三 本物
それまでも、まるで夢の中の出来事であるかのように非現実的な感覚をどこか抱いていたのであるが、涙に滲む彼女の瞳にさらなる不思議な現象が映る。
赤マントの後に伸びる長い影がむくりと膨れ上がり、徐々に人の形になっていったかと思うと、もう一人〝赤マント〟が現れたのである。
一人目の赤マント――軍用マントの男よりももっと鮮やかな、夕陽に染まったカーキ色ではなく、真に赤い膝丈もある長いマントを身に纏った人物だ。
また、違うのは色合いばかりでなく、二人目の〝赤マント〟は制帽ではなく、マントに付随するフードを頭からすっぽりかぶっている。
「……ん? なんだ?」
驚きに目を丸くする花子の表情を見て、赤マント…否、軍用マントの男は振り上げた手もそのままに訝しげな様子で小首を傾げる。
「やあ、帝国陸軍少尉・
すると、真に赤いマントの男が軍用マントの男の背後で不意に口を開いた。
「な、なんだ! 貴様は!?」
今度は軍用マントの男が驚く番だった。
ひどく
「大陸であれだけやらかしてもまだ飽き足らず、本土へ送り返されてもなおこんな遊びをしているとは……少々
対して真に赤い〝赤マント〟の男は、妙に落ち着いた声で再び軍用マントの男に語りかける。
「き、貴様ぁっ! 帝国軍人に対してふざけたことをっ!」
その態度に逆上した軍用マントの男は、標的を花子からもう一人の赤マントへと替えると、上げたままになっていた銃剣を握る手を勢いよく振り下ろして斬りかかる。
「なっ……!」
だが、標的は真に赤いマントを夕闇に翻すとその身をくるりと回し、なんなく凶刃の下をすり抜けてしまう。
「おやおや、急に斬りかかるとは危ないじゃないか、霧崎捨久君」
「くっ…おのれがっ!」
一撃を避けられた軍用マントの男――霧崎捨久と呼ばれる彼の者は銃剣を順手に握り直し、今度は左手も添えて二人目の赤マントへと突進する。
「…っ! ば、バカな……!」
しかし、今回も…いや、今回はもっと華麗に、垂直方向へジャンプするとくるりと空中で一回転し、とても人間業とは思えない、軽業師が如き身のこなしで突っ込んで来る刃を見事にやり過ごす。
「クソぉっ! どこまでもふざけた真似をしおってぇっ!」
目標を見失い、勢いのままつんのめってなんとか止まった霧崎捨久は、直後、振り返るとますます逆上し、血走った眼でむやみやたらに真の赤マントへと斬りかかってゆく。
行き止まりの壁に貼りついたまま、茫然と成り行きを見つめる花子の存在など最早眼中にない様子である。
……が、そこまで必死になって繰り出す攻撃も、一つとしてもう一人の赤マントに当たることはない。
くるくると
「…ハァ……ハァ……な、なんなんだ、貴様は!?」
「危なっかしくて見ていられないねえ。君にその玩具はまだ早すぎるようだ!」
「うっ…!」
一連の攻撃が止んだ後、予想外の展開に血走った目をまん丸く見開き、息の上がった霧崎捨久にそんな戯言を言うと、もう一人は赤マントの下に隠れていた黒いスラックスの脚を大きく振り上げ、霧崎の手にしていた銃剣を夕焼けの空高く蹴り飛ばしてしまう。
「
そして、わずかな間を置き、キラキラと夕陽に輝きながら落ちてきた銃剣をその手に掴むと一閃、驚いた顔の霧崎の喉笛を横一文字に切り裂いた。
「くはっ…! ……は……はひへ……」
瞬間、真の赤マントよりもなお鮮やかな赤い色をした血飛沫が、夕陽に染まる町の路地裏に
喉を切り裂かれ、一瞬にして大量の血液を失った霧崎捨久は、これでもかというくらいに大きく眼を見開き、ぴゅうぴゅうと声にならない声を出したのを最後に、肉体を支える力を完全に失ってその場へと崩れ落ちた。
「この霧崎捨久という男はね、派遣されていた満州で歪んだ快楽のために民間人の婦女を幾人も惨殺し、持て余した軍に追い出されて本土の
あまりに非現実的なその光景に、ポカンとした顔で硬直している花子へ向けて、二人目の赤マントはひと一人殺めた後とは思えないくらい落ち着き払った声で親切にも説明してくれる。
「……あ、あの……あなたが、
一方の花子も、今しがた殺人を犯した相手に恐れ戦くこともなく、この場には相応しくない質問を思わず口にする。
霧崎の着ていたのが実は赤いマントでなかったことや、この真に赤いマントを羽織った人物の登場とその言動などの事象から、そう思い直して確かめずにはいられなくなったのだ。
さすが探偵小説家の親戚というところだが、この状況がまったくもって現実味のない、本当に夢の中の出来事であるかのようだったことの方が要因としては大きいであろう。
「ああ、近頃はそんな噂が巷で流行っているようだね。ま、自分では別にそう名乗ったことないんだけど、僕ももう何人と
花子のその問いに、本当の〝赤マント〟はやはり場違いに穏やかな口調で、脇に転がる霧崎の遺体を横目で見やりながら、どこか他人事のようにそう答えた。
「それじゃあ、あなたは…怪人〝赤マント〟は正義の味方だったんですね! それとも探偵さん? あ、そうだ! 助けていただいてありがとうございます!」
猟奇殺人鬼だと云われる噂の怪人が本当は正義の人であったと知り、なんだかうれしくなった花子は目を輝かせると、自身も命の危機から救われたことを思い出して今更ながらに深々と頭を下げる。
「なあに、高等遊民のただの道楽だよ。僕は魔術師でね…あ、手品師じゃなく、呪術・魔術といったオカルトの類の方ね。このマントもその儀式の時に着けるものだ。先程、この霧崎を
すると、赤マントは特に謙遜するでも照れるのでもなく、真実、礼を言われる筋合いはないとでもいうように、なんだかよくわからない、小難しい用語を並べ立てて花子に答えた。
「だが、せっかくそんな魔術を極めても披露の場がない。頭の悪い軍の連中の犬になって使われるのも嫌だし、罪のない人間を相手にしては、この霧崎みたいな下等生物と同じになってしまうからね。だから暇潰しに、こうして世の理から逸脱した危険人物を狩って遊んでいるのさ」
「遊び……?」
一瞬、善良な正義の人だと思い込んだ花子だったが、その言葉を聞いている内に、なんだかこの人もヤバイことを言っているように感じ始める。
「そう。だから道楽だと言ったろう? それじゃ、お楽しみも終わったんで、僕はこれで失敬するよ。ああ、女子の一人歩き、日も暮れるんで気をつけて…と一応、言っておこう。では、ごきげんよう……」
そこはかとない恐怖を再び感じつつ、唖然と花子が佇む中、赤マントはふざけて慇懃にお辞儀をしながら最後にそう告げると、まるで夕闇に溶け込むかの如く徐々にその存在を曖昧にして霧散するように消え去る。
「………………あ」
やはり夢か、あるいは
「…ひっ……きゃ、キャアァァァァァァァーっ…!」
今更ながらに、目の前で人が一人殺されたことを思い出した花子の絹を切り裂くような叫び声が、夕闇迫る静かな裏通りの町に木霊した。
(噂の赤マント 了)
噂の赤マント 平中なごん @HiranakaNagon
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