辞書
中学時代、辞書の愛読者だった。けれど歪んだ愛だった。
三年次の国語担任Gは学内で三番目に権力ある人だった。暴力は振るわないまでも、毎日のように誰かを恫喝していた。思えば厳格で優秀な教師であったが、当時の生徒たちの多くから恐れられていた。
白文帳、という長野県特有の文化とも言うべき代物がある。A5サイズ、18×13の小さな升が羅列されたノートだ。これに一日一頁、漢字を書き取って提出することとなっていた。
怠れば、Gから何らかの罰則を課せられるのだった。授業中の質問にすべて答えなければならないとか、試験結果から何割か減点されるとか、そういった類の罰だった。
ぼくは、この制度が嫌いだった。態々書かずとも、試験範囲の漢字をおよそ理解していたし、実際、ぼくの国語の成績は、減点さえなければクラスで三位にランクインするほど優良だった。
ある人間にとって、努力を美徳とするのは好いことかも知れないが、一方で、結果に見合った報酬が得られないという不満・不条理の感を抱かせるようなシステムには何らかの欠陥があり、勉学の本質的理解を阻害するものでさえあると憤っていた。憤っていたから、意地でも出さなかった。
制度そのものに憤っていた筈が、段々、その制度を生み出したG本人に憤るようになってしまい、思えば、これは若さ故の過ちだった。しかし、反骨精神に燃える中学生特有の灯火は、一度点いてしまったが最後、消すには膨大な年月を要するのだった。
国語担任がGに変わって以後、卒業するまで、ぼくは一日とて出さなかった。白文帳を開きさえしなかった。
Gの授業でぼくは、既に家で復習してあった教科書の内容を、再び見返すのが馬鹿らしくなり、板書のみ写し、Gの話している間はずっと辞書を読んでいた。
辞書を読むことが好きだった。辞書の、誤読を回避せんばかり、恐る恐る、慎重に綴られた文体が好きだったし、そもそも語彙を蒐集することが好きだった。
教科書や漢字ドリルやGの話とは違って、ぼくの未だ知らない語彙に溢れていた。それはローソク少年にとっての冒険であった。未開の地を探索するような高揚感が胸のうちから脈々と、源泉のごとく溢れ出ていた。
「(ローソク)君は勉強熱心ですね」とGが言った。クラス全員の視線が矢と化し、ぼくの皮膚や制服に突き刺さっていた。
「あれだけ辞書を読んでいるから、白文帳を出さなくてもテストで点が取れるんですね。点が取れるからと言って、減点は免れませんよ。私は飽くまで公平につけますから。折角の好成績なのにペナルティとは、勿体ないですよね、皆さん」
ぼくは辞書を閉じなかった。赤面しているのが鏡を見ずとも分かった。強情だった。間違ったことはなにもしていないと思った。
人間それぞれに能力が異なり、当然、努力すべき内容も異なる筈なのに、右倣えに同じことをやらせて、外れ者は減点の上に晒し首、それを公平と呼ぶのは、言葉に対する冒涜だ。本気でそう思っていた。ぼくは熱暴走に侵されていた。
今となっては羨ましい。
了
蝋の溶けて生きます。 ローソク @nri_bir
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