鈴田竜太郎は、リクオに逃げた理由を話した

鈴田百合子の気配が遠のくのを待って、鈴田竜太郎は口を開いた。

「ええと、何から話していいのやら」

「なぜ逃げたのか」私は、間髪入れずに言った。「理由を聞かせてよ」

「ああ、そうでしたね」お茶を一口すすり、鈴田竜太郎は言った。

 鈴田竜太郎は、閉じた蛇口からポツ、ポツと落ちる水滴のように、ゆっくりとしたリズムで話し始めた。

 今から数年前、鈴田竜太郎は、長年働いた建築関係の会社を辞めて、独立しようとしたらしい。これは、稲垣祐一の言っていたことと同じだ。

「そもそも、何で独立しようと思ったの?」

私が訊くと、鈴田良太郎は、ばつの悪そうな顔をする。

「いやあ、色々ありまして」鈴田竜太郎は語りだす。

「私が働いていた会社のね、得意先の担当者が、上手い話を持ちかけてきたんですよ」

 鈴田さんてさ、独立する気ない? もし鈴田さんが独立してくれて、今より安く仕事を請け負ってくれたら、よそに回してた仕事も全部鈴田さんにお願いするんだけどな。ほら、やっぱ鈴田さん、仕事きっちりしてるし、納期も絶対守ってくれるしさ、うちとしても助かるんだけどな。

 大手企業の担当者は、会う度に独立の話を持ちかけてきた。始めは軽く冗談を言い合いながら聞き流していたが、その内、あまりに熱心な担当者の言葉に鈴田竜太郎の野心も引火され、いつの間にか真面目に話を聞くようになり、受け止め、すっかりその気になった。

 とはいえ、独立するということは、ハイリスクハイリターンのギャンブルだ。鈴田竜太郎は、念入りに考えた。独立する場合の資金、会社を経営していく上での費用。収入。考えに考えた結果、何度考えても、良い結果しか思いつかなかった。

大手の担当者から回される仕事だけでも、その他諸経費を引いたところで、ざっと今の年収の五倍になる。もちろん目をむく忙しさになるだろうが、やりがいはあるだろう。大手企業からの信頼があるというだけで、他の企業からの仕事も舞い込んでくるはずだ。

いける。やれる。鈴田竜太郎はそう踏んだ。

踏み出した一歩は、赤いじゅうたんの上の感触をとらえていた。先に落とし穴があることも知らずに、のんきに、鈴田竜太郎は、栄光へと続く赤いじゅうたんをしっかりと踏み込んだ。

独立するための資金だが、もちろん銀行は貸してくれなかった。不景気。鈴田竜太郎では、銀行は相手にしてくれない。

そこで、大手の担当者が業者を紹介してくれた。銀行に比べれば金利ははるかに高かったが、それでもまだ良心的な金額だった。

親しい友人どころか妻子さえもいない鈴田竜太郎は、保証人になってもらえる人を探すのに苦労した。困っている時に、頭に一人浮かんだ。

学生時代、仲のよかった男。鈴田竜太郎にとって、唯一、友と呼べる男。長い間連絡をとっていなかった稲垣祐一に連絡した。

「あいつはね、良い奴なんですよ。本当に、すごく良い奴なんです」鈴田竜太郎は言う。「騙すつもりなんてなかったんです。本当です。絶対に、成功するはずだったんです」

断りきれない人の良さが、稲垣祐一の長所であり短所でもあった。そこを、鈴田竜太郎は利用した。結果、稲垣祐一は保証人を引き受け、鈴田竜太郎の会社は立ち上がった。

経営は、可もなく不可もなく、といった状況よりも下。可はなく不可はある、といったところだった。

もし鈴田さんが独立してくれて、今より安く仕事を請け負ってくれたら、よそに回してた仕事も全部鈴田さんにお願いするんだけどな。大手企業の担当者はそう言ったが、独立した結果、仕事は少しも回ってこなかった。

中々、すぐにはいかないよ。今までの下請けとの付き合いもあるんだしさ。でも近々、鈴田さんのところに大きな仕事を回すからさ。だから、ね、それまで頑張ってよ。仕事が回ってこないことの不満を伝えると、大手企業の担当者は、そう漏らした。

鈴田竜太郎は頑張っていた。しかし、頑張ってどうにかなるもんじゃなかった。程なくして、会社は潰れ、借金だけが残った。

それでも、鈴田竜太郎は後悔していなかった。と言えば嘘になるが、少なくとも納得はしていた。大手の担当者に持ちかけられた話ではあるが、自分で考え、納得したうえで独立し、進み、失敗した。仕方の無いことだと思う。己の未熟さが招いた結果だ。鈴田竜太郎は、そう思っていた。

以前働いていた会社に再雇用してもらい、給料のほぼ全額を借金返済に当てて、幸せとはいえないが、しかし納得のいく暮らしを送っていた。

仕事終わりに飲むコップ一杯の焼酎の水割りを楽しみに細々と生活を送っていたある日、鈴田竜太郎は、見なくてもいいものを見てしまった。

鈴田竜太郎の職場から、当時住んでいた自宅までの距離は、徒歩で十五分と近い。それでも以前は車で通勤をしていたが、借金が増え車も手放した今となっては、もっぱら徒歩での通勤になった。

そんな仕事帰りのある日、家までの道のりを歩いて帰っていると、大手企業の担当者を目撃した。コンビニの前で立ち話をしている。鈴田竜太郎は、声をかけようとして、思いとどまった。大手企業の担当者と一緒にいたのは、鈴田に独立資金を貸した業者だった。

大手の担当者と金貸し業者は以前からの知り合いのはずだし、一緒にいてもおかしくないのだが、何となく嫌な予感がしたので、鈴田竜太郎は話しかけることなく、二人から見えない位置で二人を観察した。

「これ、今月分の支払いです」

そう言って、大手の担当者は業者に封筒を渡していた。

 はてな? の文字が頭に浮かび、黒い雲がぐんぐん広がっていくような、憂鬱な、不安な気持ちが鈴田竜太郎の心を覆っていった。

「後、百万だな」金貸し業者が言い「はい」大手の担当者が返事をした。

「また、鈴田みたいなの紹介してくれりゃ、後百万ぐらいチャラにしてやってもいいけどな」

金貸し業者が笑う。

「いや、もう目ぼしい奴がいないんですよ。百万円はなんとか自分で返しますので」

大手の担当者も笑った。

「ま、きっちり返してくれりゃ、こっちは何でもいいけどよ」

 一部始終を見た後で、はああ、ため息を吐く。嫌な予感は当たっていた。すうっと、頭から血が下降を始めて、下腹部まで一気に急降下した。血の気が引く、というのがどういうことなのか、鈴田竜太郎はよく理解した。

 俺はだまされたのか。鈴田竜太郎は考える。いや、そんなはずはない。いや、そんなはずはない、はずもない。

だまされた。要するに、俺は、あの大手の担当者の借金を減らすために、業者から金を借らされた。

話を持ちかけたのは金貸し業者だろう。大手の担当者は金貸し業者に借金があって「誰か、金を借りそうな奴を連れて来たら、借金を減らしてやる」とでも言われたに違いない。そこで大手の担当者は、己の借金を減らすために、俺を独立させた。借金返済のために、俺は利用された。つまり、だまされたのだ。

鈴田竜太郎は、青ざめた顔のまま自宅に帰り、家に残っていた現金をすべて持って、着の身着のまま、自宅を後にした。

北海道。北海道に当てがあったわけではなく、死ぬなら、やはり寒いところがいいだろうというイメージがあり、鈴田は北海道を訪れた。

そこまで鈴田竜太郎の話を黙って聞いていた私は「どうして」と疑問を口にする。

「どうして、だました奴らに復讐しようとは考えなかったの?」

だまされる奴が悪い。そういう事を言う輩も世の中には存在するが、私が思うに、だます奴が圧倒的に悪いと思う。だます奴がだまそうとしなければ、だまされる奴は存在しなくなる。だまさなければいいのだ。

「復讐、ですか?」

鈴田竜太郎は、復讐という言葉を生まれて初めて聞いたかのような表情をする。

「リクオさんにとって、復讐というのは、どういうものですか?」

「ひどい事をした奴に、仕返しすること」

「具体的にどうすれば?」

「そんなこと知らないよ」

ふう、とため息を吐き、鈴田竜太郎は肩を落とす。

「そうですね。私もわからないんですよ。復讐、できることなら、したかったですよ。でも、どうすればいいのかわからない。私は、復讐する術を知らないし、度胸も、ない。逃げたほうが楽だったんですよ。復讐するより、死ぬほうが楽だったんです」

 しかしそのせいで、鈴田竜太郎が逃げたせいで、稲垣祐一は借金を肩代わりさせられる羽目になってしまったわけだろう。しかも、お前は死んでいないではないか。思ったが、言わないでおいた。

 北海道を訪れた鈴田竜太郎は死に場所を探した。観光名所は他人の迷惑になるから避け、なるべく人気のない所を探した。

 借金できりきり舞いだった鈴田竜太郎だが、いざというときのために、ある程度まとまった現金を隠し持っていた。約百万円。当面の生活には少し余裕がある。死に場所を探す時間と、金があった鈴田竜太郎は、ホテルを泊まり歩きながら、死に場所を探した。とにかく歩き回った。電車に揺られ、バスに揺られ、あてもなく死に場所を探す旅を続けた。しかし、死に場所は中々決まらない。

「死ぬのって、勇気がいるんですよね。ものすごく」鈴田竜太郎は言う。

死に場所が決まらないのではなく、死ぬ覚悟が決まらない。

 そのうち、持っていた現金は底をつき、仕方なく、鈴田竜太郎は日雇いのアルバイトを始めた。簡易式のホテルに寝泊りして、アルバイトをする。結局、死に場所を探す余裕さえなくなり、鈴田竜太郎は、毎日を死んだように生きていた。

 月日は、三年ほど流れる。そして、そんな生活の中で出会ったのが、今の妻である百合子だった。

 その日、アルバイトが休みだった鈴田竜太郎は、街を散策していた。死に場所を探していた。といっても、本当に探しているのかどうか、自分自身にもわからない。ただ、死ななければならない、という想いが胸の奥に強くあり、死に場所を探さなくてはならない、という考えが常に頭に浮かんでいたため、鈴田竜太郎は、とにかく、死に場所を探していた。

ただふらふらと街を歩く鈴田竜太郎の手が、誰かにがしっと掴まれた。鈴田竜太郎は、びくりと体をうねらせる。掴んだ相手を見る。

借金取りかと思ったが、違った。知り合いかとも思ったが、違った。見たことの無い女だった。当たり前だ。元々鈴田竜太郎に知人は少ない上に、ここは北海道だ。知り合いに会う確率はおそろしく低い。そしてその手を掴んだ女が、百合子だった。

手を掴んだままの百合子が、鈴田竜太郎の目を真っ直ぐに覗き込んでくる。

「あなた、死のうとしてるでしょ?」

初対面で何を言い出すんだと、驚き、慌てた。

 鈴田竜太郎は、死に場所を探してはいるが、もちろん公表しているわけではない。私は死に場所を探していますと胸にプラカードをぶら下げて歩いてはいない。驚き、慌てて体をのけ反らせた鈴田竜太郎は、何も答える事ができなかった。

「死ぬつもりなら、その前に人助けをしてから死んでください」

百合子は言った。

その言葉が、鈴田竜太郎の奥深くにすうっとなじんでいった。人助け。いい言葉だ。どうせ死ぬのなら、人助けをしてからでも遅くはないかもしれない。死に場所を探しながらも死ぬ覚悟が決まらない鈴田竜太郎にとって、百合子の言葉は、救いの言葉だった。だが。しかし、と思う。俺のような借金から逃げてきた人間に、人助けなどできるのだろうか、と。

「人助けといっても、俺なんかに誰かを助けることなどできるのでしょうか?」

問うた。できることなら、誰かを助けてみよう。鈴田竜太郎は思う。俺にできるのならば。

「大丈夫。あなたなら、私を救えます」百合子は笑った。

百合子は、鈴田竜太郎を自分の自宅へと招きいれた。今、現在、鈴田竜太郎の住んでいる大きな一軒家だ。

「ここで、私と一緒に暮らしてくれますか?」百合子は言う。

「それは構いませんが、俺はここで具体的に何をすればいいのでしょう?」

「何も」

「は?」

「何もしなくていいんです。ただ、一緒に暮らしてくれれば、それで」

鈴田は怪訝そうな顔をした。

「それが、人助けといえるのでしょうか?」

「人助けですよ。少なくとも、私は助かります」

この世の汚れを一切知らないような、純粋な笑顔を百合子は鈴田竜太郎にむけた。

 そんなことでいいのか。なんだかきな臭い雰囲気だ、と鈴田竜太郎は疑問に思う。

「それは、結婚、いや、夫婦になる、ということですか?」

鈴田竜太郎は、自分が異性の興味を引かない男であることを自覚していた。結婚詐欺、という言葉が頭に浮かぶ。また、だまされるのか。鈴田竜太郎は百合子を警戒する。

「いいえ。結婚なんてしなくていいんです。結婚前提だとか、付き合うとか、体の関係を求めてるわけでもないの。ただ、一緒に住んで、共に生活してくれれば、それで。他に何も」

百合子はあくまで穏やかで、言葉の裏もまったくないような、汚れなき笑顔をみせる。

 俺をだまして、得することなどあるはずもない、と、鈴田竜太郎は思った。

しかし、それではむしろ、俺が助けてもらうような形になるのでは。そう思いながらも鈴田竜太郎は承諾した。

「こんな俺でよければ、よろしくお願いします」深々と頭を下げた。

「こちらこそ」言いながら、百合子も深いお辞儀をする。

 それから、妙な共同生活は始まった。

 百合子はどうやら働いてはいないようで、ずっと家にいた。百合子が二人分の朝昼晩の飯を作り、鈴田竜太郎は一緒になってそれを食べた。毎日の洗濯を、掃除を、百合子はこなした。

 何か手伝いましょうか? 鈴田竜太郎は言ったが、構いません、と、百合子は家事の一切を鈴田竜太郎にさせようとしなかった。鈴田竜太郎が手伝ったことといえば、スーパーに食品や日用雑貨の買出しに出掛ける際の車の運転と、重い買い物袋を持ってやることぐらいだった。

 これでは、鈴田竜太郎が存在している意味がないのではないかと思えてくる。実際に声に出して言った。

「俺がここに居る意味は、あるのだろうか?」

「ありますよ」百合子は平然と言い放つ。「あなたがここにいてくれるだけ、私はこんなに元気でいられるのです」

「なら、生活費はどうしているんだ?」

「祖母が残してくれた財産があります。それと、前の旦那からもらった慰謝料が少し。決して多いわけではないですが、当分二人が暮らすのに苦労することはありません」

「でもそれは、いつかなくなるんじゃないのか?」と問うと、「そうですね」と、百合子は力なく笑った。

 鈴田は大きく喜び、少し悲しんだ。喜んだ理由は、己のすべきことが見つかったから。悲しんだ理由は、百合子の過去にある、赤の他人では想像しにくい悲しみの入り口を覗いてしまったから。ともあれ、鈴田竜太郎に、すべきことが見つかった。

 鈴田竜太郎は、近所にある小さな土建会社に就職して働くことになった。元々、独立をするぐらいの腕はあった。手に職は持っている。鈴田竜太郎は小さな土建会社で血気盛んに働いた。

 百合子の作る朝飯を食べ、弁当を持って仕事に行く。帰って百合子の作る晩飯を食べ、寝る。

 ごくごく一般的な普通の生活をしていると、鈴田竜太郎の中に、生きる気力が湧いてきた。なぜ、死ぬことを考えていたのか、馬鹿らしく思えた。人生には悲しみもあるが、希望と喜びもある。なぜ自らそれらを破棄しようとしていたのか。馬鹿らしい。なんと馬鹿らしい思い違いをしていたのだろう。鈴田竜太郎は、死ぬことを考えることをやめ、百合子と共に生きることを考えるようになった。

 百合子には、俺が必要なのだ。俺が百合子を必要とするように。詳しい過去は知らないが、今現在、百合子は、俺がいなければ生きていけないのだろう。百合子がいなければ生きていけない俺のように。鈴田竜太郎は決心した。

「厚かましい話で申し訳ないが」鈴田竜太郎は、勇気と希望をもって言う。

「もちろん、お互い、何も知らないんだが」言葉に詰まるが、尚も踏み込む。鈴田竜太郎の胸には、生きる希望と勇気がある。

「俺と、結婚してくれないか」

「はい」と言った百合子の顔は、満開に開花した桜の木のように、うっすらとピンク色をした可憐な輝きを放っていた。

 そして、二人に、幸せが始まった。

 なぜ逃げたかという経緯を、一語一句を大事に話していた鈴田竜太郎は、そこで話を中断して私の顔を覗きこんでくる。

「リクオさん」

「だに」私は、何? と言いたかったのだが、濁ってしまった。

「どうして泣いてるんですか?」

私は、泣いていた。うかつにも鈴田竜太郎の話に同情し、鈴田百合子に感動し、胸の奥深くに、音もなく発生した感情の嵐に、私の涙腺はつんつんとつつかれ、込みあがってきた涙がぼとぼとと音を立てないまでも、湧き出る泉のように止めどなくこぼれ落ちた。

「うるさい」と、不機嫌そうに言い放つ。

「すいません」鈴田竜太郎は頭を引っ込めた。

鈴田竜太郎のクソ良い話に感動した私は、それから気のすむまでおいおいと泣き続け、鼻をかむ。一息つくと、私は死神のくせに心を鬼にして、鈴田竜太郎の目の奥をじろりと睨む。

「鈴田さん」

「はい」

「どうして稲垣祐一さんのことを考えなかったの?」

私の質問に、鈴田竜太郎は答えようとせずに、視線を下にそらし、黙り込む。

「あなたは、自分のことばかりを喋ってたようだけど、稲垣祐一のことを考えたことはなかったの?」

なおも、私は言う。

「鈴田さん、あなたが逃げたら、稲垣祐一が苦しむとは思わなかったの?」

言う。

「自分に幸福が訪れたときに、稲垣祐一がどんな状況になっているのか、想像しなかったの?」

なおも。

「稲垣祐一は親友だったんじゃないの?」

私は言う。

「稲垣祐一に迷惑をかけて、自分だけ幸せになっていいの?」

言う。

「鈴田竜太郎は、稲垣祐一を不幸にしておいて、自分だけ幸せになる資格があると思ってるの?」

私は、稲垣祐一の苦しみや悲しみ、虚無感をできるだけ想像しながら話した。稲垣佑一の立場になり、稲垣佑一の想いを代弁してやるつもりで。

 ざざざっと音をならして、鈴田竜太郎は座布団から後ずさり、畳に手をつき額をこすりつけた。

「すいませんでした」押し殺した、苦い声で鈴田竜太郎は言った。

「私がしたことは、許されることではない。そんなことはわかっています」

「わかってるんなら、どうして」逃げたんだ。どうして稲垣祐一を助けてやらなかったんだ。そう言いたかったが、私の声は途中で遮られた。

「わかってます。わかってますが、でも、どうか、見逃していただけませんでしょうか?」

鈴田竜太郎は必死の形相で、私を睨みつけてくる。

「わかってないよ。鈴田さん、あなたは何もわかってない」

私は鈴田竜太郎の視線を跳ね返す。

 鈴田竜太郎は下をむく。畳についた手はいつの間にか力強い握り拳になっていた。

「私には、女房がいるんです」

雑巾を強く絞ったときに落ちる水滴のような、声は小さいながらも心から搾り出された必死の声だった。

額を強く畳に押しつける鈴田竜太郎の姿を、私は座布団にあぐらをかいたまま見下ろす。

鈴田竜太郎には女房がいる。その言葉の意味が私の体にしっかりと浸透するのを待ってから、鈴田竜太郎は続きを口にした。

「私は、私自身は、どうなってもかまわないのです。しかし、でも、私がどうにかなってしまうと、女房が、百合子が、困ってしまうんです」

鈴田竜太郎は、必死に言う。

「どうか」

強く絞った雑巾のように。

「どうか」

必死に。

「お願いします」

言う。

「お願いします」

私は、鈴田竜太郎の必死の姿を、なるべく記憶に留めないように努めた。見るともなくぼんやりと鈴田竜太郎を見ながら、肩の上下する動作で呼吸の回数を数えた。鈴田竜太郎が十三回目の呼吸をした後に、言う。

「いたんだ」

鈴田竜太郎は、私の言葉に反応して、畳に押しつけていた額を上げた。目が合った。鈴田竜太郎の口が「え」の形をしている。おでこに、赤く畳の後がついていた。

「稲垣祐一にも、妻と、娘が、いたんだ」

無感情に発音した私の言葉に、鈴田竜太郎は黙り込み、再び頭を垂れた。

「わかってない。鈴田さん、あなたは、何もわかってないんだよ」

土下座している鈴田竜太郎の後頭部にそう言い放ち、立ち上がる。鈴田竜太郎が何か言い返してくるのを待ったが、頭を畳につけたまま動かない。表情を確認することもできない。

「鈴田さん、あなたは自分のことしか考えてない。稲垣祐一のことも、その家族のことも。あなたの行動のおかげで、稲垣佑一とその家族がどんな影響を受けたのか、あなたはまったく何もわかっていない」

鈴田竜太郎の反応を待つが、鈴田竜太郎は土下座したままで動かない。反応がないので、私は鈴田竜太郎宅を後にした。

 玄関で靴を履いていると、鈴田竜太郎の妻である百合子に見送られた。

「またいらしてくださいね」

百合子の声は純粋に透き通っていて、私は死神のくせに少し心が痛む。

「はい。また」と答え、玄関の引き戸を開けた。

私が、もういらさないほうが良いことを、妻の百合子は知らないのだ。

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