小吉

rita

小吉

小吉は、サーカス小屋の中央にしつらえられたステージに向かって歩き出しながら、尻の穴が縮み上がるような興奮に一度、二度と身震いした。観客席に目を向けると、金ぴかの蝶ネクタイ姿の紳士や、ふわふわのキツネに包まれた身なりのいい婦人までもが、埃っぽい空気をものともせず、シャツの胸のはだけた汚いなりの飲んだくれとともに、あらん限りの声を上げてさながらお祭り騒ぎだった。いよいよサーカスの大トリ、”Heaven or Hell SHOKICH綱渡りショー”が始まったのだ。

“今日こそお前は地獄行きだ!

罵詈雑言はいつものことで、小吉は観客席には目もくれない素振りで、石造りの台座の脇に取り付けられた、13階段と名付けられた粗末な鉄の階段を、まるでプールの飛び込み台に向かうみたいに、足取り軽く上がっていくのがお決まりだった。(本当は30段はゆうに越える長さで続いているのだが、古い極刑場の残酷なシーンにちなんで、そのような言い方をされるのだった。)つまり、見上げるそこには、真一文字にねじり上げられた鋼鉄色の綱(つな)が、頑丈なアームと胴体と固い足場に支えられて、しなるような長さで横たわっているのだった。正確に計測した者はいないが、サーカス小屋のある、浜辺の突堤の灯台ほどの高さがあるのは容易に知れた。何より遥か眼下を見下ろせば、火山の噴火口のようにして尖った巨岩がゴロゴロ敷きつめられていた。

小吉は目を閉じ、体の震えを抑えるべく、もう一度ゆっくりと深呼吸を行なった。狂乱の騒ぎの最中に精神の統一をはかるのは案外簡単で、例えば耳を澄ませた雨音に単調で優美なハープの音色を重ねるようにして、狂乱にとりつかれた人声を、乾いて規則的な機械音へと変換させればよかった。閉じた目を再び見開いて、その第一歩はすり足のようにゆっくりと綱へと踏み出す。大事なことは、綱をしならせながら、それでいてほどほどの張りを保たせてやることだった。そんなことは、柔らかい膝の力一つで簡単に調節ができた。要は、柔と剛が交互になるように足先で綱を微妙に調節しながら進むわけだが、彼の持って生まれた身体的特徴や運動能力をもってすれば、決して荒唐無稽の離れ技とはいえなかった。その日小吉は、いつものように綱の真中あたりに差し掛かると、わざとふらふらと体を揺すり今にもバランスを崩すようなポーズを取って、観客をはらはらさせてやった。最後の所を駆けるような華麗さで見事渡り終えたとき、割れんばかりの拍手喝采だった。

母親は小吉を産んでまもなく死んだ。父親も行方知れずで、引き取った親戚は、赤ん坊だった小吉を、牛糞と枯草の匂いの染みついた牛小屋に閉じ込めて育てた。

十七歳で海辺のサーカス小屋に拾われた。

当時はまだ、町の少年ギャング団の最高位に君臨している身だったが、いきつけの盛り場で街のならず者相手にひと暴れしたあと、傷だらけの酒ビンにじかに口をあてがって、安酒をあおっていると、貧相な顔つきの男が隣にすり寄ってきて、

“君の名前は?”

とたずねた。

“小吉”

モグラに似た男は、呻くような声を上げて感動を露わにした。

“小吉か。君は良い名前をつけてもらったよな。大吉でも凶でもなく小吉。どんな時にもささやかな運だけは、ついて回るようにってな”

それがマネージャー、城山との出会いで、最初は綱渡りなんてとためらいはしたが、

“綱渡りは君の天職なのかもしれないぜ

“大丈夫、俺が保障する。君は町のサーカス団の輝けるスターになれるよ”

甘事に迫られてついついその気になってしまったのだ。

ブランコ乗りのアンジュは、若いロシア娘だった。小吉はアンジュへの思いを言葉にするすべは知らなかったけれど、思いを表す方法なら心得ていた。小吉は曲芸師のシンさんからアンジュの誕生日をこっそり聞き出すと、それからは給料日だけを目当てに働いた。

大晦日は、十二月二十八日が公演の締めくくりとなった。待ちに待ったその日、宵を回る頃、ピカピカの高級車で乗り付けた羽田団長が、サーカス小屋のメンバーを例によってトレーニング室の奥の狭い事務所に呼びつけた。

「今月も、団員の皆さんには、よう頑張ってくれはりました」

舶来物らしい七色に光る背広の胸を、自慢そうにのけぞらせて羽田は言った。羽田は背だけなら小吉より小さいくせに、その短い足は、小回りのきく重機のように頑丈そうだった。何より、目が合うだけで縮み上がってしまいそうな迫力だった。ビーフステーキのようにてらてらと黒ずんで見える顔の中で、カエルのようにらんらんと輝く大きな二つの目のせいだった。鼻の横にぶらさがった真っ赤なイボは、ささやかなご愛嬌というものだった。

給料を手にした小吉は、部屋に戻ると大急ぎで身支度を整えた。街に一軒だけある宝石屋に出かけるためだった。アンジュへのプレゼントにと前前から目をつけてあったのは、光る星型にくり抜かれたダイヤの指輪だった。小吉は寮を一人飛び出すと繁華街に出る最終バスに嬉々として乗り込んだ。買い物を済ませて戻った時には、十一時を過ぎていた。夜の浜辺に寄せる波の音も穏やかで、小吉は粗末な板の間に寝っ転がりながら、雌鳥のように、指輪の入った四角い箱を胸におし抱きながら、いつになくしんみりした心地になった。さっき、事務所であった時のアンジュを思い出していたのだ。その表情は暗く、ことに羽田に名前を呼ばれ給料袋を受け取る時の、浮かない顔つきといったらなかった。小吉はアンジュが、故郷に帰りたがっているのを知っていた。何より今日は給金の支払い日で、逃げようと思えばこれほど格好の日はなかった。気がつくと部屋を飛び出していた。渡り廊下を飛び超え、木造の古ぼけた別棟に抜き足差し足で滑り込んだ。廊下の突き当たりのアンジュの部屋まで、冷たいコンクリートの感触を靴の裏にかみしめながら、錆びた鉄のドアの前に忍び足のまま近づいていった。直感であたりの気配がいつもと違うように感じた。どこがどう違うというようなものではないが、森を歩いていて、その先の奥深い場所にうごめく獣の気配を聞くような本能的なものだった。小吉はいけないことと知りつつ、身を屈め扉の中ほどに開いている郵便受けの穴に手を差し入れ、そっと中をのぞき見た。その瞬間、背中を氷が滑っていくような震えを覚えた。のぞいた先に、灰色の壁の切れ端がちらと見えた。玄関のたたきの奇妙な形の鰐皮の靴。部屋の壁にかかった毒々しい色の上着には見覚えがあった。

あんなイボガエルと――。彼は乾いて冷たい廊下をひたすら駆けた。部屋には戻らず、アスファルトの急坂を転がるようにして浜辺に飛び出していった。涙が後から後から零れ出た。拭いても拭いても流れ出るので、彼の目玉は今にも溶けそうに思われた。小吉はそのまま静かな引き潮の海へと近づいていった。黒色の塊が広がるただ中に、波は白く眩しいしぶきを繰り返し届けた。それは白い炎のように、彼の濡れた目蓋の中で燃え上がっては静かに消えた。彼は本当はその只中に飛び込んでしまいたかった。無論そんな勇気もなく、ただ小吉は、湧き上がる怒りと悲しみのために、震える全身で立ち尽くしていた。彼はふと掌に握り締めてきた箱の包みを力まかせに開いた。取り出したものは、彼が手に入れたささやかな愛の印、アンジュのために見立てた星形をした指輪だった。今やその感触は、冷たく凍りついて、彼にとって愛のかけらでしかなかった。小吉は、握り締めたものを海の彼方めがけて力まかせに投げ捨てた。

ある時地元の町役場で助役をつとめる男、Tの元に、耳よりの情報が持ち込まれた。海辺のサーカス小屋で、綱渡りショーなる危険な出し物が催されているというのである。ソース元は町会議員のPだった。サーカス小屋の監督官として全責任を担っていたのは、町長のアシダで、部下のTは、常日頃からあらゆる政治的特権を一人占めするアシダに不満を募らせていた。埠頭の近くで缶詰工場を経営するPは、海産物業者に事業の規制をかけては、袖の下を要求する悪辣なアシダに不満を募らせていた。もとより小屋を取り仕切る羽田からアシダへ、莫大な政治献金が送られているのは周知の事柄であった。そこで羽田率いるサーカス団の非道を訴え、小屋の営業停止をはかることができれば、町長の息の根を止めたも同然、果ては退任に追い込めると目論見んだ。TとPは手始めに、子飼いの人権擁護団体に入れ知恵して抗議活動を開始させた。そんな折りも折り、小吉にも運命の嵐は吹き荒れていた。アンジュが公演中にブランコから落下し、大怪我をして入院してしまったのだった。小吉はあれほどみじめな思いをしたくせに、真っ先に見舞いに駆けつけた。

「傷はどう、痛む?」

「だいぶん、ヨクナッタ。でも、もう、サーカスにはもどれない」

「シロヤマが、そう言ったの」

うなずくアンジュの目から、涙がぽろぽろこぼれ落ちる。

「ケガをなおすのに、お金がかかるから、そうなんだね」

唇は凍えたように白く、青灰色した瞳は海の底のように、深い沈黙の色をたたえている。小吉はいたたまれず、指先で光る滴をすくい取ってやった。

「お金のことは、心配しないで」

小吉はそっとアンジュの頬に手を差し伸べた。

「そして君は、ロシアに帰ればいい」

「どうしてそんなにやさしいの?」

「君が悲しむと、僕まで悲しくなるからだよ」

小吉の差し出した手を取ると、アンジュはそっと唇を押し当てた。朝露に濡れた花びらのように滑らかで優しい感触に、小吉は今一度生命を与えられたような気がして、無言の内につぶやいていた。

“そうだよ、僕はアンジュのためなら、命だって惜しくはないんだよ”

抗議活動はそれから一ヵ月間、休むことなく続けられた。小吉の綱渡りショーを中傷するビラ配りに小屋の前でのデモ行進と、それは日増しにエスカレートしていった。時には押し寄せる観客ともみ合いとなり、警官隊まで出動する騒ぎとなった。反対運動はしているが、それはあくまでポーズにすぎなかった。計画の遂行のためには小吉が綱渡りに失敗し、できれば絶命してもらうことこそが願わしかった。そうなれば、危険を指摘していた運動家の思惑は晴れて実を結び、警察が動けば、小屋の運営を容認してきたアシダの政治責任は逃れられまい。アシダが追われたあかつきには、晴れてTが後釜に座るという筋書きだった。ここまでくれば、強引に進める他はなかった。そこで二人は、小屋の副支配人を勤める吉田という青年に近づき、その目論見はすぐに成功した。吉田には気分屋の城山に、顎でこきつかわれてきたという不満があったので、裏切るに一抹の後ろめたさもなかった。

「あの身軽なサルを、確実に綱から落とすにはどうしたらいいかな?」

町の役人たちに問われ、吉田はしゃあしゃあと答えた。

「先生、そんなことは簡単な所業でございます。綱にあらかじめ、油を塗っておけばよろしいのです」

「なるほど。よし、では明日にでも、早速取りかかってくれ」

「明日と言わず、今宵、決行いたしましょう」

小吉の決心はとうとう揺るがなかった。何より彼はいよいよ決行というその日も、不思議なほど平静でいられた。とはいえ昨日までの彼は、そのための下準備に追われて慌しく過ごしてきた。何より計画を成功させるためには、ちょっとした工作が必要だった。小吉は困った挙句に、一人の女事務員に近づいた。受取人の書き換えは難なく行えたが、口止めというのが思いのほか難儀だった。むろん彼にとってはさしたる重大ごとではなかった。ただ彼はたった一夜、ニセモノの愛に身を投じたまでだった。

小吉の目の前に長く伸びた綱は、いつになく光り輝いていた。彼は小さな踊り場へと続く階段を、一段また一段とかみしめるようにして上っていった。客席は相も変わらずむせ返るような熱気で、これから最初で最後の離れ技を演じるかと思うと、武者震いのような興奮すら覚えた。彼は最後の階段を上り終えると、どこまでも伸びる鋼鉄色の綱を前にして、いつも通り深く息を吸い込んだ。けれども、長い深呼吸の後で綱に足をかけ一歩二歩と進んだ所で、突如足裏の自由が利かなくなっていた。奇異に感じる間もなく彼の視界はぐらつき、バランスを奪われた小吉は、自分が溺れかけの人間のようにもがいていることをぶざまに感じた。ほんの刹那の出来事だった。やがて体が逆さを向いた頃、彼の意識はすでに遠のいていた。そのほんの数秒前、観客は異様な光景を目にしていた。小吉が綱に足をかけるや制服姿の警官隊が、黒いネズミのような勢いでいっせいになだれ込んできたのだった。男達はまるで、小吉が落下するのを待ち構えるかのようなすばやさで綱の下に控えた。そしてまもなく小吉は、彼らの仕掛けたマットの中に吸い込まれるように飛び込んでいった。

気が付いた時には雪のように白いベッドに横たわっていた。小吉は生きているとはこんなにもふわふわと頼りないものだったかと思った。

綱渡りの現場に警官を集めておいたのは、副支配人の吉田だった。吉田は故郷に帰って一旗上げる腹づもりだった。サーカスの呼び物はもちろん

”Heaven or Hell 地獄からよみがえった男 SHOKICHIの綱渡りショー“

当の小吉はそんなこともつゆ知らず、不覚な成り行きに胸がむかむかとなっていた。

”結局僕は、愛する女の子ひとり救うこともできなかったな”

彼は舌打ちしながら、いつか城山マネージャーに言われたことを思い出して苦笑いをかみ殺した。

“小吉君は良い名前をつけてもらったよな。大吉でも凶でもなく小吉。どんな時にもささやかな運だけは、ついて回るようにってな”

小さな幸運はもう一つあった。小吉が九死に一生を得た日の翌朝、サーカス小屋近くの浜辺を散歩する一人の男があった。男は随分年老いていたが、若い頃には大漁の旗を掲げて北方の海を我が物顔で行き来した荒くれ者の漁師だった。老人の老いてもなお変わらないよく見える目は、砂浜に打ち上げられた海藻の中に星を見つけてぎょっとした。そこに、満天の夜空を彩っていた星の一粒が落ちてきたような何かがこびりついていたからだった。老人はためらうことなく近づいて、節くれだった指先で思い切りよくむしりとって、思わずうなり声を発した。

”見事なダイヤだ”

それから老人は、指輪にこびりついていた細かな砂粒まできれいに払い落とすと、ポケットにしまいこんで散歩道の途中にある交番へと持ち込んだ。

老人から指輪を預かったのは、若くて俊敏な足を持った巡査だった。若い巡査が真っ先に思ったことは、遺失物の持ち主を探す手間が省けてよかったということだった。巡査の細く繊細な指先がつまんだリングの内側には、fromで始まる見覚えのある文字が彫られていたからだった。

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小吉 rita @kyo71900

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