があった。

 食事を終えると、煙草を一服吸いに外に出る。

 ズボンのポケットから手に馴染む箱を掴み取り出すと、片手で中を確認することなく一本取り出す。……つもりだったが振っても中から煙草が出てくる様子はなかった。

 確かに軽いからもう少ないと分かってはいたが、中を覗き見るとそこはもぬけの殻だった。


「あー、切らしてたか」


 食後の一服はどうしても吸っておきたい質なのだが。

 俺は財布を持って渋々近くのコンビニに行くことにした。


「お兄ちゃん、どこか行くの?」


 財布を片手に持って靴を履くところに千夜がやってきた。


「ああ、ちょっとコンビニにな。卒業祝いってわけじゃないけど、何か好きなもん買ってくるぞ」


 コンビニで卒業祝いを済ませるなんてズルいような気もする。


「待ってて。一緒に行く」


 そう言って千夜はやや顔色を明るくしてバタバタと部屋着から着替えに行った。

 別に一緒に行く必要ないと思ったのだが、そんなに欲しいものがあるのなら買ってやるくらい社会人の俺なら苦じゃない。

 財布にも確か野口英世様が五人ほどスタンバイしているはず。


 しばらくして千夜がやってくると、一緒にコンビニまで歩いていくことにした。

 家を出て働き始めてからというもの、こうして千夜とゆっくり二人で話すなんていつぶりだろうか。

 早く煙草を吸いたい気持ちを抑えながら、歩幅を千夜に合わせる。


「ほんと卒業おめでとう」

「うん、ありがと」

「そっかぁ。千夜ももう立派な大人だな」

「そうかな……えへへ」


 千夜の零した笑い声が聞こえる。別に振り向かなくても分かる。


「大学はどこに行くんだ?」


 そういう話は両親からも聞いていない。

 せっかくだから直接訊ねてみた。昔から成績も良くて、運動でもできる千夜だからどこの大学でも目指せそうなものだ。

 すると千夜は首を横に振った。

 俺は逆に小首を傾げてしまう。


「大学はね、行かない」

「はぁ⁉ なんで?」


 まさか答えに俺は思わず声をあげてしまった。

 今は夜も遅いため、声のボリュームは抑える。


「大学に行かずに、どうするんだ?進学校だろ」


 高校は結構有名な進学校だった。自分も昔、同じ高校に通っていたOBだからよく知っている。レベルも高いし、真面目に授業に出ていれば、大概の大学には行けるほどのいい高校だった。


「あ、着いたよ」


 千夜が言うとコンビニに到着していた。

 千夜は話から逃げるようにして先に中へと入っていく。そして俺にさっきまでの会話をしていたとは思わせない笑顔で手招きをしていた。

 俺は目的のいつもの煙草を買い、千夜は暖かいココアを握って手を温めながらレジに持ってきた。

 会計を済ませると、千夜の方から先に帰路とは逆方向を指差す。


「ねえ、あの公園に行こ」


 あの公園とは昔、俺や千夜がよく遊んでいた近くの小さな公園ことだ。

 遊具もなければベンチも二つだけ、街灯も一つだけしかないほどの小さな公園だが、小学生の時はよくここでかくれんぼや鬼ごっこ、キャッチボールなんかもやっていた記憶がある。

 俺はサラの煙草を開けて、一本を取り出すと口に銜えて、さらにマッチを取り出した。

 今時マッチで煙草を吸う奴なんて珍しいが、俺はマッチで吸う方が風があって好きなのだ。

 風で火が消えないように手で覆いながら上手く火をつける。


「っふぅ~」


 ヤニが身体に染み渡る。

 この瞬間が一番生きてると実感する時だ。煙ウメエ。


「ねえ、さっきの話だけど」


 千夜が話を切り出す。


「ああ、大学に行かないって? んで、どうするつもりなんだ?」

「……」


 千夜は何やら言い辛そうに眉を顰めて、口を開いては閉じるを繰り返す。

 もじもじと指先が遊び始めるが、俺は千夜から話してくれるのを待つことにした。


「……お兄ちゃんって、もう彼女できた?」

「はぁ? なんだ藪から棒に」

「……」


 最初は茶化しているのかと思ったが、千夜の真剣な眼差しにそうではないと察する。

 俺は渋々だが、正直に答えてやった。


「いねえよ」

「ほんとに?」

「ああ。なんで妹に嘘言って意地張んなきゃいけねえんだよ」

「だよね……」


 ほんと何を言わせるんだか。俺の方が悲しくなるじゃないか。二十四にもなって彼女一人もできないとか、非モテにもほどがある。


「よかった」


 小さな声でぼそりと千夜が言った。


「え?」

「ううん。……お兄ちゃん」


 俺は千夜を向く。

 すると千夜はやけに神妙な表情で俺を見つめていた。視線が交わり、こちらから逸らすことはない。


「私、お兄ちゃんのことが好きです」

「……」

「ずっとずっと大好きです」

「……」


 千夜の目はふざけてなどいなかった。

 多少は驚いた。

 だがそれは多少だ。


 実のところを言うと、千夜からこうして告白をされるのはこれが初めてじゃなかった。

 俺が中学生の時に三回、高校生の時に二回、合計五回は記憶に残っている。

 昔からお兄ちゃん子だった千夜はよく俺に懐いていたし、二人でよく遊ぶことも多かった。兄妹喧嘩も何回もしたが、その度に泣いて謝るのは千夜の方ですぐ仲直りをしてしまう。それぐらいには仲のいい兄妹だった。


 そんなある日、千夜が俺に異性として好意を寄せてきたのだ。

 最初は冗談で受け取っていた。まだ子供で恋愛感情なんて分かっていないだけなのだろうと。

 けど千夜の想いは一向に変わる気配がなかった。

 クリスマス、誕生日、バレンタイン、いろんなイベントごとに付け込んでは告白をしてきた。その度に俺は聞き流してきたが、とうとうある日、言ってしまったのである。

 俺が高校を卒業した時、家を出て短大に通うことになった俺に五回目の告白を千夜はしてきたのだ。

 そこで言った。


「もし、千夜が高校を卒業してもまだその気持ちが変わらなかったら、ちゃんと考えてあげる」と。


 妹のその気持ちを否定してあげることは出来なかったのだ。

 それで傷つくよりも、自分で間違いに気づいてちゃんとした恋愛を覚えた方がいい。高校生という思春期真っ盛りの時期なら、その恋愛経験もたくさんできるだろうと思っていた。

 だから千夜が高校を卒業するまでという期限を設けたのである。


 しかし、結果はどうやら予想を裏切ってしまった。

 千夜の想いは変わらなかったらしい。


「本当に他に好きな奴とかできなかったのか?」

「……うん。お兄ちゃんが一番格好いいし、優しいから、好き」


 妹とは言え、女子高生にそうはっきりと「好き」と言われるとこっちも恥ずかしくなってしまう。

 あ、もうJKじゃないのか。

 でもJKだったんだぞ? 普通なら周りの女子とかと一緒に「あの男子、格好いいよね」とか「あの男子、気になるんだ」とか恋バナで盛り上がるもんだろ?

「お兄ちゃんが好きなんだ」とかで盛り上がったりはしないだろ?

 それでも変わらなかったというのか?


「お兄ちゃん、私ずっと待ったよ。ちゃんと高校卒業したよ。もう結婚だってできる年になってるんだよ」

「……」

「私、本気でお兄ちゃんのことが好きなの」

「ああ、分かった。約束だからな、ちゃんと考えてやる。でも、それと大学に行かないのは話が別だろ?」


 すると千夜は再び深刻そうな表情を浮かべる。

 どうやらまだ話があるらしい。


「私、お兄ちゃんと一緒に暮らしたい」

「……へ?」

「私も家を出て、お兄ちゃんの部屋で一緒に暮らしたいの!」


 思考が止まる。

 もしかして一緒に俺の部屋で暮らしたいって言ったのか?


「だから大学に行かない、と?」

「うん……。ダメ、かな?」


 千夜は上目遣いで俺を見てくる。

 月が反射する千夜の大きな瞳が、はっきりと俺を捉える。


「ご飯も作るよ! 洗濯もするし、掃除もするし、空いた時間でバイトとかも……」

「バカか!」


 俺は怒鳴った。

 千夜を怒鳴るなんていつぶりだろうか、なんて考える余裕もなく真剣に叱った。


「そんなことをしてどうするんだ。大学にも行かずに、俺の部屋で家事をして、挙句の果てにバイトをする? そんなこと許せるわけないだろ!」


 千夜はまだ高校を卒業したばかりだ。こちら先、まだまだ将来があるのにちゃんとした職もつかず、資格も取らず、バイトして、それで俺の部屋で新婚ごっこでもする気なのか?


 そんなことが許されるわけがなかった。

 そんな後先考えない人生を過ごしたら、後悔するのは千夜の方だ。最後には何も残らず、ただ残酷な現実だけが叩きつけらえるのは目に見える。

 それに。


「親父や母さんにはどう説明するんだ? そんなこと言ってみろ。親父にぶん殴られるぞ」


 たぶん俺が。

 親父の拳は岩で殴られるみたいに痛いので、マジで嫌だ。


「悪いことは言わない。ちゃんと大学に行って、ちゃんとした仕事につけ。それが一番正しい道だ」


 少なくとも今考えているものよりはマシのはずだ。


「千夜?」

「……いや」

「え?」

「嫌……! 嫌だもんっ!」


 気づけば千夜は涙を流していた。大粒の滴が瞳から零れ、頬を伝うと顎からポタッと落ちていく。羽織っているコートにシミができるが、暗くて分からない。

 千夜のさらに涙を流しながら、俺の腹に両手を回してきた。ギュッと抱きしめる力は強く、少し苦しいと感じる。

 千夜の顔は俺の胸に埋もれて、ただ嗚咽だけが聞こえていた。

 これじゃ、話ができないので落ち着くまで少し待ってあげるとまだ、ぐすんぐすんと涙ぐむ声が聞えるが、会話はできるようになった。

 顔を離して、今は俺の腕にガシッと抱きつきながら話を再開させる。


「……私、本気だもん。家を出て、お兄ちゃんと一緒に暮らしたい……」

「親父はともかく、母さんにそれは?」


 言ったのか?と最後まで言わずとも、千夜は否定の意で首を振った。


「つまり、母さんにも親父にも黙って家を出て、二人で暮らしたいと?」

「……うん」


 弱弱しく震えた声で千夜は頷いた。


「なんてこった……。駆け落ちしろってか?」


 しかも兄妹で駆け落ちなんてフィクションでも見たことがない。

 もしそんなことを決行したら、まずもう二度とこの実家には帰って来れなくなる。親戚にも誰一人会えなくなる。

 地元の友人も、知り合いも、この地に足を踏み入れることすら叶わなくなる。

 そんだけの覚悟が千夜にはできている、ということなんだろうか。


「ちゃんと考えたの。高校生になって、勉強して、いろんな人に出会って、将来のこともちゃんと考えた。みんな夢があってね、その為に勉強して、部活して、大学に行ったりする。私の夢はね、お兄ちゃんのお嫁さんになることなの」

「……」

「兄妹じゃ結婚はできないから、ここじゃない場所に行って、二人で暮らしたい。誰も知り合いがいなければ、私たちが兄妹だって知っている人もいない。そうやって、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい」

「千夜……」

「お兄ちゃんは私のこと好き? 女の子として好き? 妹じゃなくて――」

「はぁー……。好きだよ」


 観念した。なんて言ったって、俺も昔から千夜のことが好きだった。

 でも最初は本当にただの家族愛だったのだ。妹として千夜のことが好きだったし、大切にしてやりたいと思っていた。

 それが異性としての「好き」に変わったのは……たぶん高校生くらいのことだろう。五回目の告白の時は、確実に俺は千夜に好意を抱いていたと思う。

 でもそれは兄として絶対に表に出してはいけないものだと分かっていたから、誤魔化してきた。押し殺してきた。

 千夜ももう大人だ。もう世間体とか、世の中の理屈とか分かっているはずだろう。

 もう隠す必要はないのかもしれない。


「ほんと?」


 千夜の声は今にも消えそうなほどに震えている。


「ああ、好きだ」

「じゃあ、両想い、なの……?」

「そうなるな」


 千夜は卒業式以上に嬉しそうな笑顔を俺に見せてくれた。再び涙が滲み、手で顔を隠す。幸せが溢れて、溢れて、どうにもならないほど溢れて、それが千夜の今の感情だった。

 今度は俺の方から千夜を優しく抱きしめてやった。

 ショートカットの髪を丁寧に撫でてあげる。


「夢、じゃ、ないよね……」

「夢じゃねーよ。つねってやろうか?」

「ううん」


 泣きながら笑った。

 一日でこんなに笑ったり泣いたりする千夜を見たのは初めてだ。

 この雰囲気に呑まれてしまった、というのもあるのかもしれない。気づけば、俺はこんなことを口走っていた。


「駆け落ち、するか?」

「……うん」

「親父や母さんには悪いことをしちゃうな……。親孝行どころか、恩を仇で返す形になっちまう」


 働き始めてから、少しずつ親にはお金を返すようにはしていた。これまで学費や俺のために使ってくれたお金をちゃんと返してやりたいと思っていたのだ。

 しかし息子と娘が二人して何も言わずに姿を消したら、それどころじゃなくなるだろうな。


「でも、条件がある」

「条件?」

「ああ。ちゃんとした職に就けるようにすることだ。別に大学じゃなくても俺と同じ短大でもいい、専門学校でもいい、何でもいいから資格なり取れるようにしろ。それが条件だ」

「……でも、学費とか」

「学費なら俺が何とかする。俺がお前の分までちゃんと稼いでやるから。兄貴をナめんな」

「……うん。わかった」


 俺は兄貴としても、人としても失格だ。

 けど、こんなに嬉しそうにする千夜を見ていたら、そんなダメな俺でもいいか、と思えてしまう。


「お兄ちゃん、キスしよ」

「はあ?」

「だって両想いなんでしょ。好きなんでしょ」

「ああー、はいはい。わかったよ」


 半ば投げやりになって、俺は覚悟を決める。

 ここから先は、もう後戻りなんてできなくなる。普通の兄妹には戻れなくなる。それをしかと胸に刻みながら、俺は千夜の顔を見た。


 千夜も頬を紅潮させながら、瞳を閉じる。

 その綺麗なぷくっとした唇に、俺は人生初のファーストキスを重ねた。

 軟らかい感触が伝わる。温かい熱が伝わる。


 千夜とのそんなファーストキスは、コンビニで買ったココアの味がした。

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