庚申待ちの夜

たびー

庚申待ちの夜 全編

 仲秋の月見はつい先日終わったばかり。長月の末近くの江戸、両国橋近くの商家。薬種業の鶴亀天寿堂では今宵、六十日に一度の庚申こうしん待ちが催される。

 近頃は日の入りがめっきりと早くなり、夕風には冷たいものがときおり混じる。着るものも、単衣ひとえからあわせになった。

 夕刻の座敷に通されてきた人物を見て、乾物屋の紀一郎は眉をしかめた。高麗物こまものを商う紅屋べにやの長子、伊織いおりだったからだ。

「遅くなりました」

 今夜の持ち回りの家の主人、武田の肩を借りて、ゆっくりと座る紅屋の体は細い。動かぬと聞く左の膝をおってからの動きは、むしろ滑らかだった。開いた襖の前に手をつき頭を下げて一礼すると、柔和な笑みを浮かべて室内を見わたした。

 先ほどまでの談笑はどこへやら。同席の者たちが、互いに目配せをして居住まいをただした。

 つかの間、座敷は静まり返り、廊下に吊るされた虫籠から鈴虫のさやかな音が聞こえた。

「申し訳ございません。店主の吉右衛門は初子はつごのお産に気が気ではなく、今宵の庚申待ちにはわたくしが遣わされました」

「吉右衛門さまは、奥さま思いですから。あの方らしい」

 そう言って伊織と笑みをかわすのは、座敷へ入るまで肩を貸していた伊織とは幼馴染でもある、天寿堂の若旦那・武田義嗣(たけだよしつぐ)だ。

「吉右衛門のぶんまで、今宵は寝ずの番をいたします。よろしくお願い申し上げます」

 白く長い指をつき、伊織は再び頭を下げた。玲瓏とした声は細面の整った顔をさらに引き立て、行灯の明かりでは、浮世離れした姿にみせる。月代を剃り、髷を結ってはいるが御高祖頭巾おこぞずきんなどを被ったなら、夜目には美しいおなごと見間違うかもしれない。

 おなごどもが、歌舞伎役者の女形のようだと噂するのも、無理からぬことだろう。

「ささ、こちらへ」

 義嗣がまた手を貸し伊織を立たせて、座敷の下座へと案内した。

 一通りの動作を見ていた紀一郎は、鼻から息を吐いた。相変わらず男か女か分からぬ、うすら気持ちの悪いやつだと腹の中で思った。

 伊織は長男ながら、家督を継いだのは手代をしていた妹婿の吉右衛門だ。伊織は、紀一郎より二つ三つ年下、とうに二十歳を過ぎてはいる。けれど嫁も貰わず、だからといって他家へ入り婿するでなし。生家である紅屋の離れで暮らし、たまに店へ顔を出しては手伝いなどしている。

 生家から出ない訳を知らぬものはいない。子どもの頃に川でおぼれて、左の手足があまり動かないのだ。

 不具者め。年寄りのように足袋なんぞ履きおって。それに長羽織りも着ておる。粋を気取っているつもりか。しかし、それは紀一郎の目から見ても、悔しいほど似合っているのだ。

 紀一郎は眉に皺が寄らないように気を付けた。ただでさえ、目に検があると実の親から戒められる。新妻のみつなどは、紀一郎と目を合わせるのすら嫌うようだ。

「これは、紀一郎さん。ご無沙汰しておりました」

 隣の紀一郎に気づいて伊織が会釈すると、かすかに白檀の香りがした。匂い袋でも袖に仕込んでいるのかもしれない。なよなよしい、と思いながら紀一郎も会釈を返した。

「今宵は珍しき顔ぶれですね」

 義嗣は伊織に久しぶりに会えたらしく、下駄のような四角い顔に笑みを絶やさない。だいの男が目上の者たちも同席する場で、歯を見せて笑うものではないだろうと紀一郎は義嗣にも、いらりとした。

「今宵の庚申講への御出席、八名がそろいましな。さあ、始めるといたしましょう」

 庚申講の取りまとめ役である、茶問屋の井上が、しわがれた声で皆に語りかけた。

 廊下に面した八畳間の床の間には、青面金剛の掛け軸がかけられ、その前には酒や蕎麦などの料理が並ぶ。

 伊織を挟んで、右に紀一郎・左に義嗣が座った。

 六十日にいちど巡ってくる庚申かのえさるの夜は、寝ずに過ごす。

 庚申の夜に眠ったひとの体から三尸さんしの虫が出て、天帝のところへ犯した悪行を伝えに行くという。罪を天帝に聞かれては、寿命が縮まる。

 だから、庚申の夜は寝ずに過ごすのだ。紀一郎や伊織たちのように、おなじ両国橋界隈で商いをする者たち同士で講を組み、互いの屋敷を順にめぐっていく。


 馬鹿らしい、と紀一郎は般若心経を唱えながら思った。

 黒船が来るこのご時世に、体に三尸の虫がいるなどと信じるほうが阿呆なのだ。

 黒船の連中は、見たことがないほど大きな船で、遠く海を渡ったきたという。間もなく、神奈川宿の横浜村に異人たちが居を構えるとか。

 泰平の世は終わりの兆しを見せている。ここにきて、騒動も増えてきた。それでも今は嵐の前の静けさかも知れない。

 あと十年もしたら、今宵のような集まりも、迷信だと廃れてしまうのではないか。

 ただ、今夜ばかりは巡りが悪い……紀一郎は、先だっての出来事を思い返した。

 返すがえす、へまをしてしまったものだと思う。反面、あの時のことを思い出すだけで、体の中がびりびりと痺れ、頬がゆるんで歪まぬようにするのに苦労する。

 今でも手の感触をまざまざと思い出せる。できれば、なん度でも味わいたい。

 小さな生き物に薪を振り下ろすこととは、比べようもないものだった。

 紀一郎の胸の高鳴りは誰も気づかぬだろう。それでも唇の片方は持ち上がり、奇妙な笑みを浮かべることとなった。

 ちらりと、隣の伊織を盗み見れば、手を合わせ一心に経を唱えている。

 伊織が来るとは思っていなかった。それが癪に障る。

 聞いたことがあるのだ。今は講から抜けた、料亭を営んでいた淡路屋の跡取り息子のことだ。前に伊織が顔を出した庚申待ちからわずかして、亡くなったのだ。

 何かしらの病だったというわけでもなく。まだ三十を越したばかりという働き盛りに、いきなりのことだ。

 跡取りの急逝が、きっかけとなったのか。淡路屋は坂を転げ落ちるように左前になり、店をたたんでしまった。

 後から噂になったが、淡路屋の息子は女中に手を出しては、お払い箱にしていたと。中には里へも戻らず行方知らずになった娘もいるという。

 しかも一人二人ではなく、何人も。

 奉行所からはひそかに目をつけられていたらしいが、息子の死でそれきりになったとのことだ。

 伊織が来た庚申講のあとに、亡くなった者は淡路屋ばかりではない。もっともそれは偶然なのかもしれない。十になるかならないかの頃、先代の父親と庚申講に来たことが何度かあった。その時もわずかの間をおいて死んだ者たちがいたと聞いた。いずれも、庚申講の場で伊織と言葉を交わした者たちだったと、まことしやかに伝えられている。

 伊織には何かあるのではないかと噂されていた。伊織を看る医者は口が固いことで知られている。その医者ですら、紅屋の帰りには余計に沈黙するという。

 今宵いあわせた者たちは神妙な面持ちで経を読み上げている。痛い腹も痛くない腹もさぐられてはたまらないといったところなのだろう。


 もっとも、生きていれば大なり小なり人は悪事を働くものだ。

 嘘をつく、だます、こころない言葉で傷つける……いくらでもあるだろう。ものごとの後味の悪さを感じたことは一度や二度ではあるまい。

 けれども、それは良心をもちあわせていてこそだろうが。

 紀一郎はなおざりに聞こえないようにと、般若心経を唱えたが、言葉は言葉でしかないと思っている。


 一通りの声明しょうみょうを終えると、隣の座敷へと移る。座敷には、料理が用意されていた。めいめいが脚付きのお膳の前に座る。そこからは料理をつまみながら酒を飲み、四方山話で朝まで過ごすのだ。

 料理は見事なものだった。季節のきのこの煮物、すずきの塩焼き、昆布と厚揚げの煮物、新蕎麦、それから。

「なんと、唐墨ですか」

 美食家で知られる頬の下がった材木商が小皿を持ち上げて、ぼらの卵を干した珍味の唐墨をしげしげと見つめた。

「ついこの間、長崎から戻りまして。江戸につくころにはちょうど講の持ち回りの順番が来ると気づいたので、少しばかり買い求めました」

 長崎名物の唐墨が膳にのぼった理由を義嗣が、人好きのする笑顔で答えた。

「長崎へは、薬の買い付けですかな」

 上座の旦那に問われて義嗣はうなずいた。

「渡来ものの薬草や、蘭学医が使う薬を見させていただきました」

 よい薬があるときけば、義嗣は体の労をいとわず、西へ東へと出かけるのだ。講のなかでも、とくに勉強熱心だと言われる。

 紀一郎は豪華な膳をまえにして、次に自分の番になったらば、もっと上等な料理でもてなしてやろうと思った。店にある上物の乾物を料理に使わせよう。干した鮑や海鼠を戻して柔らかく炊き上げたあつもの、上等な鰹節でだしを引いた汁物。義嗣よりも、良いものをそろえてやろう。

「こちらの昆布は、紀一郎さまのお店から買い求めました」

 不意に名を呼ばれて紀一郎は顔を上げた。

「さすが、相模屋さんです。肉厚で上等の昆布だと料理人が喜んで、腕をふるいました」

 義嗣の言葉に、みながいっせいに昆布の厚揚げ煮へと箸を伸ばす。昆布は濃い緑色の内側に、上等の出汁を吸った白く身の締まった厚揚げを抱いている。歯を立てると小気味良く昆布が切れて、一気になめらかな厚揚げまで噛むことができる。しっかりとした美味さに皆から笑みがこぼれる。

 とうの義嗣は紀一郎の向かい側、伊織の隣に座り、古参の満足そうな顔を柔和な表情で見ている。

 無骨な見かけによらず、義嗣は細やかな気配りをする。

「昆布は蝦夷のものですか。とてもよい品ですね」

 煙草屋の老旦那に褒められ、紀一郎は一礼した。

 紀一郎と、義嗣と、伊織。歳の近い三人を、講の者たちは何かと引き比べている気がする。それは紀一郎の勝手な思い込みもあるだろうが。どの家が一番良い跡継ぎを得たのか、紀一郎と義嗣が独り身のときには、自分の娘や親類縁者と縁組してもよさそうかなど、いつも比べられていたように思う。

 もっとも、伊織は別だ。体が半分しか利かぬ半人前だから。伊織を婿に、という話しはついぞ聞いたことがない。

 しかし、伊織の評判も決して悪いわけではない。

「紅屋さんのところは、女の手習い師匠を雇ってまで、寺子屋をさせていると聞きましたよ」

 その女師匠と伊織が恋仲であると、いっとき噂が流れて、紅屋に通う女たちが色めき立ったのを、紀一郎は覚えている。

「通っているお嬢さんがたは、いずれ紅屋うちのお客さまになられますからね」

 商売への布石なのだと伊織は微笑んだ。

 女師匠はその後、別の男と所帯を持ち、噂は立ち消えた。

 寺子屋はそのまま今も続けられている。紅屋の寺子屋に通う娘たちは、帰りに紅屋へ寄ることが道順となっているようだ。たまに伊織が店先で、娘たちに簪の見立てをしたり、話し相手になったりしている。

 柔らかい物腰の伊織は、女子たちから頗る人気だ。それに伴って、紅屋の売り上げも上々ときている。


 なに、己も……と紀一郎は背筋を伸ばした。奉公先での修行を終えて、実家へ戻ったのを機に嫁を貰った。

 奉公先では、誰よりもお得意様を抱えていた。そのまま生家の店の客になった者たちも多い。

 常によい品を並べられるように心がけているし、出入り先の武家への付け届けも欠かさない。

 商いを大きくして、いつかは日本橋界隈に店を構えたい。

 そのためには、邪魔なものは片付ければよい。

 たとえば店の品物をかっさらう猫や犬。鰹節を盗られるまえに、店の近くで見かけたなら片付ける。捕まえて、薪を二三回振り下ろし、川へ放り込めば終わりだ。

 紀一郎は己の仕事熱心さを誉めたいと、思っている。

 しかし、両親にしろ妻のみつにしろ、眉をひそめる。

 自分の働きに、なんの不満があるというのだ。おかけで、店の近くでは犬も猫も見かけなくなった。ただ、ぎゃくにそれがつまらなく感じて、わざわざ餌を置いておびき寄せたりはしているが。

「紀一郎さまの、相模屋さんでは小石川療養所へ寄進をされたとか」

 代々乾物屋を営む紀一郎の家はあちこちへと寄進に余念がない。自分たちの商いがうまく回っているのは、皆のおかげなのだからと父母は言う。

 それにくわえて、不必要に殺生する紀一郎へ不安を感じているからかも知れない。

 ――およし、紀一郎。いつか、天罰が下るよ――

 父母(ちちはは)の叱責が不意に思い出された。

 この世に因果応報などありはしない。げんに今まで、天罰らしきものが下ったことは一度もない。

 奉公先の店では、店主や番頭からの信も厚く、誰よりも金を稼いだ。朝いちばんに起きて、夜は最後に床に就いた。

 この世には強いものと弱いものしかいないのだ。むろん、紀一郎は強い側だと思っていた。

 紀一郎は常々、己の才覚でなら店をさらに大きくさせることができると考えている。

 紀一郎は、いずれ店を継いだなら貧乏人や寺社への寄進など辞める、と心に決めている。そのぶんの金を店を大きくすることに当てた方がよほどいい。

 ありはしないのだ。因果応報も、三尸さんしの虫も。

「さすが、情けにお厚い」

 それでも今は、父母の評判がそのまま己へと還ってくるならば、それもよしと思うことにしていた。


 夜も更けてくると、話しは商いのことから離れてくる。酔いが回れば回るほど、他愛のないものや噂話へと

 移ってく。

「そういえば、先日河原に女の死体があがったとか」

 壮年の履物屋が、声を潜めて話し出した。紀一郎は箸が止まりそうになったが、そのまま小鉢のひじきの白和えをつまんだ。

「足を滑らせて落ちたのでは」

「いいえ、なにやら体のあちらこちらに青黒い痣があったというはなしです」

 不穏な話だ。けれども、みな聞き捨てならないようで、さかんに言葉を交わしている。

「夜鷹だったとか」

「用心棒も連れずにいたのですかねぇ」

「もぐりだったようですよ」

 履き物屋は下世話で、紀一郎はことに好かない。細面で鼻の下が長い。しまりのない顔つきなのも、だらしがなく見える。

 紀一郎は交わされる言葉を無視して、料理を食べ続けた。

 義嗣と伊織は話には加わらず、ただ聞き役に徹している。義嗣は妻ひと筋だし、伊織は今のところ浮いた話を聞かない。二人とも夜鷹も岡場所も、縁がなさそうだ。

「紀一郎さんの店の近くだったと聞きましたが、何かご存じありませんか」

 視線が紀一郎にあつまる。紀一郎は、箸をそろえて膳へ置くと、ひとつ息をした。

「何も存じ上げませんが、身持ちの悪い女が酔払いでもして、川にはまっただけでしょう。わざわざこの場で話すことでもございませんよ」

 年下の紀一郎に諌められる形になり、履物屋はばつが悪そうに視線を落とした。

 紀一郎は言い終わると、畳の一点を見つめたまま、箸を動かした。

 闇の中、河原の草藪に横たわる女。裾を割って大きく足が開かれると、蒸れた匂いがした。月の明りに、足のうちが、ぼうっと白く光る。しなをつくり、紀一郎の腕を引いた。

 どこまでも、安い女だ。いてもいなくても、いい。むしろ、害悪だ。

 紀一郎は半ば腹を立てながらも、体の奥が妙に熱くなるのを感じた。柔らかな求肥へ黒文字をゆっくりとめり込ませるような感触……。炊いた身欠きにしんにかぶりつき、歪んだ笑みを隠す。

 なごやかな会食の場が、気づまりな雰囲気になり、会話が途切れた。誰もが取り繕う話しの接ぎ穂を探すようにどこかそわそわとしたとき、聞き役になって微笑んでいる伊織に話の水を向ける。

「川といえば……伊織殿が川に落ちたとき、たいへんな騒ぎになりましたな」

 筆と墨を扱う白髪頭の鶯堂の店主が伊織に話しかけた。

「あ、あれは!」

 とたんに、伊織の隣に座る義嗣が、盃を置いて背筋を伸ばした。まあまあ、と伊織が義嗣の袖を引いた。

「あれは、わたくしのせいです。川に落とした毬を取ろうとして落ちそうになったわたしを庇って、伊織さまが」

 真面目で通っている義嗣は、正座した膝に難く握った拳をのせて目じりを赤くした。

「そんな、今はこのとおり、ぴんぴんとしているじゃないですか。いつまでも気にしないでくださいな」

 伊織は胸元から懐紙を取り出して義嗣へ渡した。

「それでも……まだ、いっちゃんの体から痺れをとる薬は見つけられない」

 思わず幼い時の呼び名で伊織を呼び、四角い顔をゆがめて義嗣は滲んだ涙を懐紙でぬぐった。薬に熱心なのは、伊織のためであったらしい。

「あの時はとんだ騒ぎだったね。水から引き揚げられたあんたは息をしていなかった。紅屋の親父さんは真っ青になって自ら走って医者を連れて来た」

「その節はお騒がせしました」

 伊織が鶯堂へ小さく頭を下げた。鶯堂は、紅屋の隣だ。騒ぎのすぐそばで一部始終を見ていたことだろう。そうだった、そうだったと年かさの者たちが一斉にうなずく。

「お騒がせどころか……仰天させられたよ。伊織殿は何も覚えてはいらっしゃらぬか」

 鶯堂の一言に、皆が押し黙った。紀一郎もまた。義嗣は一転、青ざめた。

「ええ、何も。たしかにわたしは一時いっとき、息が止まっていたようですね。心の臓の音も聞こえなかったと」

「一時どころか。川で溺れたのが昼の前、息を吹き返したのがその翌日の夜」

 伊織が寝かせられた枕元で、両親は泣き崩れ、番頭が和尚を呼ぶかどうかと逡巡していたそうだ。

 ふふふ、と伊織は妖艶に笑った。

 死人返り。伊織は陰ではそう呼ばれていた。

「何も覚えていませんよ。ただ、そうですね……誰かに手を引かれて、歩いていたように思います」

 伊織は動かぬ左腕を右手でさすった。袖がわずかに持ち上がり、紀一郎にちらりと見えた伊織の肌は女子のように真っ白だった。が、一点不自然な影のようなものが見えたように感じた。それは、行灯の淡い灯のもとでのことだ。何かの見間違いなのかもしれない。

 伊織の言葉に、みな息を飲んでいる。伊織が幼いときの出来事を語るのは、あまりないことだろう。義嗣ですら、こわごわと伊織を見つめている。

「これは、これは。今宵は庚申であって、百物語ではありませんよ。もっとも、怪談を語るにはどうにも寒くなり過ぎました」

 伊織が屈託なく微笑むと、凍っていた座敷はみなの溜め息と共に緩んでいった。

「酒をもっと」

 義嗣が声を上げると、女たちが盆に酒と追加の料理をのせて、廊下を渡って来た。



 それからしばらくは、それぞれ近くに座った者どうしで言葉を交わしていた。

 今年起こった火事で、日ごろから羽振りのよい材木商たちは、さらに左団扇だということを耳にした。たしかに材木商は常に笑顔だ。懐に余裕があるためだろうか。鷹揚に構え、ゆっくりと盃を煽る。材木商たちが出入りする料理屋に、よい品を見せに行くのは一つの手だろう。試みに使ってもらえるよう、わずかばかり包んでいくのもよいかもしれない。紀一郎は考えた。

 四隅の行灯の薄い光で、白い襖にはぼんやりした影が動く。

 盆に小鉢を乗せてきた義嗣の妻は、伊織の横で目を赤くし背中を丸める夫を見てわずかに唇を曲げた。

 妻に情けない風体をさらす義嗣を紀一郎はもちろん腹の中で笑った。義嗣は体も大きければ顔も四角くいかつい。しかしこれでは、小柄な年上の妻によけいに頭があがらないだろう。義嗣の妻は、紀一郎と同じ年と聞いていたが、主(あるじ)が留守がちの店を守ることが多いからか、芯が一本通ったような顔をしている。幼なじみに背を撫でられながら、鼻をすする義嗣より、よほどしゃんとして見えた。

 女たちは追加の料理と酒を座敷へと運ぶと、あとはお好きにとでもいうように、姿を見せなくなった。女たちは女たちで、厨(くりや)のそばの一間で夜通し楽しむのだ。

「いっちゃん、ごめん……いっちゃんが息を吹き返してからしばらくは、わたしはいっちゃんが怖かった」

「おや、まあ」

 伊織は箸を置いて、義嗣を見た。

「なんだか、別の人になったような気がして。じぶんの勝手な思い込みでしかないのに。わたしのことなんか、知らないって言われそうで」

「そんなむかしのことを気に病んでいたのですか。誰だって溺れて動かなくなった人を見るのは怖いですよ。ことに幼いころなら尚さら。なのに変わらず、わたしへ声をかけてくれる。よっちゃん、ありがとう」

 義嗣の目をのぞくように、伊織は首を傾けて義嗣の左手に右手を重ねた。

「いっ、いっちゃん、おれが必ず痺れを取る薬を見つけて来るから」

 紀一郎は目の前で繰り広げられる光景に、白々しい心持ちがしていた。

 年上の老人たちは、義嗣と伊織のやり取りを気にしている風はない。

「まことに泣き上戸だな、薬屋は。泣き虫につける薬はないのか?」

 履き物屋が軽く茶化すが、むしろ二人に向ける眼差しは、みな柔らかい。紀一郎ひとりをのぞいて。

 酒が進み、小鉢の肴がなくなるころ、誰かがあくびをしはじめた。あくびはうつるのか、あちらこちらで大きく口を開けては、気の抜けた小さな声をあげる。

 今夜は寝ずに過ごすはずなのに。寝ずにいるという強い意思は今一つ感じられない。まとめ役の井上まであくびをかみ殺している。履物屋はすでに船を漕ぎ始めている。

 紀一郎は襟をととのえ、背筋を伸ばした。少しでも目が覚めるようにと。

 もし眠気に形があったなら、それは霧のようなものだろうか。いま、座敷の中へは眠気の霧が襖の隙間から忍び込んできているようだ。

 酒を過ごさぬようにと気を付け、じっさい飲むことよりは食べてばかりいたが。ぎゃくに腹がくちくなりすぎたか。紀一郎は箸を置いて目をこすった。

 隣どうしのやりとりが検討違いのになっていく。当人たちは気づかないのか、やがて受け答え自体が間遠(まどお)になっていく。からん、と誰がが落とした箸の音がやけに遠くに感じられる。

 いつしか話し声は五月雨のようにぽつりぽつりとなっていく。廊下から鈴虫の鳴き声がきこえるばかりになった。紀一郎も、まぶたが重くなっていくことに抗えなくなってきていた。

 眠りたくない。今夜だけは寝てはならない。紀一郎はあくびをかみ殺し、かぶりをふった。耐えがたい眠りの渦に引き込まれそうになる。ぐらっと体がかしいで、心の臓が口から飛び出るかと思うほど驚くのに、すぐにまた体は力を失って舟をこぐ。

 ついさっきまで聞こえていた、伊織と義嗣の声も聞こえなくなった。

 

 静かだ。あの晩のように。紀一郎は夜霧の中を歩いていた。そこであの女に出くわしたのだ。手ぬぐいで顔を半分隠してはいたが、紅を塗られた朱い唇が誘うように濡れていた。

 ひたひたと女は紀一郎に忍び寄ってきた。

 ――旦那さま、ちいっと遊んでいきやせんか。何やら不機嫌なお顔をされていますね。あたしで、うさ晴らしなんていかがです?

 女の手が、紀一郎の背中にあてられた。

 さあさ、こちらへ。

 女の白粉の匂い、衣ずれの音。

 誰かがささやく声がする。

 紀一郎は夢と現のはざまにいた。

 何かえたいのしれないものが部屋の中で動いている。布が畳を擦る、しゅっという微かな音を紀一郎の耳は拾った。

 目を覚ませ、目を覚ませと己を叱咤し、紀一郎は眠気から脱した。うつむいたまま薄く目を開け、ゆっくりと顔を上げた紀一郎の視界にほっそりとした影が見えた。

 影はゆらゆらと、座敷の中を動いている。そして膳の前で眠っている者たち一人一人の肩に手を乗せる。

 すると、二寸ほどの煙が肩に手を置かれた者の口からするりと吐き出される。肩に手を置くものは、煙と二言三言話すのか、かさかさと声がする。やがて煙は天井へと昇っては消えてゆく。

 まさか、三尸(さんし)の虫か。眠った体から、三尸(さんし)の虫が抜け出して、天帝へ悪事を知らせに行ったのか。

 自分はまだ夢を見ているのだろうか、しかし紀一郎の背中を冷たい汗が流れる。もしや自分の三尸の虫も、天帝のもとへとすでに行ってしまったのではないか。暑くもないのに、額や脇の下が汗ばむ。

 影は紀一郎の横へとやって来た。紀一郎は寝たふりをしていたが、ふいにすぐそばで白檀の香りがした。

「紅屋、何をしている……!」

 紀一郎へ伸ばした手をぴたりと止めて、伊織が微かに笑った。

「お先に上がらせていただこうと、皆さまへお声を掛けさせていただいておりました」

 それでは、と伊織は紀一郎へ頭を下げた。そこで初めて紀一郎は、小鳥の声を聞いた。まだ明るさは感じられないが、明け六間近なのか。

「義嗣さん、わたしは帰りますからね」

 襖のところで振り返り、伊織はすでに畳へ寝転がっている義嗣へと声をかけた。

 義嗣は寝ぼけながらも、手を胸のあたりでひらひらさせて返事をよこす。伊織は、それを見届けると、するりと襖のあいだを抜けて行った。

 紀一郎はしばし呆然とした。

 さっきの出来事は、自分の見た夢だろうか。

 と、紀一郎と寝入っている皆の体が、一斉に震えた。紀一郎は体の内側を冷たい手で撫でられたように感じ、思わず口を押さえて悲鳴をこらえた。

 今のは、なんだ。

 もしや、体から抜けていた三尸の虫が戻ってきたのか。履き物屋と材木屋が、かすかに呻いた。

 奴は、紅屋は何かをしたのだ。紀一郎はふらりと立ち上がり、足早に座敷を後にした。奇妙に寝静まる薬屋から出ると、通りの先を杖をついてゆっくりと歩く伊織を見つけた。

 紀一郎は着物が着崩れるのも構わず伊織の背を追った。飛ぶような速さで伊織に追いついた紀一郎は、その細い肩に手をかけ、強引に振り向かせた。

「どうかされました」

 伊織は驚きもせず、静かに紀一郎を見つめた。夜明け前の薄暮の中でさえ、伊織の顔は白く浮き上がって見えた。

「……おまえは、何をした。講の連中に、おれに!」

 さあて、と伊織は唇の両端をわずかに上げて、首を傾げる。紀一郎の体の中で火花が散った。伊織の肩を掴む手に、ぎりりと力が入る。伊織が小さく呻いた。

「な、なにも」

 紀一郎が手荒く体を揺さぶると、伊織は眉を寄せ唇をゆがめて抗おうとした。伊織の体の薄さや指に感じる細い骨に、紀一郎は混乱し始めた。

「なにも、

 あっと叫んだのは、紀一郎か伊織か。伊織は知っているのだ。紀一郎がしたことを。

 紀一郎は伊織の口をふさぎ、引きずるようにして川原へと体を向けた。両国川にかかる橋の下で紀一郎は伊織を力づくで押し倒した。

 伊織の華奢な体と怯え切った眼差しに、紀一郎の息は荒くなった。

 白く長い首に、己の指を食い込ませたい。もがき苦しむさまを眼前でつぶさに見たい。

 あの夜鷹のときのように。

 激しく胸を上下させ、紀一郎は伊織に襲いかかった。

「ああっ」

 伊織の悲鳴は、川の音にかき消された。紀一郎は目を見開き、伊織の首を締めあげた。喉仏を感じられない首と柔らかくきめの細かい肌に、紀一郎は伊織を女と錯覚しそうになる。体中を激しく血がめぐり、滾るものが全身を焦がしそうだ。

 伊織の命は、いま自分の手の中にあるのだ。生かすも殺すも紀一郎しだい。紀一郎の胸は愉悦に満たされる。

 伊織は紀一郎の腕に爪を立て、必死に抗う。しかし、力で紀一郎にかなうはずがない。白い肌を紅潮させ、陸にあげられた魚のように何度も口を開け閉めする伊織の体から、いつしか力が抜けた。紀一郎の額から汗が流れ落ちる。手を離すと、川原に倒れた伊織の口から一筋の血が流れた。

 浅い息を繰り返しながら、紀一郎は伊織の亡骸を見下ろした。

 紀一郎の手は、伊織の息を握りつぶした快感に震えた。

 いつの間にか、川面から霧が沸き立ち、紀一郎の腰のあたりまで白くけぶっていた。

 日が昇るまえに、伊織を片付けなければ。懐と袂に石を入れ、川へ捨てればいい。そうすれば、身投げだと思われるだろう。

 紀一郎は、伊織のそばに膝をつき、懐を弛めようとした。伊織は激しく暴れたせいか裾と袖が乱れ、蝋のように白い手足がむき出しになっていた。

「これは」

 紀一郎は思わず袂から手を離した。

 伊織の膝下から足首にかけて、黒い痣があった。まるで、太い蔦か縄が巻きついたように。

 腕には同じく肘に赤紫の痣が巻きつき、手首に向かって色は薄くなっている。そして指の型がはっきりと、ついていた。

 誰かに手を引かれて歩いていたような……酒席での伊織の言葉を思いだし、紀一郎は思わず痣を凝視した。

 わずかに日が昇り始めた。川の波が光り、反対に橋の下の陰は濃くなった。早くしなければ人目につく。

 紀一郎は気を取り直して、川原から握りこぶし大の石を拾い、伊織の胸元を開こうとした。

 そのとき。

 伊織の腕が動いた。いや、動いたのは、痣だった。巻きついた布が剥がれるように、痣は、しゅるりと伊織の腕からほどけたかと思うと、そのまま身体を支え起こした。

 紀一郎の指型をつけた喉を晒したまま伊織の身体がゆっくりと持ち上がってくる。紀一郎は伊織を避けて後退りし、石に躓いて転んだ。したたか打ち付けた尻や腰をさすることも忘れ、伊織から目が離せない。

「困りますね」

 がくんっと、伊織の首がもとに戻り、紀一郎へ涼しげな眼差しを送った。

「なんども三途の川を渡るわけには、いかぬのですよ。また天帝に叱られました」

 伊織の首を、気遣わしげに赤紫の腕が撫でさする。

「さて、お尋ねしましょう。紀一郎さま、罪はご自身で贖いますか」

「な、何を言って……」

 伊織が自身の指先で顔にかかった髪を撫でつける。切れ長の妖艶な眼差しと、赤い唇からわずかにのぞく白い歯列。

「よく眠れたでしょう? 三尸(さんし)たちに気づかないほどに」

 紫色の手が紀一郎を指さす。紀一郎はとっさに胸のあたりを掴んだ。伊織は、分かっているとでも言うようにうなずく。

「天帝より言付けです。あなたさまに聞いて参れと。自ら番所へ出向くのか、それとも」

「知らないな」

 言葉尻がふるえなかっただけ、上出来というしかない。紀一郎は頭の中で割れ鐘が鳴っているように感じた。聞きたくない言葉を遮るように、わんわんと頭の中で鳴り響く。

「犬を殺したことか? 猫を殺したことか? 商いの邪魔をする畜生を退治することは、真っ当なことだ。おれは悪くない」

 紀一郎の着ているものが、瞬く間に汗でじっとりと湿る。伊織は首を傾け、上目づかいに紀一郎を見つめている。口元から笑いが消え、ひどく冷たい顔をしている。

「そればかりではないでしょう」

「さ、さそったのは、あいつだ。のべつ幕無しに不貞を重ねる。あいつらこそ、消えればいいんだ。おれのどこに罪がある!」

 紀一郎はそう言いながらも、首を絞め上げるときの掌の感触が忘れられないのだ。苦しむ顔も、自分が他人の運命を握っていることも、すべてが忘れられない。犬猫を殺めるときの比ではない喜悦をもたらす。

「わたしでは、物足りませんでしたか」

 伊織は首をさすりながら、一時(いっとき)微笑んだに見えた。が、それはすぐ能面のようになった。

「わかりました。では、あなたさまは悪くない、と。天帝にはそのように伝えましょう」

 ふう、と深く息をついて伊織は立ち上がった。赤紫の手が伊織の手を取ったが、朝日の中に消えていった。

「……おまえこそ、この世のものではないだろう」

「ねぇ? いちど死んで向こうのものに気に入られたばっかりに、使い走りをさせられますよ」

 伊織は喉の奥で笑うと、土手をゆっくりとのぼり木戸の方へと歩み去った。


 それから、すぐに紀一郎の妻・みつが番頭と駆け落ちした。出て行くときに、店の有り金をすべて持ち逃げして。

 紀一郎の母は、木場で倒れて来た木材に頭を割られて亡くなった。

 傾く商いを必死に守ろうとした父は、金策に疲れ切って首をくくった。

 短い間に妻に裏切られ、二親を亡くした。数年後時代が明治となるころには、紀一郎はすべてを失った。

 あのとき、伊織の問いかけに「番屋へ行く」と答えればよかったのだろうかと思わぬ時はないが。

 狭く汚れた一間だけの長屋に暮らし、薄い布団に身を横たえるとき、ひび割れた唇でつぶやくのだ。


「おれは、悪くない」


 庚申待ちへは、もう行っていない。


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庚申待ちの夜 たびー @tabinyan0701

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