任務完了

 夜の闇はなりを潜め、朝を迎えたということは、本日が任務の最終日だ。今日を最後に、私は離脱させた魂を回収して天界に戻らなくてはならない。私は覚悟を決める。

最終日、私はまず商店街にあるスーパーに立ち寄り、刃渡りが十八センチの包丁を購入した。切れ味が良さそうなものを選ぶと、九百八十円だった。手に持ったままでは少し不謹慎になるので、背広の内ポケットに忍ばせておく。

親指で画面に触れながら鈴田竜太郎ではなく、鈴田百合子を検索する。

それから私のとった行動は、商店街の入り口にあるコンビニの前に立ち、[行き紙]を取り出して検索をする、ということだった。親指で画面に触れながら、鈴田竜太郎、ではなく鈴田百合子を検索して、見つかると、移動の選択をした。

一歩踏み出し、目を開けると、そこは緑豊かでのどかな風景が広がっていた。北海道。鈴田竜太郎宅の近くだ。

太陽の位置はかなり高く、時間は正午前といったところだろう。私は、一歩踏み出したそのままに、鈴田竜太郎宅に向かう。

「ごめんください」と、玄関前で言い、チャイムを鳴らす。ピンポーン、と鳴る。

程なくして玄関の引き戸は開かれ、「はいはいお待たせしました」という声が聞こえてきた。鈴田百合子の声だ。

「あれえ」

私の姿を確認した百合子は、驚きの声を上げる。

「リクオさん、ですね。すいませんが、主人は今仕事にいってるんですよ。戻るのは、たぶん夜になってからだと」

「ええ、まあ、今回用事があるのは、百合子さんのほうでして」

「ああ、そうでしたか」と百合子は何か考えを巡らすような表情をした。「それでしたら、どうぞどうぞ」

私は百合子に促されるまま、客間に通された。

 お茶を差し出され「どうも、お気遣いなく」と答える。

「で、用事とは、何でしょうか」

机を挟み、百合子は私の向かいに座る。上座に私が座り、下座に百合子は座った。百合子は笑っていた。

「ええ、まあ、百合子さんというか、実際は百合子さんに憑いている方に用がありまして」

「ん?」怪訝そうな表情で百合子は私を覗き込んでくる。

「というわけですので、あの、後ろにいるんでしょ?」

「何が? え? どういうことですか?」

百合子はまず右回りで後ろを振り返り、左回りで後ろを振り返る。右、左、右、とその行為を繰り返した。

「すいません。ですから、百合子さんではなくてですね」

「はあ、いや、すいません。よくわからなくて」

申し訳なさそうに、百合子は言う。

仕方なく、私は自らの素性をばらした。

「死神部、営業三課、六十七班、班員のリクオです」

私が自己紹介をすると、百合子の表情が滑らかに変化していった。

まず、ぱっちりと開いた目は細くつり上がり、口角はくっきりと上がる。そして頭上には、薄い黄色をした丸い輪っかがゆらっと浮いた。

「天界の者が、下界で会うのは禁止されているはずだけど」

百合子の声は、ずしりと低くなり、しゃがれた。

愛くるしい、木漏れ日のような空気を醸し出していた百合子は、今では陰湿で暗い闇を背負った表情をしている。頭上には、やはり、黄色い輪っかが浮いている。

「まず、私は名乗ったわけだから、あなたもまず名乗って欲しいんだが」

「天使部、営業三課、六十三班、ミツコ」

ぶっきらぼうに、ミツコは言う。

 やはり、と私は思った。鈴田竜太郎の話を聞いたときに、おかしいと思っていたのだ。百合子の存在と、行動はおかしい。百合子は、何故、鈴田竜太郎に助けを求めておきながら、実質、鈴田竜太郎を助けたのか。話したこともない、初対面で他人から好かれそうな雰囲気を持っているわけでもない鈴田竜太郎を、なぜ百合子は求め、助けたのか。理にかなっていない。神に創られて五年と一ヶ月が経過した私には、百合子の行動が現実に存在するはずのない話であることが、よくわかる。考えられるのは、ただ一つ。天界の者が関与している。それしか考えられない。そして、その通りだった。

「今日は、報告に来たんだ」

「何の?」

「ミツコの仕事の邪魔をして悪いが、鈴田竜太郎は、幸せにはならない」

私がそういうと、ミツコは、はあ、とため息を吐き出し、じろりと私を睨んでくる。

「呆れた」疲れた声でそう言った。「わざわざ、それを言いに?」

「一応、それが筋かな、と」

「バカじゃないの、あんた」

「残念ながら、バカではない」

「鈴田竜太郎の魂を回収しようとしてるのね? 鈴田竜太郎は、魂の回収の対象にはなっていないはずよ」

「その通りだ。だが、その場合は、死神法第十三条を使えば問題はない」

「原則として、使ってはいけない。知らないわけはないでしょう」

「原則、だ。例外はある」

「例外はあってはならない」

「そんなこと、私の知ったことではない。例外は、ある」

「世界の理を、あなたも知ってるわよね?」

「もちろん」私は知っている。

 世界は、天界と下界の二つの空間で成り立っている。天界では魂が存在し、下界では魂を宿した者が存在している。天界には、神が存在し、死神、天使、悪魔がそれぞれに存在している。下界には、人間や魚や鳥、植物が存在している。

 世界の仕組みは、天界と下界の微妙なバランスの上に成り立っている。

 天界が存続していくためには、存続していくためのエネルギーが必要であり、それは下界においても同様である。

 天界が存続するために必要なエネルギーは、下界で巻き起こる様々な感情のうねりだ。生きとし生けるものの放つ精神的なパワーは、大きなエネルギーとなって天界に流れ込んでくる。そのエネルギーが大きすぎると天界は破裂し、また小さすぎると存続できない。だから天界では、そのうねりをある程度コントロールするために、三つの職業が存在する。

 天使部。天使たちは、実体のない魂のまま下界へと下り、下界の者に憑いて、その憑いた者、またその周囲の者を善き方向へと導く。その際に生じるのは、喜びや救いといった善の感情のうねりだ。

 悪魔部。悪魔たちは、実体のないまま下界へと下り、下界の者に憑いて、その憑いた者、またその周囲の者を悪しき方向へと導く。その際に生じるのは、悲しみや絶望といった負の感情のうねりだ。

 死神部。営業課の死神たちは、実体のない魂のまま下界へと下り、下界の者たちを調査して、魂回収のリストを作成する。そのリストを基に、回収課の死神たちが、実体のない魂のまま、あるいは下界の者に扮して下界へと下り、魂の回収を行う。死をもって、様々な感情のうねりを生じさせることと、天界と下界の狭間でさまよっている迷子の魂を回収することが目的だ。

 下界から回収された魂は、魂の再生工場にて新しい魂へと再生され、もう一度肉体に宿るために下界へと下りる。下界がなければ、天界は存在できない。また天界がなければ、魂の再生が行えなくなるため下界は存在できない。

 天使のミツコは、百合子に憑いて、絶望していた鈴田竜太郎を、また、おそらくは絶望していた百合子を救おうとしているのだろう。絶望が大きければ大きいほど、救われたときの、その感情のうねりは大きなものになる。

「世界の理を、私は知っている。それがどうした?」

「それがどうした?」ミツコは鼻で笑う。「どうしたじゃないでしょう。リクオ、あなたの判断基準は間違ってると言いたいのよ。私は」

「私は間違っていない」

「間違ってるわ」

「どこが」

「私たちの仕事は、下界の者たちに感情のうねりを生じさせ、生じるうねりをコントロールすること」

「その通りだ」

「それが大きすぎても、小さすぎてもいけない」

「その通りだ」

「リクオ」

「何だ」

「死神が、自分の感情で動いてはいけない。善と悪が、世界の理ではない。あくまで、うねりを発生させるために、善と悪が存在しているだけだ。お前は善を優先しようとしすぎてる。死神の、回収課の仕事というのは、善も悪もなく、営業課からいわれた魂の回収を行えばいい」

「そんなはずはないだろう。死神にも、感情はある」

「仕事に関係はない」

「いや、ある」ないはずがない。感情が関係ないのであれば、神は、私に感情を与えたりはしない。機械のように、ただ指示通りに動く死神を創ればよかったのだ。だが私は生まれた。感情を持って。ならば、私は、私の考えるように仕事をする。それが正しい。そうに決まっている。

「なぜ、鈴田竜太郎なのだ?」私は質問した。

「どういうこと?」

「救うのは、鈴田竜太郎でなければならなかったのか? もっと不幸な者も世の中にはたくさんいる。なぜ、鈴田竜太郎なのだ?」

ミツコは、肩を落としながら言った。

「私の仕事内容を、死神に教える必要はない。それと、知ってると思うが、下界の者を救うのが私の仕事ではない。救うのは、方法であって目的ではない。下界の者を救うことによって感情のうねりを生じさせること。うねりは大きすぎても、小さすぎてもいけない。だから、必ずしも、より不幸な者を救うわけではない。それが私の仕事。わかった?」

「わからない。なぜ鈴田竜太郎なんだ? 稲垣祐一でもよかったのではないか?」

「稲垣祐一というのは、お前の、魂回収の対象か?」

ミツコは、少し意外そうな表情を見せる。

「そうだ。私が思うに、魂の回収に相応しいのは稲垣祐一ではなく、鈴田竜太郎だ。そして救われるべきは、鈴田竜太郎ではなく稲垣祐一だ」

「稲垣祐一は、もう手遅れだ」

ミツコは、稲垣佑一の存在を知っているかのような口ぶりだ。

「どういうことだ?」

「魂を回収してやったほうが、幸せだということだ」

「それは、ミツコが決めることではない」

「その通り。私が決めることではない。だが、営業課の死神が、稲垣祐一の魂を回収するようにと、決めたんだろう」

その通りだ、と思ったが、それでは私が納得しない。

「死神には死神の事情がある。天使が口を挟むな」と、強気で言い返した。

ミツコは、胸の前で組んでいた腕を一度ほどき、もう一度組みなおす。ふう、と短いため息を漏らした後に、私に哀れむような目を向けた。

「鈴田百合子はな」鈴田百合子の姿をした天使のミツコは、鈴田百合子について語りだす。「稲垣祐一よりも、救われるべき存在だ」

「どういうことだ?」お前が、稲垣祐一の何を知っているというのだ。子を馬鹿にされた親のような心境だ。お前に、稲垣祐一の何がわかる。私はミツコの言動に不満を持った。

「鈴田百合子は、二度、絶望を味わった」

ミツコは、天界の者らしく、淡々とした口調で鈴田百合子について語りだす。

 鈴田百合子が、鈴田竜太郎と知り合うよりもずっと前のことだ。百合子には亭主がいた。亭主は、臆病者で気が弱く、しかし誰よりも優しい男だった。サラリーマンとして忙しい日々を送っていたが、家庭のことも考え、百合子のために尽力を尽くしてくれていた。百合子と亭主の間には、娘が一人おり、娘が小学校に入学する際には、三十五年ローンで庭付きの一戸建ても購入した。家族のために一生懸命に働く亭主、親思いの優しい娘、亭主を支えるために家事の一切を引き受ける百合子。家族三人で贅沢ではないものの幸せな暮らしをしていた。

 そんな中、不幸は、音も立てずに忍び寄る。

ある晩、亭主が家に帰ってくると、静かに言った。

「借金が、できたんだ」

亭主は、百合子の知らぬところで友人の借金の保証人になっていた。その友人は借金を残して逃げてしまい、借金は百合子の亭主のもとへと舞いこんだ。

 亭主から告げられたとんでもない借金の額に、腰を抜かしそうになった百合子だったが、何とか持ちこたえた。

「頑張りましょう」

百合子はそう言った。

 払わなければいけない借金の額はとんでもないものだったが、それでも、家族三人力を合わせて頑張った。仕事をしていなかった百合子は、スーパーのレジ打ちのパートに出かけ、節約できるものは節約し、借金返済に努めた。巨額の借金も、少しずつではあるが、減っていった。

 そんな日々の中、亭主の行動が、少しおかしくなっていった。それは、他人から見ればわからない些細なものだったが、長年亭主と寄り添い歩いた百合子には、決定的に違っていた。

 まず、ふとした言動がいつもと違うようになっていった。挨拶をしなくなった。「いってきます」と「ただいま」と「いただきます」と「ごちそうさま」と「おはよう」と「おやすみ」を言わなくなった。百合子とは目も合わせなくなり、家にいる時間も少なくなっていった。

 ストレスだ。百合子はそう思った。亭主のちょっとした変化を、借金返済からくるストレスのせいだと、百合子はそう思い、亭主の変化については、そっとしておこうと考えた。

 それからまた少しずつ、亭主は変わっていく。たまに暴言を吐くようになり、それから暴力を振るうようになり、一週間のうち、一度か二度しか帰ってこなくなった。それでも、百合子は亭主を信じていた。百合子は亭主を愛していた。娘を、家庭を、愛していた。借金さえなくなればまた元通りに戻る。百合子はそう信じていたが、もう、戻ることはなかった。

 借金を返済しだしてから二年が、亭主が家庭内暴力を振るいだしてから一年が経過したころ、亭主は、仕事を辞めて帰ってきた。

「なぜ?」百合子は問うたが、亭主が答えたのは、口ではなく手、暴力でだった。

「なぜ?」右の目を腫らしながらも、百合子はもう一度言った。

 尚も、亭主は答えなかった。そして、後で理由を知った。

 亭主は、会社の金を横領し、その金を、借金の返済や自分の交遊費として使用していた。

「なぜ?」と、百合子は言った。亭主は、答えなかった。百合子は、三十五年ローンで購入した家を、娘と共に後にした。

「それは、まさか」私は言おうとしたが「まだ話は終わっていない」とミツコに遮られた。まだ話は続く。

 亭主と別れた百合子は、娘と共に実家に帰った。北海道の片田舎だ。実家には、百合子の母がいた。

 百合子の母は、百合子と娘を哀れみ、悲しんだ。せめて傷が少しでも早く癒えるようにと、二人を温かく見守った。

 一生寄り沿い歩こうと決めた亭主とは別れた百合子だが、まだ、踏ん張らなければならなかった。百合子には、娘がいる。娘のため、そして優しく支えてくれる母のため。百合子は立ち上がる。悲しみに沈んでいるわけにはいかない。絶望に落ちぶれる暇はない。

 百合子はスーパーのレジ打ちの仕事を始め、母の年金にも助けられ、娘を養った。高校を卒業した娘は、東京の大学に通うために、上京した。娘の生活費、授業料、払わねばならない金額は大きい。百合子は、身を粉にする思いで働く。規則正しく。規則正しく。規則正しい生活は、人を立ち直らせる力を持つ。百合子に、絶望に打ちひしがれる暇は、もはや、なかった。

 そして、絶望から立ち直った百合子に待ち受けていたのは、母の死と、娘の失踪だった。母は、寿命で亡くなった。八十を超える歳だった。仕方ない、といえば、仕方ない。

 百合子にとって、問題だったのは娘の失踪だった。

 ある日、娘の携帯に電話をすると、コールはするのだが、でない。何か忙しいのだろうと思い、折り返しかけ直してくるのを待った。が、かかってこない。不安になり、何度か電話をしたが、でない。怖くなった百合子は東京へ向かった。娘の一人暮らしのアパートはもう既に解約され、引き払われていた。アパートの大家に訪ねると、アパートを引き払ったのは、丁度百合子が電話をした頃らしい。何か変わったところがなかったか、と尋ねると、特に何も、という返事が返ってきた。大学に問い合わせると、休学願いが届けられていて大学には来ていない、と言われた。

なぜ? 理由がわからない。話をまとめるに、娘は自分から姿をくらましたということになる。なぜ? 祖母が他界してからまだ一年も経っていないうちに、娘は失踪した。祖母の死と関係あるのだろうか? 百合子は様々な可能性や理由を考えたが、全てがわからないまま、苦しみ、悲しんだ。

いくら百合子が悲しみ、嘆き、苦しんだところで、娘の失踪理由がわかるはずもない。探せるはずもない。娘が失踪したことと、祖母が亡くなったことは関係ない。百合子の娘は、東京に上京してしばらくの後に悪魔に憑かれたのだから。悪魔のささやきに促されるまま、娘は堕ちていった。今では、もう下界に存在していない。天界で、魂だけの存在になっている。そのことを百合子は知らないし、今後も知ることはない。

ミツコはそこまで話すと、首を右に左に動かして、大きく伸びをする。

「いいか? 百合子は、絶望していたんだ。百合子を救うために私は百合子に憑いた」

私は、黙って頷いた。

「別に、誰でもよかった。百合子と共に生きる伴侶は、誰でもよかったんだ。たまたま、絶望を持った者が近くにいた。それが鈴田竜太郎だった。だから救った。」

私は、黙って頷いた。「つまり、あえて、そうしたわけではない、と言いたいのか?」

「そうだ。あえて、稲垣祐一の妻だった百合子と、鈴田竜太郎をくっつけたわけではない」

ミツコは、平然とした顔で私を見てくる。

「この話を聞いて、死神のお前はどうする?」私の表情の変化を見逃さないように、ミツコは私の目をじっと覗き込んでくる。

私はその質問には答えずに、百合子に質問をする。

「いずれ、ミツコは百合子から離れるだろう?」

「百合子を救えたら、な」百合子が救われた時点で、ミツコが百合子に憑く理由はない。また、どこか別の者を善き方向に導くためにミツコは百合子の下を去る。

「鈴田竜太郎は、稲垣祐一に借金を背負わせた元凶だ」

「それが、どうした?」ミツコは頷いた。

「そのことを百合子が知った場合、百合子はどうするかな?」

耐えられるのか? それが私の疑問だ。鈴田竜太郎がいなければ、稲垣祐一は借金することもなく、百合子は稲垣祐一の妻として、今でも家族三人幸せに暮らしていたはずだ。鈴田竜太郎がいたばっかりに、百合子は絶望へと導かれた。その事実を知ったとき、百合子は鈴田竜太郎を許せるのか? その事実に耐えることができるのか?

「百合子はどうもしない」

私は首をかしげる。

「百合子は、鈴田竜太郎を恨まない。鈴田竜太郎が、稲垣祐一に不幸の種を蒔いた張本人だとしても、今、現在、百合子が生きていられるのは、鈴田竜太郎のおかげ。だから、百合子は鈴田竜太郎を許すはずよ。それに」言いながら、ミツコは私を一瞥し「リクオ、お前のように、百合子は器量が小さくない」馬鹿にするように小さく笑った。

 それを聞いて私も笑う。「良かった」と呟いた。

「何が?」良かったのだ? と、不思議そうにミツコが訊いてくる。

「百合子は、きっと、今回も、耐えられるだろう」私は自信を持って言い切った。

「何が?」もう一度、ミツコは言う。

「鈴田竜太郎は幸せにはならない」私は言った。「そして、これから起こる出来事で、もっとも悲しい想いをするのは、おそらくは、百合子だ」

ミツコは、私を睨みつける。吊り上がった目は、更に吊り上り、顔が怒りで赤く染まっている。「なぜ百合子を苦しめようとする? 百合子は関係ない。稲垣祐一の魂を回収して、とっとと天界に帰ればいい」尚も、ミツコは私を睨む。「私の仕事の邪魔をするな」苛立ちを前面に押し出して、言った。

「邪魔はしない」と私は答える。「私は、私の仕事をする」そう言いながら、立ち上がった。「私が仕事をした結果、百合子がどうなろうと、それはそれ。これはこれ、だ。仕方のないことだ」

「きさまあ」呟いたミツコの声は、静かな獣の咆哮のようだ。私の背筋に、寒気が走る。なるべく平常を装って、私は、鈴田宅を出て行こうとする。

「リクオ、お前のことを知ってるぞ」

ミツコの声が後ろから私の鼓膜まで届き、私は振り返る。

「思慮の浅い、自己満足の死神。お前は有名だ」

数秒、ミツコと目が合ったまま立ち止まり、また歩き出した。

「お前は誰も救えない。お前が正しいと思ってることは、何も正しくない」

ミツコの声は確かに私の耳に届いていたが、私はもう振り返らなかった。

「いいか。私の仕事の邪魔をするな。誰も救えない死神が。粋がるなよ」

ミツコの声は低く、威嚇するような感情がこもっていたが、私はそれに答えることなく、鈴田竜太郎宅を後にした。

 しばらく歩いた。鈴田竜太郎宅から続く長い田舎の一本道を、ぼんやりと風景を見るともなく見つめながら歩いた。空は青く、そして高い。雲は白い。山々の緑は深く、田んぼの土色は濃い。太陽に照らされた景色は、我が我がといわんばかりに見事な輝きを放っている。

百合子に同情しないわけではない。だが。だが、と私の心が叫ぶのだ。鈴田竜太郎を、私は許せない。もう今回の仕事は、稲垣祐一がどうとか鈴田竜太郎がどうとか鈴田百合子がどうとか、そんな問題ではなく、私の問題だ。

稲垣祐一は、鈴田竜太郎に借金を背負わされたあげく、女房まで奪われていた。百合子と鈴田竜太郎が結ばれた過程に悪意が存在しているわけではないが、しかし、結果論として、稲垣祐一は鈴田竜太郎にほぼ全てを奪われている。可哀想だ。なぜ稲垣祐一は奪われなければならない。なぜ鈴田竜太郎が手に入れなければならない。おかしい。あってはならない。そんなこと、私が許さない。たとえミツコが、天使が許したとしても、死神である私が許さない。

死神が個人の感情で動いてはいけない。ミツコはそう言った。善と悪が世界の理ではない。あくまで、うねりを発生させるために、善と悪が存在しているだけだ、と。お前は善を優先しようとしすぎてる。死神の、回収課の仕事というのは、善も悪もなく、営業からいわれた魂の回収を行えばいい。ミツコはそう言った。

その答えは、おそらく間違いではない。現に、うねりのバランスというものは、私のような一死神が手を加えていいものではない。だからこそ死神法第十三条は、原則として適用してはならないことになっている。実際、過去に適用した死神は私の知る限り存在しない。

だが、神が私という死神を創った際、このような感情を持たせたことにも、何か意味があるはずなのだ。それは、そう、たとえば、今回のようなケースに自分の考えで答えを導きだし、行動するように、と。そんな意味があったはずだ。だからこそ私は自らの考えの通りに行動する。それが私の死神としての仕事であり、信念でもある。

とにかく稲垣祐一は可哀想で、鈴田竜太郎は図々しい。だから、鈴田竜太郎には、罰だ。稲垣祐一を苦しめた罪に、罰を、鈴田竜太郎に与えなければ。ミツコと会い、会話をしたことで、揺らいでいた私の決意は固まった。

考えがまとまったところで、早速行動に移す。今日は最終日だ。魂を回収しなければならない。私はまず、歩いていた足を止め、[行き紙]で検索をする。鈴田竜太郎、鈴田竜太郎を探し、見つけると移動の選択をする。そして一歩を踏み出すと、そこは鈴田竜太郎が働いている現場近くだった。

一軒屋が連なるようにして立っている住宅地の道路を工事していた。ローラー付きの黄色い車が、敷き詰めた砂利の上を固めるようにゆっくりと走っている。鈴田竜太郎は丁度休憩中のようで、道の脇で、同僚と思わしき者と共に、煙草をふかしながら談笑していた。

交通整理の警備員が、無断で現場内に入ろうとする私を止めにきたが、一睨みしてやるとおとなしく下がった。私は怖そうな借金取りの格好をしている。こういうときに便利だ。

「鈴田さん」

私の声に、鈴田竜太郎は反応する。笑いながら私の方向に顔を向けると、私の存在が視界にはいったようで、笑っていた顔が、口の開いたまま無表情になり、引き締まり、そして青ざめた。

慌てて私に近寄りながら、私の手を取り、工事現場から離そうとする。「ちょっと、ちょっと、リクオさん」と言う声が、いかにも慌てている。

私は鈴田竜太郎に手をひかれるままに、工事現場から離れた。

「どうしたんですか?」

鈴田竜太郎の声は、慌て、驚き、怯えている。

「ちょっと用事があって」

「何の用事ですか?」青ざめた顔はそのままで、体を患った病人のような表情をしている。

「稲垣祐一に、会ってもらおうと思ってるんだ」

私の言葉に、鈴田竜太郎は、目を大きく見開いた。口も大きく開き、しばらく反応のないまま、固まっていた。数秒の後、怒気を含んだ大きな声で、鈴田竜太郎は言った。

「どうしてですか?」

私はその反応が気にくわない。どうして? どうして、だと。そんなもの、決まっているではないか、と、つい眉間に皺を寄せる。

「鈴田さん」私はなるべく優しく言った。「あなたは、稲垣祐一に悪いことをした。だから、まず、稲垣祐一に謝ってもらおうと思ってね」

怒りに身を任せ、大きな声で怒鳴ったことに反省したようで「いや、その」と鈴田竜太郎は小さく口ごもる。

「行くよ」私は、鈴田竜太郎の手をとる。

「ちょっと、待ってください」私の手を引き払おうと、鈴田竜太郎はもがいた。

稲垣祐一には会いたくないのだろう。それはそうだ、と私は思う。鈴田竜太郎の中にも、大なのか小なのかはわからないが、稲垣祐一に対しての罪悪の心はあるだろう。だから会いたくない。会えば、鈴田竜太郎は稲垣祐一に責められる。それを鈴田竜太郎はわかっている。私は神に創られて五年と一ヶ月が経過している。下界の者は誰しもが責められることを嫌う、ということをよく理解しているつもりだ。責められることから誰しもが逃げたがる。鈴田竜太郎もしかり。だから鈴田竜太郎は稲垣祐一に会いたくない。抵抗するのに必死だ。

「待てないよ」私は、強く、鈴田竜太郎の腕を握る。

「行けません」鈴田竜太郎は叫んだ。「今さら会って、どうすればいいんですか? 何て言えばいいんですか?」

「とりあえず、ごめんなさい、は言ったほうがいい」握った手を、より強く握る。

「すいません。離してください」鈴田竜太郎が暴れる。「行けません。私は行けません。すいません。離してください。行けません」何度も何度も大きな声で、鈴田竜太郎は叫びながら、もがく。

「おい、何やってんだ」

工事現場のほうから声がして、見ると、そこにはさっき鈴田竜太郎と談笑していた同僚らしき人物がいた。鈴田竜太郎の声が聞こえたようで、血相を変えている。鈴田と同年代に見えるが、気の強そうな外見が鈴田とは正反対だ。

「社長」と、鈴田竜太郎がその男に声をかける。どうやら、鈴田竜太郎の上司らしい。「助けてください」必死の叫び声が現場に響く。

「鈴田、待ってろ」言いながら、社長と呼ばれた男は私に向かって駆けてくる。「おい、手を離せ」

私は、鈴田竜太郎の胸倉を掴む。「いいから、来いよ」と、強い口調で凄んだ。

すると、一瞬、鈴田竜太郎は抵抗をやめた。私はその瞬間を見逃さない。素早く[行き紙]で稲垣祐一を検索すると、一歩を踏み出す。


 *


 見える世界は、一瞬で姿を変えた。

 がやがやと喧騒が響いている。アーケードのついた商店街には、自転車に乗った買い物帰りの主婦や、学校帰りの学生、仕事帰りのサラリーマン、職業不明の男に女、様々な年齢層の者たちが行き来している。おそらく時間帯は夕方だろう。買い物に来た者や、夕飯を食べに来た者、また何か用事のある者や、何も用事がない者たちが、多く行き交い、商店街は賑わっていた。

 私に胸倉を掴まれたままの鈴田竜太郎は、何が起こったのかわからない様子で、辺りをきょろきょろと見回している。

「え、ちょ、え、リクオさん」戸惑いが、声にも表れている。

「何?」

「ここ、どこですか?」

「稲垣祐一さんの住んでる所の近くの商店街」

「え、ちょ、え、な、ど、どうして」鈴田竜太郎は、意味がわからないようで、とにかく混乱していた。

無理もない。さっきまで工事現場にいたのに、一瞬で商店街の中にいるのだ。混乱して当然だろう。

「細かいことは気にしなくていいから」と私は、鈴田竜太郎を宥める。「とにかく、今から稲垣祐一に会いに行くよ」

「いや、リクオさん、いや、ちょっと。それより、どうしてこんなところに?」

鈴田竜太郎の思考は不安定で、現状を把握できていない。考える、という行為が上手くできないようで、稲垣祐一どころではない、といった様子だ。さっきまで逃げようと必死にもがいていたが、今ではもう抵抗するのもやめて、頭を右に左に忙しく振り、目線も頭に合わせてよく動く。

瞬間移動のような移動手段を使えるのは、未来の猫型ロボットか、地球育ちのスーパーサイヤ人か、天界の者か、おそらくそんなところだろう。下界の者は、瞬間移動のような移動手段が現実にあることを知らないから、下界を巻き込んでの瞬間移動は禁止されている。しかし今回は、私なりの緊急事態だったのでやむをえない。

 鈴田竜太郎の疑問には答えずに、私は行き紙を取り出して、稲垣祐一の居場所を検索する。

「携帯いじってる場合じゃないでしょう」鈴田竜太郎の口調は刺々しく、平然とした態度の私が気に入らないらしい。

「ちょっと、黙っててよ」稲垣祐一、稲垣佑一、と[行き紙]で検索する。

見つけた。稲垣祐一は、てっきりアパートに帰っているものと思っていたが、商店街の中にいる。かなり近い。仕事帰りにスーパーにでも寄っていたのだろう。昨日、スーパーで惣菜を買っていたのを思い出す。昨日は確か、揚げ出し豆腐とポテトサラダを持っていた。今日も似たり寄ったりの質素な惣菜を買ってくるのだろう。

私は視線を動かして、稲垣祐一を探す。目視できる距離に稲垣祐一はいるはずだ。

「あれ、リクオさん」

稲垣祐一の声が、商店街の騒がしい喧騒の中、微かに聞こえた。声の方を見やると、手前にいる二人組の中年男性が目に入り、その後ろを素早く自転車が横切り、さらにその後ろに、稲垣祐一が立っていた。昨日と同じの、汚い仕事着を着て、スーパーの買い物袋を提げている。

「何してるんですか?」言いながら、稲垣祐一は、私のいる方へ足を進める。

私は、数秒、稲垣祐一と目を合わし、それから鈴田竜太郎を見た。鈴田竜太郎の表情は暗く、硬い。死刑台の上に乗った死刑囚のような表情をしている。今後、本当に自分が、死刑台へと続く十三階段を登る運命にあることは、まだ知らない。鈴田竜太郎の喉が、縦に揺れる。ごぐ、と唾を飲む音が、商店街の喧騒を貫いて私の耳にまで届いた気がした。

私の視線が、鈴田竜太郎の方へと動いたのを見てとった稲垣祐一は、同じように目線を鈴田竜太郎へと向ける。その姿を目で見た瞬間に、稲垣祐一は立ち止まり、のほほんとしたその表情を失った。

稲垣祐一と目を合わす鈴田竜太郎の顔は、相変わらず暗く、硬い。そして、青ざめている。体が細かく震え、唇がぴくっ、ぴくっと、一定のリズムでつり上がる。さっきまでの瞬間移動によるパニックはどこ吹く風で飛び去り、今は目の前にいる稲垣祐一の存在に心底怯えている。見つかっちまった、と口には出さないが、表情が言っている。

私は、稲垣祐一、鈴田竜太郎、鈴田竜太郎、稲垣祐一、と何度も二人を見比べる。二人とも、私など初めから存在していなかったかのように、お互いがお互いから目を離そうとしない。

これは好都合だ、とばかりに私は素早く[行き紙]を取り出して操作する。[行き紙]の画面には「肉体からの離脱、選択しますか?」と画面に文字が表示され、その下に、「はい」「いいえ」の選択肢が表示される。私は右の親指で「はい」の文字を触る。

すると、私の体は、交通事故にあったような強い衝撃を受けて、後方へと吹っ飛ぶ。音で表すなら、どがん、がこん、といった強い音のイメージだ。それは、あくまでイメージだ。実際には音はしない。後方へと吹っ飛んだのも、実際には体が吹っ飛んだわけではなく、私の肉体はまだその場に佇んでいる。その、私の肉体を、私は衝撃の余韻に踏ん張りながら、後方から眺めている。後方へと吹っ飛んだのは、肉体ではなく、私の魂だ。田嶋陸生という今回の任務に使用された肉体は、私の魂が離脱したことによって、今、まさにこの瞬間、するりと音もなく、静かに、消滅した。砂が、風に吹かれて飛んでいくような、滑らかな消滅だ。かたん、がこん、と小さな音を鳴らして、今回下界で購入したスルメイカと包丁がその場に落ちた。私は目線を下にむけ、自分の服装を確認すると、さっきまでの素行の悪そうな服装から、今では黒いスーツに白のシャツ、黒い細めネクタイと、いつもの天界での姿に変わっている。頭を触ると、ヘアワックスでがっちりと固めたオールバックの感触ではなく、シルクハットがある。少し持ち上げ、またかぶり直す。普段の天界での私の姿だ。肉体から離脱した私は、下界から抜け出し、天界の所属になった。下界の者たちに、もう私の姿は見えない。

稲垣祐一と鈴田竜太郎が出会った時点で、今回の任務は最終段階に突入していた。もう私のすべきことは、それほど多くない。とりあえず、私は二人の様子を見守る。

 稲垣祐一と鈴田竜太郎は、ずっと喋らずに見つめ合っていたが、とうとう稲垣祐一が静寂を壊す。

「鈴田? おまえ、鈴田か?」

小さな声だったが、二人の間の静寂を突き破るだけの、大きな力がこもっていた。

鈴田竜太郎は、稲垣祐一の問いかけに答えることなく、俯き、黙っている。

「なあ」稲垣祐一は一歩踏み出し、鈴田竜太郎の肩を両手で持ち、俯いた鈴田竜太郎の顔を覗きこむ。「鈴田だろ? お前、どこにいたんだよ? 今まで、何してたんだよ」鈴田竜太郎の肩を、激しく揺さぶる。

「勘弁してくれ」

聞き取るのが精一杯の小さな声だった。鈴田竜太郎は、稲垣祐一と目を合わそうとせず、俯いた顔を、更に俯かせている。

「何だよ、おい」稲垣祐一の声が大きくなる。「お前、わかってんのか? お前がいなくなってから、俺が一体どんだけ苦労したと思ってるんだよ。なあ、おい。わかってんのかよ」

心の奥底にずっと溜めていた怒りや不満といったものが、もう堪えきれなくなって溢れ出してきたかのようだ。無表情だった稲垣祐一の顔は、今では、灼熱のマグマで顔を洗ったかのように赤く染まり、反対に鈴田竜太郎の顔は、死人のように青い。

「なあ、勘弁してくれって何だよ。何を勘弁するんだよ」

鈴田竜太郎の肩を、なおも強く揺する。

「ふざけんじゃねえぞ。お前のせいで、どんな目にあったと思ってんだよ」

稲垣祐一の声はどんどん大きくなり、もはや叫んでいる。獣の雄叫びのように野蛮で、生命の躍動を感じさせる。

 私は、稲垣祐一のその変動ぶりに、目を見張り、驚いた。あの稲垣祐一が、こんなにも雄雄しく、猛々しく怒りを露にするとは。あの、へらへらと中身のない、生きる屍のようだった稲垣祐一が。弱く、脆く、儚い生き物だった稲垣祐一が、鈴田竜太郎に対して、こんなにも怒りを表現するとは。私には想像することすらできなかった。素晴らしい。

 稲垣祐一の声に反応して、商店街を行き交う通行人たちが、二人のやりとりに目を向けている。ある者は立ち止まり、ある者は立ち止まることなく目線だけをむけて。しかし、誰も二人を止めようとはしない。二人が争っているのは、誰の目にも明らかなことだったが、止めに入る者は皆無だった。

そろそろかな、と私は、様子を見ながらも最後の準備に取り掛かる。[行き紙]を取り出し、右手の親指で操作する。「大鎌」という文字が画面に浮かび上がると、私はその「大鎌」という文字にタッチする。すると、行き紙の、手の平より少し大きいくらいの画面から、にゅうっと大鎌が飛び出してくる。私は行き紙をポケットに突っ込んで、右手で身の丈ほどある大鎌の柄の部分を握る。柄から突き出るように伸びた刃は、綺麗な曲線を描いている。

「すまん」と、小さな声で鈴田竜太郎は謝った。痛みに耐えるように、歯を食いしばっている。肉食動物に追い詰められた草食動物のようだ。

「なあ、お前、もう、死ねよ」と、稲垣祐一が言った。さっきよりは幾分声に落ち着きがあるが、その分、言葉はより暴力的になり、より凶暴さが増したように聞こえる。「死んでくれよ。そうでもしてくれないと、もう、お前を許せそうにないよ」

涙をこらえるような顔をしている。実際に、稲垣祐一は涙をこらえている。

 もう仕上げてもいい頃合だな、と思った私は、大鎌を持った右手を高く掲げ、鈴田竜太郎にむけて振り下ろす。鈴田竜太郎の下腹部あたりに、大鎌の刃が突き刺さる。しばらくそのままで、それから、抜く。下界の者である鈴田竜太郎に、天界の死神が使用する大鎌が刺さったといっても、血が飛び散るようなことにはならない。鈴田竜太郎の外見に変わりはない。

 大鎌に刺され、抜かれた鈴田竜太郎は、一瞬、体をぶるっと大きく震わせた。閉じた瞼を開くと、左右の視線の定まっていない瞳で、稲垣祐一の目を見る。稲垣祐一の両手を撥ね退けると、私がさっき立っていた場所に移動して、私が今日の朝、スーパーで買っておいた包丁を手に持った。

「鈴田、何やってんだ?」

稲垣祐一が言う。声に、表情に、冷静さが随分戻ったようだ。

稲垣祐一とは正反対に、明らかに正気を失った目をした鈴田竜太郎は、稲垣祐一に向かって突進した。

どん、と強く体当たりをする。稲垣祐一は後方に吹き飛び、尻から倒れた。衝撃に目を細め、鈴田竜太郎を見る。「何やってんだよ」と、大声を出した。

鈴田竜太郎は、倒れた稲垣祐一に馬乗りになり、抵抗する稲垣祐一の胸のあたりを、持っていた包丁で、刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。力強く、何度も、刺した。刺した。刺した。刺された箇所から、赤黒い血が、徐々に、だんだんと激しく、溢れ出す。稲垣祐一の汚い作業着は、見る見る間に赤く染まっていった。口からも、鮮血が漏れ出している。ごふっと、声というより音が、稲垣祐一の喉から鳴った。胸に開いた傷口から血は流れだし、稲垣祐一の上半身を中心に、雨上がりに見る地面の水溜りのような、血溜りが広がっていった。

商店街の、行き交う通行人の一人が大きな悲鳴を上げた。その声が商店街にこだまして、皆が皆、足を止める。鈴田竜太郎に刺され続けている稲垣祐一を見た通行人は、まず、足を止め、固まる。何が起こっているのか、誰が見ても明らかなその光景を、誰もが一瞬で理解することができなかった。その、日常の中に訪れた非日常が、その場にいる全員の思考の回転を一時停止させた。それから誰もが慌てて動き出す。「何やってんだ」と誰かが叫び、「警察、警察呼べ」と叫び、「きゃあ」であるとか「いやあ」といった叫び声が重なりあい、無言でただ見つめる者がいたり、走ってその場を逃げる者がいたり、腰を抜かしてへたりこむ者がいたり、様々な行動が起こっていたが、誰一人、鈴田竜太郎の行動を止めようとする者はいなかった。血の海ができ、もう息絶えていることは明らかな稲垣祐一を、躊躇することなく、まだ、まだ、もっと、もっと、といった具合に刺す手を止めない。その場の全員が恐怖し、混乱し、戸惑っていた。鈴田竜太郎は、尚も刺し続けている。胸を存分に刺した鈴田竜太郎は、今度は、腹部を刺した。刺した。刺した。内臓は破れ、糞尿の匂いが血の匂いに混じる。異様な光景、異様な空気、異様な世界。平和な商店街は、ほんの一瞬で地獄へと化した。

それから約数分後、誰かが呼んだ警察官二名の手によって、鈴田竜太郎は取り押さえられた。押さえ込まれてもなお、稲垣祐一に向かって行こうとする鈴田竜太郎を、警察官は必死で取り押さえる。それから更に数分後、応援の警察官が三名駆けつけ、鈴田竜太郎は現行犯逮捕される形となった。



稲垣祐一の魂がその肉体から離脱したのは、鈴田竜太郎が五回目を刺し終えた直後だった。稲垣祐一の頭上に、白い煙が浮かび上がり、そしてその煙がたゆたいながら、稲垣祐一の形を形成した。

稲垣祐一は、いや正確には、離脱した稲垣祐一の魂は、鈴田竜太郎が警察官に逮捕されるまでの一連の行動を、ずっと観察していた。その顔に表情はなく、深夜に放送されていた興味のない映画を、中々寝つけないから仕方なく見ているといった様子で、ずっと見ていた。

離脱した魂である稲垣祐一は、目の前にある光景を、ずっと見下ろしていた。鈴田竜太郎が、稲垣祐一の肉体を包丁で刺し続けるという動作を、ずっと見下ろす形で眺め、呆然とその場に立ち尽くしていた。時折辺りを見渡し、商店街の住民の恐怖した様を眺め、また目の前の鈴田竜太郎と自身の肉体に目を戻す。「あれ?」と何度も言った。「え?」とも言った。「どういうこと?」とも言った。

鈴田竜太郎が目の前にいて、自分を包丁で刺している。自分の体からは、血が大量に流れている。この出血量じゃおそらく自分は死んでいるな、と思う。でも自分は、今、鈴田竜太郎を見下ろしている。見下ろした先には自分の肉体がある。おそらく自分の肉体は死んでいる。でも自分は今、自分を見下ろしている。つまり、あれ? え? どういうこと?  思考回路が、目の前の現実を理解できずに、ぐるぐると何度も何度も、行っては戻り、行っては戻り、を繰り返していた。

警察官が鈴田竜太郎を連行した後に、私は稲垣祐一の魂に声をかけた。

「改めて、クソ初めまして」

稲垣祐一が、初めて気づいたという表情で私の方に目を向ける。それからまた目を離し、またもう一度私を見た。

「リクオ、さん?」驚いたような表情を見せる。

私は、稲垣佑一にむかって丁寧にお辞儀をする。

「死神部、回収三課、第六十七班、班員のリクオと申します。今回、稲垣祐一様の魂の離脱、回収の担当をさせていただいております」形式的な挨拶をした。

「どういうことですか?」稲垣祐一は、軽く首を傾げる。

 私は稲垣祐一に今までの事の経緯を説明した。田嶋陸生という借金取りは下界での仮の姿であって、本来の私は、天界に住む死神であるということ。稲垣祐一の魂の離脱、回収の要請があって、その任務のために下界へやってきたこと。下界での私がとった行動。今現在、稲垣祐一が魂になった経緯を説明した。

「本当は鈴田竜太郎さんの魂を回収しようと思ってたんだけどね」

稲垣祐一は、心ここにあらず、といった具合で、私の言葉が上手く理解できていないらしい。当然といえば当然だ。まずほとんどの者たちが、死んだ現実を理解できずに、戸惑い、混乱する。

稲垣祐一もその例にもれず、どうも上の空のようで今の状況を理解できていない。

「つまり、私は、死んだのですか?」

「その通り。稲垣さんは、鈴田竜太郎に殺されたんだ」

「そうですか」どうも、現実味がないようで、稲垣祐一の声には力がない。

「実は、鈴田竜太郎の魂を回収しようかなと思ったんだけど」

稲垣祐一は、聞いているのか聞いていないのか、ぼうっと、虚空を見つめている。

「稲垣さんが、『私の命でも何でも持っていってください』なんて言うから、予定通り稲垣雄一さんの魂を回収することにしたんだ」

「そうですか」

「本当は、稲垣祐一さんは自殺する予定だったんだけど、それじゃあ少し可哀そうだなと思ってね」

「そうですか」

己が死んでいようが死んでいまいが、別にどっちでもいい、といった無気力な雰囲気が稲垣佑一から伝わってくる。

「稲垣さんだけ辛い思いするのも忍びないから、鈴田竜太郎が、稲垣祐一さんの命を奪う形で、肉体から魂の離脱を行ったんだ」

虚空を見つめていた稲垣祐一の目の焦点が、私の方に向いた。

「あれだけ派手にやれば、鈴田竜太郎は、おそらく死刑だ」

「鈴田が私を刺したのは、リクオさんの仕業ですか?」稲垣祐一は、静かに言った。

「そう。これで、少しは稲垣さんの気も晴れたでしょ?」

稲垣祐一は答えず、まだ私のほうをずっと見ている。

「稲垣さんは辛い想いをたくさんした。鈴田竜太郎はその間、結婚までして幸せに暮らしてる。それじゃ不公平だ、と私は思う。稲垣祐一さんは可哀そうで、鈴田竜太郎は憎らしい」

「あのう、一つお聞きしたいんですが」稲垣祐一の目に、少し精気が宿った気がした。「鈴田の女房は、今後、どうなるんでしょう?」

「さあ。どうなるんだろうね」鈴田竜太郎の妻が、稲垣祐一の前妻であるとは、死神の私でもさすがに言えなかった。稲垣佑一は、その事実を知らない。「鈴田竜太郎の女房は、かなり苦労してそうだったから、もしかしたら、自殺するかもね」

私の言葉を聞き終えた稲垣祐一は、いきなり私の胸倉を掴んだ。じとりと睨みつけ、ふう、ふう、と呼吸が荒い。興奮しているようだ。

「リクオさん」内なる感情をなるべく抑えるように、押し殺した声で言う。

「なに?」と、私が言う。

「私は、そんなこと望んでいない」稲垣祐一が言った。

「どういうこと?」私には、よく意味がわからない。

「そういうことなら、どうして、私を一人で、ひっそりと死なせてくれなかったんですか?」

私を掴んだ手を、前に後ろに揺らす。私はその動作に合わせて、前に後ろにぐらぐらと揺れた。

「鈴田を巻き込むな。鈴田の女房も巻き込むな。巻き込まないでくれ。お願いだから、リクオさん。お願いだから、巻き込まないでくれよ」

稲垣祐一は必死に言った。

「リクオさん。そんなこと、私は望んじゃいないんだ」

稲垣祐一は、胸倉を掴んだ手を離し、その場に崩れ落ちた。涙を流しながら私に訴えかけてきたが、私にはよく意味がわからなかった。巻き込むなと言われても、もう遅い。いくら死神でも時間は戻せない。それに、私は稲垣祐一のためを想って行動したというのに、稲垣祐一は随分と横柄な態度をとるものだ。

もう面倒くさくなってきたので、さっさと天界の扉を開く。早く帰ってジョジョなる漫画を読もう、と思う。いつまでも泣き崩れている稲垣祐一の手を取り「さあ、行きましょう」と無理矢理立たせて、二人で天界の扉をくぐった。稲垣祐一はまだ泣いていたが、私は知らんぷりを決めた。後は事務員のクリコに任せ、私は報告書を書けば終わりだ。これにて、稲垣祐一の魂の離脱、回収の任務は一件落着となった。


 *


 任務報告書


 任務命令

 任務     稲垣祐一の魂の離脱、回収。

 担当者    リクオ。

 離脱方法   自殺。

 下界滞在期間 三日。

 備考     なし。


 任務報告

 任務     稲垣祐一の魂の離脱、回収。

 担当者    リクオ。

 離脱方法   他者による殺人。

 下界滞在期間 三日。

 備考     自殺よりも他者による殺人のほうが有効であると判断したため、その方法を採用した。肉体から魂を離脱させる際に、鈴田竜太郎という人物を使用したが、使用する際に瞬間移動を行使した。記憶処理等を事務員のクリコに任せたため、その後、瞬間移動を行使したことによる下界への影響はない。

また今回の下界滞在時、天使部の者との接触があったが、特に大事には至らなかった。


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