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「今のわたしは、とても不安定な状態なんです。off-shell質量殻外の仮想粒子みたいなもの……と言えば、お父さんなら分かりますよね。そう、エネルギーと時間の不確定性を利用して、宇宙からエネルギー的に借金をしているから、ここにいられるんです。だけど……借金はいずれ返さないといけない。エネルギー保存則には逆らえない。だから……わたしは自分の世界に戻らなくてはならない。そして……」


 私から離れると、彼女は辛そうに顔を歪ませて続ける。


「わたしは、もう二度とここには来られません。ここに来ると体に負担がかかるんです。もう、わたしの体が遷移に耐えられない……だから、これでお別れです。でも、最後にお父さんに抱きしめてもらえて、本当に嬉しかった……さよなら、お父さん」


 彼女の体が半透明になり、それもどんどん薄く変わっていく。私は思わず叫ぶ。


「待ってくれ! 妻は……元気なのか?」


「ええ。元気ですよ。未だに独身で、三鷹のアパートに住んでいます」


「!」


 私もだ。未だに彼女と暮らした思い出のアパートに住んでいる。


 いよいよ彼女の姿が消えそうになる。しかし、もう一つだけ、私にはどうしても彼女に聞きたいことがあった。


「最後に教えてくれ! 君の名前は?」


「……マリ、です」


 かすかな声を残して、彼女は消えた。


「!」


 もう間違いなかった。その名前は、お腹にいるのが女の子であることが分かったときに、生まれたら付けようと妻と約束していた名前だった。日本人としても、アメリカ人としても通用するような、女の子の名前として……


 だが、不意に私は恐ろしい考えに思い当たる。


 今のはひょっとして、何もかも私の妄想だったのではないか? 幻覚だったのではないのか?


 しかし……


 私のワイシャツは、彼女が先ほどまで流していた涙で、ぐしょぐしょに濡れている。


 そして。


「……ICレコーダー!」


 そう。私の胸ポケットには、録音状態のICレコーダーがあったのだ。早速再生してみる。


「!」


 彼女との会話の一部始終が、完全に記録されていた。


 全て、現実だったのだ。


 次の瞬間。


 私の視界が一気にぼやける。


「う……うぐっ……」


 嗚咽が漏れる。がくり、と両膝が床につく。私はその姿勢のままで、ひたすら涙を流し続けた。


 確かに彼女は私の娘だった。だけど、もう二度と彼女には会えない。そう思うと胸が張り裂けそうだった。


 しかし。


 突然、天啓がニュートリノのように私の意識を貫き、瞬時に嗚咽と涙を止める。


 そうだ。


 彼女が会いに来られない、というのなら、こちらから会いに行けばいいではないか!


 そう、私が私自身の研究を完成させれば良いのだ。娘に出来たことが私に出来ないはずがない。何と言っても元々のアイデアは私のものなのだから。しかも、彼女は重大なヒントを残してくれた。


 量子力学じゃなくて、量子重力の枠組みで考えろ、か……


 分かったよ、マリ。今度は私が遷移者エトランジェとなって、妻と君に会いに行く番だ。


 涙を拭いて立ち上がると、私は書棚の隅から、すっかりほこりをかぶっているハードカバーのD論を取り出した。


(了)

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エトランジェの涙 Phantom Cat @pxl12160

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