Nomado

増田朋美

Nomado

Nomado

蘭は落ち込んでいた。自分はやっぱり水穂のために、何の役にもたたないのか。ほんとうなら自分が、僕がいるんだ!とやつを励ましてやりたいんだが、自分は製鉄所に出入りができないのである。青柳先生が、自分に製鉄所に出入りしないように命じたからだ。青柳先生、何でダメなんですかと聞いてみたら、水穂さんに余計なことを言うからと言うはなしである。余計なことなんて言ったつもりはない。ただ、水穂さんに、良くなってもらいたいだけである。そのつもりで、病院を探したり、よい医療施設を探したりしているのだが、水穂さんにとっては、それは、余計なおせっかいなのだ。彼が持っている歴史的な事情のせいで、水穂さんは、よい病院に入っても、よい医療を受けられるとは限らない。それが、その理由だった。返って容態が悪化してしまう可能性もある。それではいけない。なので余計なことをするなということになっているらしいが、蘭から見たら、水穂を医療から遠ざけようとしている、そして水穂自身も、医療から遠ざかろうとしているようにしか、見えないのであった。

今日も杉ちゃんは、ある人に写真を送りたいので、タブレットの操作を教えてくれという。タブレットは、さほど難しくないのだが、杉ちゃんは文字が読めないため、教えてくれ教えてくれと、しつこく言い寄ってくる。その度に蘭はいちいち教えなければならない。面倒な作業であり、かなりの重労働だ。

「杉ちゃん、1体こんな写真誰におくるんだ?」

今日も写真を送信して、蘭は杉ちゃんに尋ねた。

「おう。お琴のお家元である花村さんのところに。」

さらりと答える杉ちゃんに、蘭は大いに驚いてしまった。

「おいおい、花村さんというと、花村義久か?」

「そうだけど?」

と、杉ちゃんが答えると、どうして杉ちゃんという人は、そういう高尚な身分の人と、すぐに仲良くなれるんだろうかと、不思議な気持ちになってしまった。

「杉ちゃんさあ、どうしてすぐにそういう人と仲良くなれるわけ?何でまたすぐそうやって、写真を送りあったりできるんだ?」

蘭は、まったくよ、と、大きなためいきをついた。

「その人が友達がないからだ。それ以外に理由なんてあるか。」

と、単純な答えを出す杉ちゃん。

「でも、花村義久といえば、お琴の世界では、本当に有名な人で、杉ちゃんには雲の上の人だよ。それなのに何で?」

蘭は、一般的なことを言った。

「だからあ。それは蘭の前ではだろ。少なくとも僕の前では、心臓に疾患のある、友達のないかわいそうな男だよ。有名もなにも、関係ないよ。」

平気な顔をしていう杉ちゃんに、蘭は、本当に変なやつだなあと杉ちゃんをみて、ためいきをついた。

しかし、すぐに杉ちゃんの言葉を聞いてピンとくる。

「杉ちゃん、いま、心臓に疾患があると言ったな。」

「言ったけど?」

杉ちゃんがいうと、

「じゃあ、お願いがある、そいつにさ、」

蘭はある計画を巡らせていた。

「そいつって誰のことだ?」

杉三は、にやりとわらう。

「花村さんだよ。その花村さんに、お願いしたいことがあるんだ。」

蘭はそういった。

「花村さんに、水穂に会ってもらって、もっと前向きになってくれるようにお願いするんだ。花村さんのような人からであれば、言うことを聞かない水穂でも、治療を受けようという気になってくれると思うんだよ。」

「蘭も突飛なやつだなあ、お前さんだって知ってるだろうが。水穂さんが、歴史的な事情があって病院にいったら、バカにされちゃうこと。」

杉ちゃんが、笑うようにいうと、

「笑わないでくれ。杉ちゃん、僕は真剣にお願いしているんだから!」

と、蘭は強く言った。

「まあ、そうだけど、無理だと思うよ。水穂さんは、もう助かりはしないだろう。それは、お前さんだって知っているんじゃないのか?」

「そうだけど、このままではただ寝かされているだけじゃないか。そうじゃなくて、最後の最後まで、病気と戦うようにしなくちゃ。そのまま放置されてばかりだったら、本当にかわいそうでならないんだよ。」

蘭は、そうでかい声でいうが、杉ちゃんは平気な顔をしていた。

「蘭、無理なものは無理だ。あきらめろ。」

「諦められないよ!杉ちゃんは悲しくないのかい?二度と会えなくなるということに!」

蘭はこのときばかりは激して言った。

「だけど、そうするしか水穂さんは長年の人種差別から、解放されないぞ!」

「人種差別なんてどうでもよいんだ。やっぱり命があるかぎりは生きようと思うのが、人間というものだ。できる限り、死ぬことを避けようとするのが人間じゃないのかい?人間、死んだら誰だって喜ぶやつはいないだろう?必ず誰かが悲しむよ、そういうもんだろう?」

「どうかなあ。」

と杉ちゃんは、首をかしげていった。

「蘭の台詞は食べ物に不自由しない金持ちの人間だけに、通じる話だ。水穂さんみたいに、毎日食べ物に困っているような人間は、生きているのが苦痛で仕方ないんじゃないの?そっから、解放されることでもあるんだよ、わかるかい?」

「なんだよ、杉ちゃんは喜べというのか?僕はとてもそんなことはできないな!」

「蘭は金持ちだからそういうことが言えるの。水穂さんにとっては、生きることなんて辛すぎると思うよ。それが、わかるには、貧乏神にあってみないとわかんないでしょうよ。ましてや、お琴の家元に生きてくれと謂われても、いい迷惑じゃないの?」

杉三は、蘭をからかうように言った。

「杉ちゃん、だって、やつはいいやつじゃないか。ずっと、製鉄所の利用者たちに、焼き芋くれたりして、優しかったじゃないか。そういうやつが、世の中から消えちゃうんだぜ。そんなこと、耐えられる?悲しくならないのかよ。」

「まあな、いいやつだったのは、そうしなきゃ生きていかれないから。そうしないと人種差別の、嵐に会うからだよ。それだって、あいつには重労働だったんじゃないのか?それから、もうちょっとで解放されるんだ。こんなチャンスはめったにないぜ。そういう意味で祝福してあげなきゃ。」

「祝福ってさ、そんなこと誰が決めたんだよ!」

蘭はしまいには涙を浮かべている。

「まあ、誰でもない。日本の歴史がそういっている。」

「じゃあ、僕が話をつけてくる。悪いけど、花村さんが、どこにすんでるか教えてくれるか?」

蘭は杉ちゃんに言い寄るように言った。

「嫌だというのなら、もう、写真送るのは、手伝わないから!」

そういわれて杉三もそれでは、もとも子もないと思ったのか、杉三は、花村の社中は、入山瀬にあるとだけ教えた。ただ、杉ちゃんは読み書きが出来ないので、具体的な、何町目何番地などということはできなかった。

そこで蘭は、タブレットを出した。こういう時には、タブレットというものが役に立つ。タブレットの検索欄に、「花村義久、入山瀬」と入れてみる。タブレットは、しっかりと蘭の命令を聞いてくれて、花村会がどこにあるのかを示してくれた。蘭は、自分が杉ちゃんと違って、文字が読めるという事をありがたく思った。花村会は非営利活動法人となっていたが、蘭はそんなこと気にしなかった。所在地を見ると、比較的駅から近く、すぐに行けそうな感じであった。


「よし、行ってみよう!」

蘭は、すぐに出かける支度をすると、タクシー会社に電話した。そして、タクシーに大急ぎで富士駅へ行ってくれという。タクシーは、ぼへっとした表情をしていたが、直ぐに走りだしてくれて、蘭を確実に富士駅まで連れて行ってくれた。

富士駅へ着くと、蘭は、すぐに身延線に突進した。でも、歩けないので、ホームに降りるには、駅員の力がなければできなかった。駅員にたすけてもらって、丁重に礼を言うと、駅員は、いや、仕事なんですから大丈夫です、と、笑って答えてくれた。そのまま、駅員に手伝ってもらって、ホームに止まっていた電車に乗り込む。数分もしないうちに電車は走り出した。一時間に二本くらいしか走っていない身延線が、何も待たずに走ってくれるなんて、きっと、良いことがあるぞ、と、蘭は思った。

入山瀬駅は、富士駅から近かった。ほんの数分で連れて行ってくれた。入山瀬駅にも駅員がいてくれて、蘭を、ホームへ下ろしてくれた。蘭は、丁寧に礼を言って、駅を後にした。

そのまま歩いて、花村義久が住んでいるところに向かう。蘭はタブレットを取り出して、その所在地へ向かって車いすを動かし始めた。道は思ったより狭くて、すぐに車も走ってくる故、結構行きにくい道路だった。何度も車にクラクションを鳴らされて、蘭は、一寸嫌だなあという気になった。

暫く車いすで移動して、蘭はやっと「花村」という表札が付いているところにたどり着いた。

「へえ、これが花村会か?」

家は、平屋建ての小さな家なのである。なんだか貸家をそのまま購入したような、そんな感じのする小さな家。玄関には、お箏関係の貼り紙も何もしていないし、花村という表札があるだけで、それ以外は何もなかった。

「も、もしかして、間違えたのかな、、、?」

蘭がそんな顔でそういうと、ふいに隣の家のドアが開く。隣の家は普通の二階建ての家で、一般家庭だとすぐにわかった。そこから、中年のおばさんが、買い物袋をもって出てきたので、蘭は、思わず聞いてみた。

「あの、花村会の花村義久先生のお宅は、ここですよね?」

「ええ、こちらですよ。」

おばさんは即答した。

「まあ、花村さん、最近引っ越したばかりだから、あたしはよく知らないけど。」

そういうので、まず間違いはないだろう。蘭は、有難うございます、と言って、その小さい家のドアをたたいた。

「あの、すみません。ちょっとお願いがあるんですが!」

本当は、容易く他人の家に入っていくのはいけないという事は知っている。でも、蘭は、どうしてもこれをしてほしくて、というかこれを頼みたくて、そんなこと、どこかに忘れてしまったのだった。

「はい、何でしょう?」

高齢のおばさんの声が聞こえてきた。というと、奥さんだろうか?いや、あの人はまだこんな高齢者ではなかったはずだ。確か年はまだ五十にも届いていないはず。それでは、お弟子さんの一人だろうか?

「あの、僕、影山杉三の知人ですが、一寸どうしても、お願いしたいことがございまして。」

ここで蘭は、初めて自分が身の程知らずだと知った。どうして、一面識もない花村先生に、会いに来てしまったんだろう。だって花村先生は、僕の事何も知らないはずだ。其れなのになんで住所まで調べてこっちへ来てしまったのか。僕はバカだなあ。

「はい、今起こしてきますから、一寸お待ちくださいね。」

という声が聞こえてきた。起こす?こんな時間まで寝ているの?夜勤でもしているわけではないはずだ。それとも、子どもみたいに昼寝でもしているんだろうか?変な生活スタイルだなと蘭は思ってしまう。

「起こしましたから、どうぞ。」

と、木でできたドアがぎいと開いた。中には高齢のおばあさんがいた。おばあさんは、メガネをかけて、エプロンをつけている。という事は、家政婦さんだろうか?と思って、彼女が首にぶら下げている名札を見ると、ヘルパーと書かれているからまた驚きだ。こんな高齢の人がヘルパー何かやっているのだろうか?それに、ヘルパーというのは、介護をする人だ。それが必要な人が、この家に居るのだろうか?

「あの、すみません。花村義久先生は御在宅でしょうか?」

蘭は、申し訳なさそうに言った。ここへ来てしまっては、もう用事を果たさなければだめだと思った。

「はい。今起こしましたから、どうぞお入りくださいませ。」

と、ヘルパーさんは、そういうのである。え?ヘルパーさんがそんなこと。どういう生活スタイル何だろうと蘭は思ったが、ヘルパーさんはいかにも慣れた手つきで蘭の車いすの車輪を拭いた。そして、さあどうぞ、と、蘭を中に入れてしまった。この家には段差が何もない。上がり框すらない。という事は、自分のように車いすを使用するものがいる?どういうことだ?蘭は余計にわからなくなった。

「さあどうぞ。」

ヘルパーさんは、蘭を玄関からすぐ隣にある小さな部屋へ通した。もう一つ部屋があるが、そちらはきっとお箏の部屋だろう、と蘭は思った。

「先生、お客さんですよ。杉ちゃんのお友達の、、、。」

「伊能蘭です!」

杉ちゃんと呼んでいるのだから、かなり親しい間柄なのだろう。急いで蘭は、自分の名前を言った。

「伊能蘭さんね。お名前は、杉ちゃんから聞いていますが、結構強そうな方だったので、びっくりしましたよ。」

ヘルパーさんは、にこやかに言って、ふすまを開けた。ふすまの向こうは四畳半の小さな部屋であった。部屋の中には、布団が敷いてあって、そこに花村義久が座っていた。その隣には、小さな本箱があって、おそらくお箏の楽譜と思われる本が大量に入っていた。そしてその近くには、小さな机も。水穂の部屋にそっくりだ!と、蘭は思った。

「あ、あの。すみません、突然押しかけて失礼でございますが。」

蘭は思わずそういうと、花村は、にこやかに笑って、

「いえいえ、お名前は杉三さんから聞きました。歩けない方であることもちゃんと知っています。このような姿で応答することになって、誠に申し訳ありませんが。」

と、蘭に向かって座礼した。ああそうか、そういえば杉ちゃんが、心臓が悪いのだと言っていたっけ。其れはこういう事だったのか、と蘭は改めて知った。

「すみません。お茶も差し上げられませんで、本当に申し訳ないです。もう少しばかり、体調が良ければ、お茶くらい出すこともできますけれども。」

「い、いえ、結構ですよ!お茶何て!僕は、先生とは全然違いますから!」

と、蘭は、急いで言った。そんなことは気にせずに、本題に入ってしまいたかった。

「あの、今日は、お願いがあってまいりました。どうしても先生にお願いしたいことがございまして。」

自分の身の程知らずも自覚しているくせに、蘭はなぜかそういうことを言ってしまうのである。

「あの、僕の親友で、磯野水穂というものがいるのですが。」

花村は、ええ、と言って頷いた。

「彼は、ピアニストとして、長らく活動しておりました。しかし、日本の歴史と言いますか、なんといいますか、そういうやむを得ない事情がありまして、生きる意欲と言いますか、生きようという気持ちをすっかりなくしてしまった孤独な男です。僕は、何回も言っているのですが、彼には、僕が、一生懸命支えていると伝えても、通じないのです。彼は、自分が身罷ることによって、酷い人種差別から、やっと解放されると喜んでいるように見えます。僕はそうじゃなくて、彼にこの世で生きてほしいと言いたいのですが、どうしても、伝えることができなくて、、、。」

蘭はしどろもどろに言った。いざ、話してもいいとなると、それでは話せなくなるものだ。どうやって自分の困っていること、花村さんにしてほしいこと、などを伝えたらいいか、全く分からなくなってしまうのである。

「其れで、先生のような、方であれば、生きる事の大切さと言いますか、なんといいますか、そういうところを、伝えることができるのではないかと思いまして。僕には、はっきりと申しますと、もう、彼につたえることができません。あの、し、失礼ですが、先生の境遇は杉三から聞きました。身の程知らずにもほどがあると思いますが、先生、僕の代わりに、あいつに会っていただけないでしょうか。」

蘭は、もう自分が何のためにここへ来たのか、わからなくなって、半分涙を流しながら、こういった。実のところ、なぜ、自分が花村先生の事を聞いて、本当に会いに行こうと思ったのか、も、成文化することができないほど、自身は混乱していた。なんでここに来てしまったのか。蘭はよくわからなかった。ただ、杉ちゃんが、花村先生と友達になったこと、花村先生が、水穂と同様に体を壊して寝ていることを知って、ここまで来てしまったという事である。

「お話は分かりました。体調が良いときにお伺いいたしましょう。」

不意に、花村がそういうことを言って、蘭はハッとする。

「ですが、ごらんのとおり、私も体調を崩してしまっていて、わるい時には、こうして寝ていなければなりませんので、具体的に何時と言えないのが申し訳ありません。」

「い、いいんですか、先生!」

蘭は、おどろいていった。

「はい、かまいません。私も杉ちゃんに、人を大切にすることを教えてもらいましたし。蘭さんが、その水穂さんを大切にしていることもわかりましたし、水穂さんはおそらく、蘭さんに大切にしていただいていることを、気が付いていないこともわかりました。其れはおおきな問題です。私が、そういうところでお役に立つのかどうかわかりませんが、小さなことでよろしければ、協力して差し上げますよ。」

「あ、あ、あ、ありがとうございます!」

と、蘭は、歩行ができるのなら、思いっきり飛び上がりたいほどうれしくなってそういった。

「ただ、道は案内していただけますでしょうか。私も、その人が、どこにいるのか知りませんので。」

「あ、は、はい!わかりました、いけるときになったら連絡ください。すぐにタクシーをよこします!」

蘭の目に涙が光っている。そのせいで蘭は、花村の顔をよく見ることができなかったが、とりあえず花村がやってくれるという事がわかって、ほっとした。


数日後。

蘭のタブレットに、花村からメールが入る。蘭は、直ぐにタクシーを呼び出し、待ち合わせ場所である入山瀬駅に向かった。少し白髪の混じった髪を束ねて長くのばした花村は、やっぱり痩せて窶れていて、水穂と同様に体の悪い人物であるという事を感じさせた。でも、黒縁のメガネの下にある目は黒く、美しくて、水穂のような力のない目ではないことが大きな違いだった。でも、花村会の家元でもある人物が、木綿の着物なんか身に着けるだろうか、というところが疑問だったが、、、。

「行きましょうか。」

蘭が声をかけると、花村は、わかりましたと言って、タクシーに乗り込んでくれた。

製鉄所へ行くまでには、少し時間を要した。蘭は、出来る限り水穂の事を伝えたかったが、なぜか、全部伝えきれないうちに、製鉄所へついてしまったような気がした。

製鉄所の正門にたどり着くと、蘭は少し怖くなった。また、青柳先生に怒られてしまうのではないか。自分は、製鉄所に出入りが認められていない。しかたなく、花村に、自分は事情があって製鉄所に入れないと正直に言い、一人で客として、行ってもらうことにする。花村が、タクシーを降りて、製鉄所の正門をくぐっていくとき、蘭は、まるで神頼みするような気がした。

花村は、静かに製鉄所の玄関の引き戸をたたいた。すると、応答したのはブッチャーだった。どうしてこんな高尚な人が水穂さんに会いに来たんだろうという顔をしていたが、とりあえず、身分の高い人であることは確かなので、ブッチャーは彼を四畳半に案内してくれた。四畳半に行くと、ブッチャーは、お邪魔虫は消えますね、とだけ言って、食堂へ戻っていってしまった。

「磯野水穂さんですね。」

花村は、しずかにふすまを開けた。

水穂は、眠っていたが、ふすまを開ける音がして、すぐに目を覚ました。でも、もう骨と皮ばかりに痩せていて、目は覚ましたけど、布団に座ることはできなかった。

花村は四畳半を観察する。確かに、同じ音楽家という事もあり、楽譜を入れた本箱や、小さな机など、自分と同じ部屋だ。でも、この人は、自分とは少し違っている。蘭さんが言った通り、歴史的な事情に翻弄されてきたのだろう。でも、これは伝えなければいけないと、花村も思った。

「あの。どうしてここに。」

動けない中、水穂もこの人が誰なのかわかったようである。

「僕に何か用があって、、、。」

と、言いかけたが、少し咳き込んでしまった。それでも、枕元にあったチリ紙で口を拭うことはできた。そこができたことは本当に良かったかも知れなかった。花村もこれを見て、何かわかったらしく、ひとつ頷いた。

「花村と申します。ここに来たのは、伊能蘭さんからの紹介で来ました。蘭さんが、どうしてもあなたに伝えたいことがあると、仰っていましたが、彼は、事情があって、こちらに来られないそうなので、代理でお伝えに参りました。」

蘭が、車いすなので、こういう日本家屋に入れないという事は伏せておいた。

「蘭が何を言っていたのでしょうか。」

水穂は、ひどくしわがれた声で、彼に言った。

「ええ、蘭さんは、あなたが今しようとなさっていることをやめてほしいと、そう申しております。」

「ど、どういうことですか。」

と、花村のセリフにそう返答する。

「そんなこと、一番わかっているのは、あなたではありませんか。蘭さんは、そのことで、ご自身を責めていらっしゃるんです。あなたが、歴史的な事情のせいで、ずいぶんつらい思いをされてきたことは、わかると言ったらうそになりましょう。そういうことは、わたしにも、蘭さんにもわからないことです。」

水穂は、そういうことを言われて、もう花村さんは、自分のしていることを、わかってしまったんだなと思った。

「そうですか。なら、蘭に伝えてください。これでやっと肩の荷が下りるんだと。」

「そうでしょうか。」

水穂がそういうと、花村は、にこやかな顔をしているが、一寸顔とは違う口調で言った。

「肩の荷が下りるのかも知れませんが、蘭さんに取っては、大きな肩の荷を背負わされることになりましょう。それをあなたは、蘭さんに押し付けることになるのです。」

「でも、こうするしか、僕には楽になる方法もありません。」

花村は、そっと、水穂の右手をとった。随分骨っぽい手で、まさしく骨と皮という表現がぴったりだ。

「いいえ、楽になりたいと、死にたいとでは意味が違います。そこを勘違いしてはいけませんよ。」

「でも、ほかに方法が。」

水穂がそういうと、花村は取った右手を、そのまま水穂の胸の上に置いて、

「でも、じゃありませんよ。あなたは生きているではありませんか。少なくとも、体はここまで弱っていても、まだ、生きようとしていらっしゃいます。それを、自らの手で止めようとすることは、決して許されることではありませんよ。」

と、しずかに言った。水穂の目に涙が浮かんでくる。

「そんなこと、言わないでください。僕は、こうするしか、こうするしか、楽になる方法もないんです。もう、あれだけひどいことをされ続けてきた人生とは、別れを告げたい。例えそれが悪いことであったとしてもです。」

「いいえ、あなたの望みはすでにかなっているはずですよ。少なくとも、蘭さんは、あなたの事を、身分が低いと言って、バカにしたりすることはしませんよ。」

「そんなこと、、、。」

そう言いかけて、水穂は少し咳き込んでしまう。花村は、そっと彼の背をさすってあげた。もう背骨も肋骨もはっきりわかるほどやせていた。

「少なくとも、これからの人生には、あなたを、バカにしたり、差別的に扱う人はおりません。だから、あなたも、自らこの世を去るという事は、やめてくれませんか?」

「花村先生。其れは誰のセリフなのでしょうか。先生が、個人的に考えているセリフですか?」

と、水穂は花村に聞いた。

「ええ、蘭さんです。蘭さんが、わたしに、そういうようにと仰せつかったのです。でも、そう考えているのは、蘭さんだけではありませんよ。杉ちゃんも、ほかの皆さんも、それから私も、みんなあなたに少しでも生きていってほしいと思っていますよ。だから、あなたは、完全に世の中から切り離されているわけじゃない。そこを考え直してもらえませんか。」

「先生。用意したセリフは言わなくて結構です。」

水穂は、まだそう言い張るが、花村は、そっと彼の右手を握り締めた。

「用意なんかしていませんよ。ただ、思っていることを言っているだけで。私も、事情は少し違えど、すごく孤独でした。子どものころは学校に行っても、家元の家系だからと言って、皆さん相手にしてくれませんでしたし。大人になって、お弟子さんには恵まれたかも知れませんが、ほかの人が持つような、親しく誰かと付き合うような関係は、私も、持てませんでしたよ。事情は違えど、あなたも同じような人生だったのではないですか?弱みを見せられる相手など、誰もいなかったでしょう?」

「先生、、、。」

戸惑ったような、それとも思っていることを見通されているような、そんな顔をして水穂は、返答に詰まってしまった。

「ええ、かまいません。ただ、私の話を聞いてくてただけでもありがたい事です。ただ、蘭さんは、今頃、タクシーの中で、うまく伝わったかどうか、祈るような顔をされているでしょうね。」

水穂は、無理やり笑顔を作った。でも、心の底では、なにか詰まっていたものが一気にあふれ出して、今にも、泣いてしまいそうな感じだった。其れは、大雨が降って、堤防が決壊し、鉄砲水のように彼に押し寄せてきた。

一方、タクシーの中では、花村が予想していた通り、蘭が、一生懸命神か仏に祈りをささげていたのだった。


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Nomado 増田朋美 @masubuchi4996

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