第二話

 軽トラックは唸りを上げて勢いよく坂道を上りあっと云う間に神社へと到着した。

「ありがとうございました。助かりました」

 僕は車を降りておじさんに頭を下げた。

「なんのなんの。折角来ちょうに倒れてもろうたら困るからな。じゃあ俺は帰るけん。止まるんじゃねぇぞ?」

 なんですかそのネットスラングみたいな?

 そう云っておじさんは再び軽トラックに乗ると、ガガッと云う音を立てて走り去って行った。

 相変わらず運転が荒い人だ。

「さぁて。この上か…」

 山道の入口に立って上を見上げると、まだ道路が続いている。欲を云えば上まで送って欲しかったけれど、そこまでワガママは云ってられない。

 ふと横の看板に気づいた。

「熊に注意?熊が出るのか…?」

 熊の看板にびっくりする。怖いものは仕方ない。

 山道は木々が生い茂り、まるで木のトンネルだった。木の枝が日光を遮り吹く風は涼しかった。

 木のトンネルから神社のある広場へと抜けた。

 境内は眠ったように静かだった。他に人の影はない。まるでこの世界に人間は自分だけなんじゃないかと錯覚してしまうよな、どこか神秘的な雰囲気に自然の神々しさを感じた。

 風で木々が揺らぐ音、セミの鳴き声、地面を踏みしめる音。それ以外は何も聞こえない。

 土と草木の匂いは僕にとっては新鮮で、なんだかワクワクした。こんな気持ちはビルの立ち並ぶ都会では到底感じえないだろう。僕はこういうものを求めていたんだろう。

 生い茂る木々に遮られた日光は木々の間から差し込み、散りばめられた光る宝石のようにきらびやかに輝いている。

 そこではセミの鬱陶しい鳴き声も心地よい音楽にさえ聞こえた。

 僕はきっとこの場所が気に入ったんだろう。何度も来たいとさえ思う。そしてなによりこんな素晴らしいところに住んでいる人を心底羨ましく思った。

 と、思ったその時だった。

 ザワザワと林が揺らめいたとか思うと、山の奥からゴォッと云うおなかの底に響くような大きな音を立てて嵐の様な風が吹いた。体を強く揺さぶる程の強風が辺りの落ち葉を舞い上げ、古めかしい神社をガタガタ軋ませながら目の前の林の間を通り過ぎて行った。

 嵐が過ぎ去ったような辺りは潮が引いたように静まり返った。虫の声も、木々の揺らめく音、風の音すらも、何もかも聞こえなくなった。

 子供の頃悪い夢で見た虚無の空間を思い出す。

 さっきとは違う、まるでこの世の誰もが消え滅んでしまったかのような静けさは恐怖さえ覚えた。

「何が…あったんだ?」

 嫌な予感しかしなかった。

 目の前の茂みからガサガサと音が聞こえてきた。

「くっ、熊!?」

 麓にあった熊注意の看板が頭をよぎる。

 熊なんてあの大人気テーマパークにいる、黄色くて赤いシャツを着ているやつしかしらない。ただ素人の僕にわかることは、ここにいる熊はあんなにフレンドリーな訳がないと云うことだ。

 茂みでうごめく音は周りを囲むようにガサガサと辺りを走り回っているようだ。

 囲まれたのか。

 しかし僕は一般人。警察官のように拳銃を携帯している訳でもないし、剣術家のように刀を持っている訳でもなく、剣道部員のように竹刀を持ち合わせている事もなく、ただの非力な一般市民。体力の無い運動音痴だ。

 そんな僕が何も持たないまま窮地に立たされている。

 これは…終わった。

 その時頭上でチカッと、眩いばかりの強い光が瞬いたかと思うと、四方の茂みからガサッと飛び出してきたのは熊…ではなく、熊のように大きな猿だった。

 ゴリラではない。ゴリラの学名がゴリラゴリラゴリラだと云う豆知識も要らない。

 ただ云えることはそれが―

 ―バケモノであると云うこと。

 と云うか本当に猿なのかも怪しい。猿と云うか、鬼と云うか。顔はよくグロテスクな漫画に出てくるような気色悪いものでは無く、一風変わった奇妙な鬼のお面のように見える。目は燃えさかる炎のようにランランと赤く光り輝き、血に飢えた様に赤い牙が覗く口からは黒い煙が這うように、生きているかのように流れ出ている。

 角の生えたような奴もいれば、一ツ目や三ツ目、もはやどこから見ているのかわからない目の無い奴までいる。

 指先からスルスルと鎌のような鍵爪が伸び始め、口は鬼のように耳まで裂け、牙が伸びる。狩りの準備は整っているらしい。

 そんなバケモノ四体。

 対する僕は一人。

 孤立無援。四面楚歌。

 ああ、折角静かな楽しい田舎生活が始まったと云うのに、僕は早速この訳わからないバケモノたちのお昼ごはんにされてしまうのだろうか。

「終わりか…」

 なわばりに踏み込んでしまったのだろうか。もしそうだとしても僕に弁解の余地はない。そもそもごめんが通じる奴じゃない。

 足元には大風で落ちてきた太めの木の枝があった。それを拾い上げ、見様見真似で木の枝を構えた。

 最後の抵抗のつもりだった。

 バケモノ達はシャーッ!とうなりをあげて獲物ぼく目がけて飛びかかってきた。

 その時体が自然に動いたかと思うと、飛びかかってきた一匹の胸を貫いていた。

「え?もしかして…勝てる??」

 そう思いあがったのが運の尽きだった。

 ズバッという鈍い音が聞こえ、背中が開いたような感じを覚えた。すぐさま胸に激しい痛みが走った。

 見たくもない。見たくもないけれど今まさに僕の右胸はあの鎌のような鍵爪で貫かれているようだ。

「ぐああああああっ!」

 僕はあまりの痛みに声を上げた。痛い。痛すぎる。激痛が全身に伝わり血を吐いた。

 終った…死んだ…

 そう思ったその時だった。

 パッと一筋の閃光がほとばしったかと思うと、バケモノ達は見る影もなくバラバラに砕けた。

 よくある血飛沫ちしぶきはあがらなかった。砕けた、いや、焼き切れたとでも云った方が良いのかもしれない。バケモノ達は地面に崩れ落ちたかと思うと、砂山が崩れる様に土へと変わった。

 その砂が砂塵さじんとなって宙を舞う。その砂煙の向こうには、一人の少女が立っていた。

 粉を吹いたような白い肌をセーラー服が包み、燃えるような赤い長髪の女子高生のように見える。しかし振り下ろしたその手には刃渡数尺はある長い刃物、日本刀があった。

 そんな姿は凛々しくも、女神のように美しかった。

 いや、女神そのものかもしれない。

 少女は僕の背後に残った、あの一角獣のようなバケモノに向けて切っ先を突き付けた。

 仲間を殺されたことに怒り狂ったバケモノは空高く飛び上がると、鋭い爪を剥き出しにして少女めがけて飛びかかった。

 それを少女はそれに臆することなく振り下ろした刀を斜めに振り上げた。太刀筋は弧を描くように美しく曲線を描き、バケモノの左脇下から右首筋あたりにかけてを斜めに切り裂いた。

 まさに鎧袖一触。大切断…

 バケモノは地に伏し、仲間たちと同じように土へと変わった。

 あのバケモノたちはただの土塊つちくれだったのだろうか。しかしあの土人形が何故生き物のように動いていたのか。

 そんな事を考えている体力はなかった。気づけばあたりは再び息を吹き返したように音が聞こえ始めていたが、痛みと息苦しさは消えたわけではない。悠長に喜んでいる場合ではなさそうだった。

「だっ、大丈夫ですか?」

 少女は僕の方まで駆け寄ってきて、心配そうに顔を覗き込んだ。

 遠目で見れば凛々しい少女は、よく見るとまさかあんなバケモノを相手に戦えるとは思えない、まるで別人のようなただの可愛らしい女の子だった。

「うっ、うん。大丈夫だよ…多分」

 絶対大丈夫じゃない。救急車呼んでもらっていいですか?

 本来なら戦うのは僕の方だ。彼女を守れるような立ち位置であるべきなのに…そんな自分が情けなく思えた。

 そう回想する僕を少女はあたふたと慌てて何かをしている。

 そうか。僕は死ぬのか…

「助かったよ。君がいなければ僕は死んでいたかもしれない」

 多分死ぬけど…

「ありが…と…」

 僕の意識はそこで途絶えた。

 父に、ありがとう。母に、さようなら。そして、すべての出会いに、ありがとう。

 さらば、すべての青春アオハル

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