第四話
「さっきあったこと。これはもう忘れて欲しい」
水琴はおもむろに呟いた。
「さっき変なバケモノに出会った。それはタケルくんが熱中症になってみてしまった幻覚。いい?ここで見たことは忘れなきゃダメ」
「わっ、忘れろって…襲われた傷だって…」
「傷なんてもの、ないでしょう?」
「えっ?…嘘だろ…」
僕は嘘だと思って自分の傷のあった胸元を確認した。
未だ信じられないけれど、そこにあった傷は跡形もなく消えていた。
「これはタケルくんをかどわかすためのものじゃない。それだけはわかって欲しい。これはタケルくんを守る為でもあるの」
水琴は僕の耳元でそう呟いた。
「守るため…?」
その時、二人しかいない筈の境内で何者かの声が響いた。
「そう云うわけにはいきませんわ」
「誰っ!?」
水琴は咄嗟に振り返った。
祭壇の上で渦巻く黒い煙。その煙の中から現れたのは少女のような背丈の女だった。前髪は目の下で一筋に切りそろえられ、前髪の奥からでもわかる蛇のような大きな瞳が、獲物を狙うようにこちらを見つめている。黒っぽい丈の短い着物を着た、蛇のような女。
「まさか自分から
「スサノオ?なんのことだよ」
「いえ、こちらの話ですわ。
乾と名乗った女は丁寧に頭を下げた。
「坊や。良く帰ってきてくださいました。そのうち、再びお目にかかりましょう。その折、お命頂戴いたしますわ。うんと可愛がって差し上げますゆえ」
女の妖しい微笑に背筋がぞわっとした。
「お命頂戴って…まさか」
「今日のところはおいとまいたしましょう。ではまた会う日まで」
次の瞬間、女は再び黒い煙に包まれたかと思うと、煙はものすごい勢いでこちらの間をすり抜け、境内の戸を開け放って出て行った。
「僕…死ぬのか…」
初めて受けた殺害予告に僕は膝から崩れ落ちた。
さっきの恐怖が再来したかのように体が小刻みに震えはじめた。
「大丈夫。タケルくんは死なせない」
「死なせないってなんだよ。あんなバケモノにいつ襲われるかもしれないんだよ。明日にでもあいつが来たら…」
「大丈夫だよ。私が守るから。必ず」
水琴はそう囁いて恐怖に震える僕の体を優しく抱き締めた。
冷え切った体に伝わる優しい温もり。ヒステリックな衝動も落ち着いてくる。
「ごめん。大声出して」
「いいの。誰だってあんなことされたらああなっちゃうよ。私も一人でいたら怖かった。でも…タケルくんが一緒だったから…」
「水琴はどうしてここまで…」
「なんでだろ…ほとんど初対面なのにね。でもタケルくんは何かが違ったの。…ごめんね!私ってどうかしてる……でもね、私たちきっとどこかで繋がってるんだよ。他の人とは違う何かで…」
水琴はそのまま僕の体にもたれかかった。
「え…?寝てる?」
僕が彼女の腕の中にいた筈が、いつの間にか彼女が僕の腕の中で眠っていた。
呼吸をするたび伝わる柔らかい感触に、僕はどうにかなってしまいそうだ。もしもこんなところを誰かに見られでもしたら…
「あ゛っ…」
この時、僕はあのへんな女に殺される前に死んでしまうかもしれないと思った。
それは雨上がりの庭で、巫女さんこちらを見ていたから…
「変態」
叢雲のイナダヒメ 正保院 左京 @horai694
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