歯ブラシくださぁい
秋村ふみ
歯ブラシくださぁい
あるはずの無いものと、起こるはずのない出来事。
あの夜、僕が体験したのは、まさにそれだった。
「おい星野!みろよ、このネクタイピン。昨日俺の彼女がプレゼントしてくれたんだぜ」
そういって松尾さんは、僕にネクタイピンを見せびらかしてきた。
「そうなんですか、似合ってますよ」
僕はありきたりな感想を述べた。既に深夜〇時をまわり、睡魔が襲ってきて正直それどころではなかった。
ホテルに勤め始めて僕はまだ一ヶ月。収容可能人数百五十人程度の小さいホテルで、客足はそれほどでもない。徐々にフロント業務に慣れつつあるが、宿直は未だやったことはなかった。今日はホテル勤務二十年のベテランである松尾さんと一緒に宿直だ。二人でフロント裏にある事務室で各々業務をこなす。今の時間帯、従業員は僕ら二人以外いない。二人で交代でデスクの上にうつ伏せで仮眠をとりながら、夜を乗り切る。できれば電話が鳴らないことを祈っている。鳴らないまま、無事業務が終了することを。
しかし深夜三時。二人でウトウトしていると突然電話が鳴り出した。夜中は滅多に客室から電話は来ないと松尾さんが言っていたので、僕は油断していた。目をこすり、受話器をとった。
「はい、フロントです」
『…歯ブラシくださぁい…』
女性のかすれた声。そのひとことだけ告げると、電話は切れた。通話中、電話の液晶には『304』と表示されていた。
「松尾さん、三○四号室から歯ブラシが欲しいと電話がありましたので、ちょっと届けてきますね」
「は?なに言ってんだよ。このホテルに三○四号室なんざ無えよ。縁起を担いでんのか、一の位に四がつく部屋はこのホテルには無ぇんだよ。寝ぼけて部屋番号見間違えたんじゃねえのか?」
「え?でも今たしかに…」
事務所にある電話は、外線ならともかく内線は着信履歴に残らない。だからどの部屋から電話が来たのか、思い出す他に確認のしようがないのだ。しかし確かにさっき、電話の液晶は『304』と表示されていたのを僕は見た。
「だいたいよぉ、最近はトラブルを避けて、歯ブラシとかカミソリを従業員が客室まで直接届けることを遠慮しているホテル多いんだよな。ウチのホテルも見習うべきなんだが、ついつい親切心で届けちまう。しょうがねえな。日中ならともかく、こんな深夜に客室ひとつひとつに声かけて確認するわけにもいかねえし…催促の電話を待つか」
松尾さんの言うとおり、二人で催促の電話を待つことにした。さっきまでは電話が鳴らないことを祈ってばかりいたのに、今度は電話が鳴るのを待っている。皮肉なことだ。
しかし、三十分経っても電話は鳴らない。松尾先輩は待ちきれず、机の上にうつ伏せになっていびきをかいていた。僕のまぶたも再び重くなってきた。
それからいつのまにか三十分ほど、二人とも眠ってしまっていたらしい。電話が鳴る音で僕と松尾さんは目を覚ました。電話の液晶をみると、電話は三○四号室からかかってきている。やはりさっきのは見間違えではなかった。だとすると電話に部屋番号が間違って登録されているのかもしれない。
今度は松尾さんが受話器をとった。
「はいフロントです。…はい、はい、はい…」
客と話終えると松尾さんは受話器を置いた。
「…ちょっと行ってくる…」
「松尾さん?行くって、どこにですか?」
「三○四号室だ…」
「え?いや、だって三○四号室はこのホテルに無いって…」
松尾さんの様子がおかしい。僕の声に耳を傾けることなく、松尾さんは歯ブラシを持って、ふらふらとした足取りで事務室を出て行った。それが、僕が見た松尾さんの最後の姿だった。
明け方、行ったきり事務室に帰って来ない松尾さんを探しに僕は館内をまわった。しかしどこにも先輩の姿はなかった。見つけることができたのは、先輩が僕に見せびらかしていたネクタイピンだけ。三階の三○三号室と三○五号室の間の床に、それは落ちていた。
ホテルのほかの従業員は、誰も僕の言ったことを信じてはくれなかった。三○四号室なんて存在しないし、僕が寝ぼけていただけだろうと、誰もがそう言った。事務室の電話にも、三○四号室から電話がかかってきたという証拠は残っていない。内線からの着信履歴は残らないからだ。しかしかかってきたのだ。あのとき確かに、液晶に表示されていたのは『304』だった。
歯ブラシくださぁい 秋村ふみ @shimotsuki-shusuke
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