リクオは鈴田竜太郎と会ったことを稲垣佑一に伝えた

 鈴田竜太郎宅を後にした私は、そのまま当てもなく、しばらく歩き続けた。

さて、どうしようか。どうするべきか。私は歩きながら、スルメを食べながら、悩む。

 まず、鈴田竜太郎に会わなければと思い、会った。どうするか、どうすべきか。会った後に考えればいいのではないかと。会えば自ずと答えはでてくるのではないかと、そう考えた。

 しかし、でない。

そのため、鈴田竜太郎に会った後も私は、どうしようか、どうすべきかと悩み、悩み、悩む。

 鈴田竜太郎は、想像していたよりも良い奴だった。少々自分のことばかりを考える傾向があるが、だまされ、追い込まれ、心のゆとりを失ったせいだと解釈できなくもない。

結局は鈴田竜太郎も稲垣佑一と同じで、懸命に生きようとしていただけだった。鈴田竜太郎は、下界の者たちの作り出す大きな渦に巻き込まれ、いつの間にやら暗い海底へと押し流されてしまった。

 むしろ、鈴田竜太郎をだました営業先の担当者と金貸し業者に怒りを覚える。悪いのは、奴らではないか、と。

 魂回収のリストに相応しいのは、奴らではないのか。

私はそう思うが、しかし、今回の下界滞在期間は三日しかない。

その内のもう今は二日目だ。滞在期間は、あと一日と半日しかない。

この期日ではそこまでするのは難しい。時間が短すぎる。

私が選択できるのは、稲垣佑一の魂を回収するか、鈴田竜太郎の魂を回収するか。この二つに絞り込むしかなさそうだ。

 さて。と、私は悩む。

どうしようか。どうすべきか。

稲垣祐一か。鈴田竜太郎か。

死神的見解で物申すならば、もちろん稲垣祐一の魂を回収するべきだ。

死神法第十三条、魂回収の対象者の変更は、よっぽどの理由でなければ、してはならない。しかし。しかしだ。私の心情でいえば、やはり、鈴田竜太郎だ。

 稲垣祐一の魂を離脱、回収すれば、無事一件落着となる。稲垣祐一には愛する妻も娘ももういないのだから。稲垣祐一が消えても、困る者は少ないだろう。逆に鈴田竜太郎には百合子がいる。鈴田竜太郎の魂を回収すれば、百合子は悲しむだろう。私自身、鈴田竜太郎と稲垣祐一でいえば、稲垣祐一だが、稲垣祐一と百合子でいえば、甲乙つけがたい。鈴田竜太郎に女房がいなければ、女房が良い人そうでなければ、迷わず鈴田竜太郎といったところだが、残念ながら鈴田竜太郎には百合子がいる。

 どうしようか。どうするべきか。悩みながらスルメの入った箱に手をやると、もう全部食べてしまっていたようで、スルメがない。透明な箱は空になっていた。

 中々考えがまとまらない上に箱ごと購入したスルメがなくなったので、とりあえず買いに行くことにした。ついでにもう一度、稲垣祐一に会いに行こうと決めた。

 私はポケットから[行き紙]を取り出して、親指で画面に触れながら稲垣佑一を検索して、移動の選択をする。

原則として、このような長距離を一瞬で移動する行為は、扉をまたいだ時にしなければならないのだが、そのルールを破ったとしてもそれほど罰則はないので、ほとんどの死神はこのルールを守っていない。現在私のいる場所は、民家もほとんど見当たらない田舎なので、ルールを破ったとしても問題はない、と自分に言い聞かせる。

目を開けると、稲垣祐一のボロアパートの近所にある商店街に、私はいた。一日目と同じルートで、まず商店街の中にあるスーパーマーケットに立ち寄りスルメを箱で購入し、少しの間スルメ不足になっていた私の体を満足させるために、さっそくスルメを足のほうから噛みしめる。噛む。噛む。噛むと、私の心は弾み、仕事なんてどうでもいいか、稲垣祐一だろうが鈴田竜太郎だろうが、私の知ったことではない、という気分にさえなってくる。歩いて稲垣祐一のアパートへ向かう。

 かん、かん、と軽快な音をさせながら、稲垣祐一のアパートの階段を上り、稲垣祐一宅のチャイムを鳴らす。相変わらず、ビンボーン、と鳴る。チャイムの音を聞いた途端に、そういえば私は難解な仕事の最中であったなと、思い出す。思わず、ため息が漏れた。

 さて、どうしようか。どうすべきか。答えはでていない。

 しばらく待っても稲垣祐一が姿を現さないので、私は[行き紙]を取り出して稲垣祐一を検索する。稲垣祐一は、どうやら、自宅から十五キロほど離れた場所にいることがわかった。時間は、だいたい昼の三時ぐらいだ。日雇いの仕事をしている時間だろう。

 働いている場所に会いに行ってもよかったが、邪魔になるだろうと思い、そのまま待つことにした。

 稲垣祐一の部屋のドアの前に座る。尻を地面につけ、ひざをそろえて行儀よく体育座りをしてスルメを食べた。

 スルメはいいな、と思う。辛く味付けされたその胴体だが、噛み続けるとスルメ本来の甘みがじんわりと奥からにじみ出てくる。人も、死神も、そうであればいいのに。辛い体験の後に、甘い体験が必ず待ち受けていればいいのに。

 しかしそうはいかないのが世界だ。世界の仕組み自体が善と悪で構成されているわけではないので仕方のないことだが。神は、本当にいい加減で気まぐれだ。しかしこんな世界だからこそ、と私は思う。こんな世界だからこそ、私は一生懸命仕事をして、スルメを食べるのだ。暇があれば、漫画を読むのだ。

 下界の者たちはどうして、金、という物に支配されるのだろうか? ぼんやりと考えてみる。私にはそれが不思議でならない。鈴田竜太郎は、金に目が眩んで会社を立ち上げ、失敗した。稲垣祐一は、借金のために全てを失った。金。金。社会は、人々は、金に支配されている。金があれば、幸せになれると信じている。金がなければ、不幸になると信じている。金があれば、将来の不安は払拭されると信じている。金。金。金。確かに、社会で生きていくには必要なものだ。しかし、金が全てではない。金が幸せを運んでくるわけではない。生きるために金を稼ぐ。それが当たり前のことなのに、いつの間にか、金を稼ぐために金を稼ごうとしている。自らの尻尾を食べようとする蛇のようだ。食い意地が張っている。金というものは、ただの社会のシステムであって、必要であることは確かだが、それほど大事なものでもない、と私は思う。確かに金がなければ、下界では漫画を購入することもスルメイカを食べることもできない……。なるほど。そこで私は下界の者の気持ちを少し理解した。金は、結構大事かもしれない。鈴田竜太郎も稲垣祐一も金に踊らされるわけだ、と妙に納得した。

 街の色が、赤っぽい色で統一されてから程なくして、稲垣祐一は帰ってきた。かん、かん、と響く音を鳴らす。私は階段に目をやった。まず、稲垣祐一のつんつんの白髪頭が見え、顔が見え、そこで「お」という口の形をした稲垣佑一の全体像が見えた。

「リクオさん」

稲垣祐一が私の名前を呼ぶ。言葉には翼が生えているかのような軽い雰囲気が宿っており、親しい友人にかける言葉のようであった。稲垣祐一は口角を上げて笑顔だ。

「お疲れさん」

私は労いの言葉をかけてやる。借金をした者と、借金を回収する者という立場関係にある私たちだが、どうも稲垣祐一は私に好意を抱いているようだ。お人好し、という言葉が頭をよぎる。

「お疲れ様です。今日は、どうしたんですか?」

無警戒すぎる稲垣祐一は、なんだか可哀想だ。どうしたも何も、借金取りが来た目的なんてものは、借金の催促以外考えられないのではないか。借金取りを装った死神である私は、実際は、借金どころか魂の回収に来ているわけだが。

「ちょっと、上げてくれるかな」

「はいはい。ちょっと待ってくださいね」

稲垣祐一は、汚く変色した埃まみれの作業ズボンから自宅の鍵を取り出し、玄関の鍵を開ける。目の前を通ったときに、つんと鼻をつく汗の匂いがした。左手に今日の晩飯になるだろうスーパーのレジ袋が提げられている。白い半透明の袋からうっすらと透けて、揚げ出し豆腐とポテトサラダが見えた。質素だな、と声にはださなかった。

「これ、よかったら」

稲垣祐一は、コーヒーを入れて差し出してくる。

「あっ、ブラックでよかったですか?」

「構わないよ」

私の前に差し出されたコーヒーは、湯気と一緒に安っぽいカフェインの香りを放っている。お人好し、頭に浮かぶ。一口飲む。まずい。散乱した床の上に、もう一度置きなおす。

 稲垣祐一は、私の正面ではなく、斜め横にちょこんと正座する。細く小さい。実際には存在しないが、昔話に登場する妖怪のようだ。そして実際に存在するのは妖怪ではなく死神だ。

「鈴田竜太郎に会ってきたよ」

稲垣祐一が私の言葉の意味を理解するのには、しばらくの時間がかかり、私はそれを待った。数十秒の時間が過ぎた後に、稲垣祐一は、目と口を大きく見開いた。

稲垣祐一は大きな声で「どこで」と言い、「どこに」と言い、「どうやって」と言った。

 見開かれた稲垣祐一の目は、赤く血走っていた。稲垣祐一の怒りが、赤く眼球に宿っているかのようだ。

私はまず「北海道で」と答え、「北海道にいたんだ」と答え、「探し出した方法は秘密だよ」と答えた。

稲垣祐一は血走った目をぎょろぎょろと動かしている。言葉が、怒りと戸惑いに追いついていない様子で、唇と舌は細かく震えているが、声にはなってでてこない。

「もし」と私は問う。「借金の残りを鈴田竜太郎から回収すると言えば、稲垣さんは、どうする?」

「そりゃもちろん」言いかけて、稲垣祐一は、口ごもる。

「もちろん、何?」

「鈴田から、回収してほしいですよ」ぶすっと言った。

「そうか。それは良かった」

私は微笑んだが、稲垣祐一は何かを思案しているような顔をしている。

「どうしたの?」と訊くと、稲垣祐一は「鈴田は、今どうしてましたか?」と質問を返してきたので、私は答えてやる。

「鈴田竜太郎は、北海道で地元の女と結婚してたよ。大きな一軒家に住んで仕事をして、ごくごく普通の暮らしをしてたよ」

私の返答を聞いた稲垣祐一は、ふっと息を吐いた。強張っていた肩の力が抜ける。顔からは怒気が抜け去り、哀れな老人のような気配を漂わせる。稲垣祐一はまだ四十七歳だ。

「稲垣さん、どうしたの?」

稲垣祐一の表情の変化を不思議に思う。なぜ、怒らないのだ。借金を押し付けて逃げた鈴田竜太郎は、今、別の土地で幸せに暮らしているというのに。理不尽だ、と怒るのが人間というものではないのか。稲垣祐一のその表情に、私は納得がいかない。

「どうして」と言って、また稲垣祐一は黙る。

「何?」私が先を続けるように言うと、「どうしてもっと早く鈴田を探してくれなかったんですか?」稲垣祐一は言った。

「どういうこと?」

「もっと早く鈴田を見つけてくれたなら、私が借金を払わなくてもよかったのに」

確かに。それはそうだろう。早くに鈴田竜太郎の居場所がわかり、借金の返済を鈴田竜太郎がするようになれば、稲垣祐一は家族と別れることもなかった。仕事を失うこともなかった。だが、その不満を私に言うのは筋違いではないか。私と稲垣祐一が出会ったのは、つい昨日のことだ。私に、早く見つけてくれれば、などという不満を口にするのはおかしい。

「つまり、稲垣さんは、俺が悪いと思ってるのかな」

不満をおくびにも隠さずに私は言う。

「いえ」そう言って、稲垣祐一の顔は青ざめる。「そんなことは、ないです。一切ないです」

私が借金取りであることを思い出したようで、稲垣祐一は落ち着きのない様子で体を所在無くごそごそと動かした。

「すいません。ほんとすいません」と稲垣祐一が謝ってきたので「まあ、いいよ」と笑って許してやる。私は寛容な死神だ。

「じゃあ、稲垣さんの残りの借金、鈴田竜太郎から取り立てるということで、いいね?」

私は言うが、稲垣祐一は返事をしない。所在無く体をもじもじと動かしながら、罰の悪そうな顔をしている。鈴田から回収してほしいですよ、と、さっきは言っていたが、どうも稲垣祐一は悩んでいるように見えた。困っているようにも見えた。全てが面倒くさそうにも見えた。本心は定かではない。

なぜ、と思う。鈴田から回収してください、と言えばいいのに。今からでも鈴田竜太郎に借金を払ってもらえばいい。

もちろん私は死神で、借金取りとは名ばかりの存在であるから、取り扱うのは魂だ。私の言う借金とは、金ではなく魂のことを指している。私が、借金はチャラだ、と言ったところで、当然チャラにはならない。借金は残る。

鈴田竜太郎の借金は。稲垣祐一の借金は。私がそう言ったところで、借金にはどんな変化もない。変化するのは、魂回収のターゲットだ。稲垣祐一が、鈴田から回収してください、と言えば、迷わず私は鈴田竜太郎の魂を回収するだろう。

「リクオさん」と稲垣祐一が私の名前を呼ぶ。

「何」

「もう遅いんだ」やはり、苦虫を噛んだような表情をしている。

「何が」何が遅いのか、私にはわからない。

「もう遅いんです」

稲垣祐一の膝の上に乗った拳は、強く握りしめられて、細かく震えていた。

「だから、何が?」

私には、意味がわからない。

「私はもう、仕事も、家族も失いました。借金がなくなったからといって」

言葉を中断して、稲垣祐一は、すう、はあ、と三回ほど深呼吸をする。

「今更何も」

すうう、はああ、さっきよりも深い。握った拳が、小刻みに震えている。

「もう、何も、戻ってはこないのです」

「それが」どうした、と私は思う。戻ってこないかもしれないが、今以上失うこともない。

「鈴田には、女房がいる。なら、あいつに借金を払わせるわけにはいかない」

稲垣祐一の目に、力が宿っていた。覚悟を決めている。その右目には覚、左目には悟、と文字が浮かび上がっているように見えた。私のほうを、じっと睨みつけるように目を逸らさない。確固たる意思がその表情に、その目に現れたのだ、と思った。稲垣祐一は、覚悟を決めた。そんな顔をしている。

「なぜ? 借金したのは鈴田竜太郎じゃないか」

悪いのは鈴田竜太郎だろう。私には、稲垣祐一の言っている意味がわからない。

「もう今となっては、そんなこと、どうでもいいんです。リクオさん、借金は私から回収してください。といっても、お金はもう払えません。ないんです」

すう。はあ。深い深呼吸の音が、部屋に響く。カタカタと、稲垣祐一の歯が触れ合う音が聞こえ、そして言った。

「私の命でも何でも、持っていってください」

少し、沈黙が流れた。稲垣祐一は、尚も私を睨みつけるように見つめてくる。その目は、負けるもんか、と言っているようで、勝ち負けは関係ないんだよと教えてやりたくなる。

私はため息を一つ吐くと、心で稲垣祐一の言葉を反芻する。私の命でも何でも、持っていってください。稲垣祐一は言った。

もう一度反芻する。私の命でも何でも。反芻する。私の命でも。反芻する。持っていってください。反芻する。私の命でも。持っていってください。稲垣祐一は、そう言った。

私は首を傾げて、頭を抱え込み、大きく息を吐いた。困ったことになった。

どうも想像していたのとは違う展開だ。困ったことになった、と思う。いや、困ってはいない。というより、困ってはいけない。喜ぶべき展開なのだが、実際には、私は困っている。鈴田竜太郎の現在の状況を耳にした稲垣祐一は、そんな不公平なことはあるか、と怒り出すものだと思っていた。私が「鈴田竜太郎から取り立てようか?」と訊くと「もちろんだ」と答えるものだとばかり思っていた。そうすれば私は、喜んでとばかりに、鈴田竜太郎の魂を回収しようと考えていたのだが。

これでは、任務通りに稲垣祐一の魂の回収をしなければならないではないか。仕方ない。仕方ないのか? 仕方ないのだろう。稲垣祐一はそう望んでいる。原則として、死神法第十三条は使用してはならない。私にとってこの結果は、好都合なことのはずだ。

私の命でも何でも持っていってください。稲垣祐一の言葉を頭の中で繰り返す。元々は、そのつもりだったんだ、と口にださずに呟いた。

静寂の中に、冷蔵庫の可動する音が断続的に響き、ゴキブリの移動するかさこそという音が聞こえた。稲垣祐一と目が合ったまま、お互い目を離さない。私は吸った空気をふうっと音を鳴らして吐き出した。腕を組みなおして、押し黙る。稲垣祐一が、私の次の行動を待っているのがわかる。稲垣祐一が痺れを切らす前に、口を開いた。

「わかったよ稲垣さん」

口を真一文字に結んだ稲垣祐一が、私を睨む。

「でも、次に会うときは覚悟しておいたほうがいい。次、会うときの俺は、今までの俺に比べて、少し怖い」

なるべく感情を表に出さないように、努めて言った。

「わかっています」

がたがたと震える稲垣祐一を後ろに、私は玄関の扉を開いた。

 夕暮れには、もう夜が迫っていた。うっすらと赤かった景色は、徐々に重く濃い色に支配されつつあった。

 稲垣祐一宅を後にした私は、視界の悪くなりつつある街並みをなんともすっきりとしない気持ちで歩く。車の排気音や並んだ店からの雑音、人々の行き交う街の雑踏は、私の心に優しくない。考え事をしたい。静かにしてほしいと思う。無理なことはわかっているのだが。

 私が歩く際に、かつ、かつ、と鳴る乾いた革靴の音は軽快で、スルメを噛むときに耳に響く、にちゃ、にちゃ、という音は小気味よく、それだけが私の心を幾分か落ち着けた。それだけが、今の私にとって唯一の救いになっている。とはいえ、どこか釈然としない気持ちは、未だ胸の奥にくすぶっている。

 ああ、もう。私はひとりごちた。

 稲垣祐一は、借金は自分から回収してくれ、と言った。そして鈴田竜太郎は、借金は稲垣祐一から回収してくれ、と言った。

死神の見解からいうならば、稲垣祐一は自らの魂を回収してくれ、と言ったことになり、鈴田竜太郎は稲垣祐一の魂を回収してくれ、と言ったことになる。

つまり、どちらの意見を聞き入れたとしても、稲垣祐一の魂の回収をすることになる。私の今回の任務も、その通りだ。

 しかも稲垣祐一は、自らの命を持っていけと言った。確固たる意思を目に宿し、私の稲垣びいきの心情も知らずに、はっきりと言い切った。

クソ稲垣祐一め、と思う。私は、なんとも言えない気持ちだ。決していい気分ではない。東の海でゴム人間の海賊がコックを仲間にする直前に、ゴム人間の仲間だった泥棒女が、宝と船を奪って逃げた場面を思い出した。いい気分ではない。裏切り。悲しい、という感情に近い。

 私はどうしたかったのだろう、と考える。私は、鈴田竜太郎の魂を回収したかった。

 報われない稲垣祐一なぞ我知らずという姿勢で、一人幸せを手にしている鈴田竜太郎をぎゃふんと痛い目にあわせてやりたかった。そう、私は稲垣祐一を気に入っており、鈴田竜太郎が気にくわないのだ。痛い目にあわせたい。それは、死神以前の、私という個の存在の考えである。

 そうだ。そういうことなのだ。問題は何か、ということだ。問題は何かというと、私が、死神という仕事を優先するべきか、私自身の考えを優先するべきか、それを悩んでいるということだ。もう今回の任務は、稲垣祐一がどうとか鈴田竜太郎がどうとか、そんな問題ではなく、私自身の問題ということになっている。

さて、どうしようか、どうすべきか。自らの葛藤をひたすらに続けながら私はずっと歩き続け、しかし答えはでないままに夜は明け、朝が訪れた。


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