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「!」


 思わず私が彼女の顔を凝視すると、彼女は微笑みながら続ける。


「母は無事で、わたしを産み、女手一つで育ててくれました。だけど……わたしはずっと、父に会いたかった。友達にはみなお父さんがいるのに、何でわたしにはいないんだろう、って……いつもさみしかった。わたしは写真の中の若い父しか知らない。でも、生きてる父と一度でいいから話してみたかった……」


 そこで彼女は一瞬顔を曇らせるが、すぐまた元の表情に戻る。


「そんな時、父の研究を知ったんです。量子力学の多世界解釈。たくさんの世界が、分岐しながら平行に時を刻んでいる……きっと、その中には、父が生きている世界もあるに違いない。そこに行けば、父に会える。そう思って、中学卒業前に高認取って、母の母校を受けたら合格したんで、卒業後に渡米して母の実家から大学に通ったんです。父の研究をさらに発展させたい。そうすればきっと父に会える、と夢見て……」


「……」私はただ、呆然としたまま、彼女の言葉を聞くことしか出来なかった。


 本当にこの子は、私の娘なのか……


 正直、まだ信じられない。だが、そう考えれば何もかも辻褄が合う。


 事故当時、私と妻は並んで歩道を歩いていた。おそらく、事故車がスリップするタイミングのゼロコンマゼロゼロ……数秒かの量子クォンタム揺らぎフラクチュエーションが、バタフライ効果により拡大され、結果的に妻が轢かれた私の世界と私が轢かれたこの子の世界を分岐させた、ということなのだろう。


 そして、確かに私の研究はアイデアは評価されたものの、実験的なサポートが全く得られなかった。いや、そもそもどうやって実験したらいいのか。それすらも分からなかったのだ。だから私はその研究に見切りを付け、今は異なる分野を専門に選んでいる。


 しかしこの子は私に会いたい一心で、その問題までもクリアし、この世界にやってきた、というのか……

 だが、同じ物理学者である私と妻の子であれば、それくらいのことをやり遂げてもおかしくはない……


 そう思った瞬間、気づく。


 これは、親バカという奴ではないのか?


 知らず知らずの内に、私に彼女の親としての自覚が生まれてきているのではないか?


 奇妙な感覚だった。一生、人の親になることはないだろう、と思っていた。だが、いきなり二十歳前後の娘の父親になってしまったのだ。


 私の表情から、私の意識の変化を読み取ったのだろう。彼女は熱を帯びた眼差しで私を見つめる。


「先生……お父さん、って呼んで……いいですか?」


 涙声だった。


「……」


 私は無言で、ただ、うなずく。


「お父さん……」


 ゆっくりと彼女が近づいてくる。彼女の両眼から、涙がこぼれ落ちた。


「会いたかった……ぐすっ……本当に、会いたかった……」


 そう言って、彼女は私の背中に手を伸ばし、そのままきつく私を抱きしめる。


 私もおずおずと両腕を広げ、その中に彼女の体を収める。彼女の体温が私の心を溶かし、彼女をいとおしく思う気持ちをその中に溢れさせた。


「頑張ったな……よく頑張って、私の研究を完成させてくれた……私の、自慢の娘だ……」


 いつしか、私の目にも涙が浮かんでいた。


「う……ううっ……お父さん……お父さん……」


 私の胸の中で、彼女はただひたすら嗚咽するだけだった。


 その時。


 ふと、彼女の体が軽くなる。


「……?」


 感触がおかしい。どことなく、彼女の存在感が希薄になったような……


「……とうとう、その時が来てしまいましたね」


 彼女が顔を上げ、哀しげに笑った。

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