第三話
物音ひとつしないその空間は、街の中にあるとは思えないほど静かだった。石碑を囲むように立ち並ぶ八本の大きな杉は高く生茂っている。それはまるでこの場所に踏み込んでしまった僕を咎めるかのように見下ろしていた。
生暖かい風が頬を撫でるように吹きつける。ザワザワと揺れ、擦れ合う木々の音が次第と大きくなっていく。そんな気味の悪い状況で不安に駆られた胸の鼓動が異常なまでに波打っている。
次第に息苦しさを感じ、急な熱っぽさと寒気に襲われた。目の前に立つ大きな石碑の文字が歪み、浮かび上がるように見えている。視界が激しく揺れていた。
襲いかかる吐き気と恐怖。
体が動かない。まるで蛇が僕を骨から砕こうとするように足元から締めつけてくる。
硬直した体はバランスを崩し地面に打ち付けられた。
僕は経験したことのない耐え難い痛みに悶絶した。
「痛い痛い痛い!」
意識が徐々に薄れていく。
その時僕はふと我に返った。
「あっ、気がつきましたね!」
僕の視界をのぞき込むまぶしい少女の笑顔。漫画でしか見たことない展開に慌てふためき、飛び起きた。
同時に「ゴツン」と硬い音が響き、額に激痛が走った。そして飛び散る星…?
見れば少女が頭を抱えている。その少女は…
「あっ!」
あのおかしなバケモノから助けてくれたあの子だった。
「ごめん…」
「いたたた……うなされていたので心配しましたが、お元気そうですね!」
少女は痛みに顔をしかめながらも微笑んだ。すごく優しい子なんだなぁと僕は思った。
「そうだ。ケガ、大丈夫ですか?」
「ケガ?ああ…」
あのバケモノに体を貫かれたことを思い出した。忘れてたって相当鈍いのかバカなんだか…
「あっ、まだ安静に…」
「痛っ」
胸のあたりに鈍い痛みを感じて手を当てる。そこで気づいてしまった。僕は上裸だった。
「えっ、これはっ、そのっ…はっ、裸を見られるなんて恥ずか…痛っ…」
初対面の女の子に裸を見られるなんて男として恥ずかしい!痛みよりむしろその方が気になった。やっぱり僕ってアホだぁ…
瞬間的にアフロの男がよぎったけれど気のせいだろう…
よく見ると胸には血の滲む包帯が巻かれており、どちらかと云うと上裸ではなかったので、少し安心した。
「ふふっ。面白い人ですね。プールや海に行った時どうするんです?」
「そっ、それは…そうだけどさ…」
「…応急処置は施しました。でもまだ傷は完全に塞がっていません。まだ安静にしていてください」
「傷が塞がるって外科医か…ッ」
少女は僕の元に寄ってくると、優しく僕の傷の上に手を当てた。
近い。すぐ目の前にある少女の少し色っぽい横顔、甘い香りの吐息。着物の衿からのぞく汗ばんだ首筋。彼女ない歴=年齢な一般高校生男子の僕にとっては刺激が強すぎた。胸の鼓動が止まらない。
「それにしても傷の癒えが早いですね。もう触っても痛くないはずです」
少女はそう云って僕の胸の傷をツンツンとつついた。
「いっ、痛くない…これは…」
「ふふふ。よく頑張りましたね」
少女はニコニコしながら僕の頭を撫でた。
なんだか恥ずかしい……いや、どう考えたって「頑張りましたね♡」で片づけられるような傷の治りじゃないぞ!?なんだ?外科医なのか!?女医なのか!?ドクター〇なのか!?
そりゃ昔から傷の治りは人一番早かったけどそれどころじゃない…
「それより左目…どうされたんですか?」
少女は僕の顔をのぞきこんだ。僕が左目を閉じているのがよっぽど珍しくって不思議なんだろう。
僕にとっては最早あたりまえのことだけど…
「これは小さい頃に事故で見えなくなったんだ。事故でってくらいしか覚えてない。もう見えないし、開かないんだ」
「そう…だったんですね。悪いこと聞いちゃったな」
「気にしないでよ。僕にとっては別にあたりまえのことだから。もう馴れたし」
それにしても随分と距離感が近い気がする。この子誰に対してもこの距離感じゃないよな?これがいつものことだとしたら日本全国のお年頃高校生男子は一瞬にして恋の炎に燃え上がってしまうだろう。
多くの男を恋路へ誘い込んでしまうのはとても危険なことだ。
「ん?どうしました?心拍数があがって…」
そんな恥じらう僕を見て少女は首を傾げた。
「あの…近い…です…」
僕は恥ずかしそうに顔を背けて呟いた。
「あっ…」
少女はそれに気づいたのかハッと我に返った。首から赤くなっていくのがわかった。わかりやすい子だ。
「あの…ごめんなさい。なんだか懐かしい気がして……変ですよね。初対面なのに…」
「いっ、いや…僕は別に…」
僕らは一定以上の距離を置いた。
そっ…ソーシャルディスタンスだ。
「自己紹介。まだでしたね。私は
「僕は
「えっ、もしかして……タケルくん…?」
彼女は驚きに戸惑うように訊いた。
「え…?」
驚いた。で済む話じゃない。
どうして彼女は僕の名前を知っているのか。え?怖い怖いどこで個人情報が漏れたんだ?SNS?ネット掲示板?
「タケルくんて、コンビニでアイスの冷蔵庫に入って写真とって炎上した子だよね」
「タケルくんて、線路に入って写真とって炎上した子だよね」
そんなあらぬ噂が拡散されているのかもしれない…
「どこで…僕のことを…」
「幼い頃の記憶にタケルくんって云う、男の子と遊んだ記憶があるんです。よくおばあちゃんに連れられて私の家によく遊びに来てた…覚えて…ないよね?」
「え?」
僕には何が何だかさっぱりわからなかった。こんな可愛い子と昔会っていたシチュエーションなんて夢の中の出来事だと思っていたから。
でも少しばかり嬉しそうな彼女を見ると、どうやら本当に会っていたらしい。
十年以上前。僕の記憶に十年以上前の記憶はない。ちょうど僕は事故にあったらしく、特に事故前後の記憶は全く残っていない。それどころかこの島根に来たこともそこで事故にあったことも、後から聞かされた話だ。
「…ごめん。僕は昔事故にあったせいで、記憶がまるで残ってないんだ…」
「私もハッキリとは覚えてないけどね…ずっと前、確かに出会ってたんだよ」
こんなこともあるんだな。と僕は思った。
別に嬉しいとか、下心があるわけではない。あるわけでではない。
いつの間にか青くなっていた空は再び雲に覆われ始めた。
「あっ、入道雲。これは一雨きそう……あっ、降ってきた!山の天気は変わりやすいんだから!こっちに来て!」
僕は水琴に手を引かれるまま、お堂の中へ入っていった。
そういえば神社にきてたんだっけ。
観光目的で来たのに変なバケモノに襲われ、知らない女の子に助けられ、その子は昔の僕を知っていた。急な出来事すぎて頭がついていかない。
そんな中僕ののんびり田舎移住生活は訪れないことが確定してしまったことに、僕は気づかなかった。
○
「武速の坊や…これは面白そうなことになってきましたわね」
境内の裏に立っている女は静かに笑い、黒い煙となって消えていった。
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