第6話 産まれるか、産まれぬか

 親に対し「産んでほしくなかった」と主張する人がいる。

 それに対し、「数ある精子の中で他との競争に打ち勝ち、着床したのはあなた自身だ」という人がいるが、それは只の生物的な本能だ。精子に自我があるはずもない。


 なら、仮に自我があったとして、生まれるか否かの選択ができたとしたら、その人は否を選ぶだろうか。

 考えてみると、主張の根元となっているのは、その人の今までの経験だとわかる。

 過去に得た知見での判断によって、「今」置かれている状況を鑑みて、自分は生まれたくなかったという主張をしている。それは生があったからこその思考、主張だ。

 生まれていない状態だったら、自分がどうなるかなんて、わかったもんじゃない。空っぽなのだ。始まっていないから、得ているものもない。正しく「無知」の状態。

 だから、最初に生の選択の権利があったとしても、生が何なのかを知らないため、自我があっても判断できない。

 よって、産んで欲しくなかった、などと不満を言ったところで、「今」の人生を変えないことには、何も良くならないのだと思う。

 なんだか教訓めいた結論になってしまった。

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泡を飛ばす凡人 千木束 文万 @amaju

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