なくしたイヤリング

春都成

なくしたイヤリング

 昼休みが始まる前の大学の食堂で、僕はカタカタとノートパソコンで、4時間目の倫理学概論に向けて小レポートを作っていた。手元には、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の一部が刷られたプリントが、所々黄色く塗られて置かれている。僕はちらりとサファイヤブルーの文字盤が綺麗な腕時計に目をやった。長い針も短い針も「12」を指して重なっている。


 僕は続けてスマホのボタンを押した。四角い黒い背景の真ん中に、浮かび上がる白い四角の中に、


「ごめん、15分くらいになるかも」


 という文字たちが浮かんでいた。親指を二回画面上で動かして、僕は、「うん、わかったー」とギョロ目をしたパンダが口を大きく開けているスタンプを送信した。そして、立ち上がると、食券を買い、からあげ定食を買ってテーブルに置き、彼女――悦ちゃんが来るのを待っていた。


 倫理学のレポートが600字ほどに進んだ時、


「お疲れー。お。倫理学?」


 と言って、悦ちゃんが僕の前の席にカバンを置いた。


「そう」


「そっか。なんか懐かしいわ」


 僕はちらりと悦ちゃんの服装に目をやる。去年の冬は、からし色のコートを着ていたが、今日の悦ちゃんのコートは紺色で、ノルディック柄のマフラーも、寒色系で統一されていた。


「久しぶりだね――学食買ってくる?」


「いや……朝ごはん遅かったから、あまりお腹がすいていなくて。おにぎり、買ってきたから」


「そう」


 そんなやりとりを交わして、僕は、うま塩ドレッシングのかかった付け合わせのサラダから手を付ける。悦ちゃんは、ゆっくりとカバンから白いレジ袋を取り出した。その表情筋は、どこか下がり続けているような気がする。


「最近、体調はどう?」


 僕がそう聞くと、悦ちゃんは、ふっと目を伏せた……ような気がした。ただ、まばたきをしていただけなのかもしれない。


「うん……ちょっと合う薬が見つかって。だけど、ちゃんと合うようになるまでに時間がかかるかな。保健センターとか、病院の人とも相談して、楽しい、って思える心理学概論とか、西洋古典語以外はほとんど消しちゃった」


 悦ちゃんはそう言うと、僕の目を見た。僕は、もぐもぐとサラダを咀嚼しながら、


「そう……」


 とうなずいた。


しばらく会っていない間に、悦ちゃんはだいぶエネルギーを減らしてしまっていたようだった。いろいろ、気になることは多かったけれど、僕はしばらくそれ以上言葉を継ぐことが出来なかった。




 僕と悦ちゃんは、前回のセメスターまで、毎週木曜日の昼、一緒にご飯を食べていた。彼氏・彼女の関係だったのかと言われると、よくわからない。僕も悦ちゃんも、お互いに告白のようなことはしていないから。しかし、少なくとも僕にとって悦ちゃんは、かけがえのない、大切な存在だった。小学校からの幼馴染ということもあるかもしれない。


 また前セメスターまでは、同じ授業をよく取っていた。共通の授業で学んだことについて、シェアをしたり、授業中に教授がやらかしたへまなどを共に思い出しては、よく笑いあったりしていた。


 けれど、今セメスターに入ってからは、お互いの専門が分かれてしまい、一つも授業が被らなくなった。そして次第次第に、昼を食べる機会が減ってしまっていた。ときどき、


「今日、昼一緒に食べれる?」


 と、メッセージを送ったこともあったが、


「ごめん、今日学校行かないや」


 ということや、


「今日お金なくて眠いから学食食べません、ごめんね」


「ごめん、今日部活で話し合いがあるから食べれない」


 といった返事が返ってきていた。僕は、おかしいな、と思いながら、


「そっか、お大事にね」


 とだけ返事を送っていた。


 そんなある日、僕の留学が決まった。この大学から離れることに、未練があるわけではなかったのだけれど、僕は、せめて悦ちゃんには祝ってほしいなと思って、


「留学決まった」


 と、悦ちゃんにメッセージを送った。二十分ほどして、携帯が震えた。開くと、悦ちゃんからのメッセージが届いていた。


「涼くん、留学決定おめでとう。最近あまりご飯一緒に食べれていなくて、ごめんね。私は、うつ病になってしまいました。これから、ちょっとずつ、薬を飲みながら治していきます。また一緒にごはん食べようね」


 との返事だった。「うつ病」という文字に、僕は目を疑った。


 そして、今日が、その、久々に昼を食べる日だったのだ。




「そういえば、夏休み、中国に行ってきたんだっけ?」


 悦ちゃんが、おにぎりを食べ終えて、頬杖を聞きながら、そう問うた。僕は、何事もなかったかのように、


「あぁ。そうそう。写真見る?」


 と言って、スマホ机の上に出して、三回ほど画面をタッチする。悦ちゃんは、目を見開くと、興味深そうに、白くて細い指を、薄っぺらい板の上でスーッとスライドさせていく。と、悦ちゃんは、ぴくり、と指を止め、トン、と画面をたたいて、


「へぇー。綺麗。これはなに?」


 と聞いてきた。


「これは、西安鐘楼。ライトアップされてて、綺麗だった」


「綺麗。これは?」


 悦ちゃんはそう言って、画面を右に動かした。僕は、画面をのぞき込んで、オレンジ色の丸い食べ物を目に映す。


「あぁ、なんかねー、果物の柿を揚げたもの」


「柿? へぇー。おいしいの?」


「おいしかったよ」


「ふぅん。お、これは、兵馬俑?」


「そう。もともとは、ザクロ畑でしかなかったらしいんだけど、井戸を掘ろうしたおじいさんが、偶然、見ツケータ、っていうものなんだって」


「え、何? 今の、見ツケータって」


「そういうガイドさんだったの」


 僕がそう言うと、悦ちゃんは、くすくす、と笑った。


「涼くん、ガイドさんのことからかっちゃって、悪い奴だねー」


 僕もふわりと笑った――とりあえず、自然に笑顔になれて良かった。


「ありがとう」


 そう言って、悦ちゃんは両手で、僕のスマホを机の上で、スライドさせた。僕は、からあげを頬張りながら、会釈する。


 悦ちゃんは、顔の前に来ていた髪を、そっと耳にかけた。手を机の上に乗せ、少し目をそらす。二時間目の授業が終わって、多くの学生たちが券売機に並んでざわざわとする中、僕と悦ちゃんだけが静かだった。


「もともと、こないだの水曜日、食べる予定だったでしょ?」


 彼女は僕の方を見て、静かにさくらんぼ色の唇を動かし始めた。僕は、うん、とうなずく。


「久しぶりで、うれしくて……涼くんが誕生日にくれた、イヤリングを付けていこうと思っていたの」


 そこまで言ったところで、悦ちゃんの唇が震えた。僕は、悦ちゃんの目を見た。白目と黒目のコントラストがささやかに閉じ込められた瞼の中に、透明な液体がじわじわと生み出されてきていた。


「でもね……涼くんのイヤリング片方、なくしちゃったの。すぐに気が付いたんだけど、探しても無くて……ごめんね。そのとき、薬も家に置いてきちゃってね、パニックになっちゃってね……保健センターに行くしかなくて、食べれなかったの……ごめんね」


 彼女は、言いながら、右手で交互に目から零れ落ちてくる雫を拭っていった。


 僕は、もぐもぐと、からあげを咀嚼しながら、うん、うん、とうなずいていた。しばらくのこと、何も言えなかった。その代わり、彼女がイヤリングがないことに気づいたときに、どんな景色を見たのだろうかとか、世界がどんな風に見えていたのだろうかとかを想像した。


胸が苦しくなった。


僕の口の中に塩味が満ちてきた。僕は鼻をすすった。もぐもぐと咀嚼をしながら、ぽろり、と涙をこぼしてしまった。


「ごめんね、涼ちゃん……」


 悦ちゃんは、そう言って泣いていた。


 別に、失くしてしまったことに関して、僕は何も怒ることはない。仕方のないことだと思う。けれど、彼女がもし、僕が悦ちゃんを思うのと同じくらいに僕のことを大切に思っていてくれていたなら――そう考えると、そのイヤリングをなくした悲しみというのは、きっと、ものすごい喪失感なのだろう。ペアのものが別々になるということは、まるで、僕らも――


「――大丈夫だよ……また、学生課とかに届いていないか、見に行こう」


 僕は、袖で涙を一気にふき取ると、頬骨を上げて、そう言った。悦ちゃんは、うん、うん……と頷きながら、


「ごめんね……本当は、探そうと思えば、探せたと思うの。でも、探すほどのエネルギーもなくてね……なんだか気力が起きなくてね、それもつらくて」


 と言って、目を拭った。僕は、その言葉を聞いて、またポロリと涙をこぼした。いつもは飲むようにご飯を食べるのに、いつもの三倍くらい咀嚼したからあげをごっくんと、やっとのことで飲み込んだ。


 なんと声を掛ければいいのか、いろんな言葉を脳内に浮かべては消し、浮かべては消しした。怒りはゼロだが、だからといって受け入れすぎるのも、悦ちゃんにとっては切なく寂しいのではないかと。


 にぎやかな食堂の中、二人で向き合って泣き合っているのは僕らだけだった。


 遠くの方で、不思議そうな顔をして僕らを見ている人が居るのも感じていた。


 僕は、また袖で涙を拭うと、ゆっくり食べていた学食をそそくさとかきこんでいった。


「ごちそうさま」


 僕は手を合わせて、空になった食器たちに会釈をすると、彼女に向き直って、


「今日は、ありがとう。また食べられるときは、一緒に食べよう。また、誘っていいかな」


 僕が淡々とそう言うと、彼女は、目を赤くしながら、うん、と頷いた。


「ありがとう」


 僕が返却所に食器を片付けて机に戻ると、彼女が再び、紺色のコートに身を包んでいた。


「あの黄色いコートはどうしたの」


 僕は、何でもない風を装いながら、カーキのブルゾンを羽織る。


「家にあるよ」


「そう。着ないの?」


「今はね」


 そんなやりとりをして僕らは食堂を出た。真っ赤に染まった紅葉と青い空がきれいで、空気が澄んでいた。風は冷たいが、十二月の昼の日差しは少し暖かかった。


「いい天気だね」


「うん」


「三限はどこ?」


「六階」


 その程度のやりとりをして、僕と彼女は別れた。




 あれから、僕は、悦ちゃんに「昼食べれる?」というメッセージを毎週金曜日に送り続けた。結局、そのあと悦ちゃんと一緒に食べることはできなかった。


 たまたま、奨学金のことで質問があって、学生課を訪れた際に、落し物コーナーで、イヤリングなどの小物の詰まった箱の中を見て、僕があげた彼女のイヤリングを探した。箱の中には、それぞれのイヤリングやピアスや指輪がくっつきあい、鎖となりそうなほど、落し物のアクセサリーが詰まっていた。


――これらのアクセサリーに、人は、どの程度の思い入れがあったのだろう。僕と悦ちゃんほどにこれらを大切にしていた人はいたのだろうか。持ち主は、失くしたときに、真っ先に何を思ったのだろう……


 しばらくその箱を探っていたが、僕が彼女にあげたイヤリングは見つからなかった。


 僕と彼女は、一対のイヤリングだったのかもしれない。このまま、離れ離れになってしまうのだろうか――


 けれど、イヤリングのペアが、たった一つしかないのと同じように、僕にとってのもう一つのイヤリングは、悦ちゃんしかいないと思っていた。


その後僕は留学に行って、世界からやってきた魅力的な女の子たちとたくさん出会った。一部の子たちが、僕に好意を抱いてくれていることは感じていた。だけど、僕にとって、悦ちゃんほど大切に思える女の子なんて、誰もいなかった。




 留学から帰ってきて、僕は学内でたまたま悦ちゃんに会えたりしないだろうかと、いつもきょろきょろしながら歩いている。だけど、悦ちゃんは見当たらなかった。


 あるとき、目の前を、僕が悦ちゃんにあげたのと同じ星のイヤリングを片耳につけ、もう片方の耳に月のイヤリングを付けた女の子が通りすぎていった。


 それを見たとき――僕の中にあった何かが、ぷつり、と切れてしまった。


 ――僕には彼女しかいないと思っていた、だけど……


 僕はため息を吐いて、授業の席に着いた。前の席に座った子が、耳に大振りの真珠のピアスをつけていた。


 ――悦ちゃんも、ピアス穴をあけていたら。僕があげたものも、ピアスだったら、悦ちゃんも、失くしたりしなかっただろうに……


 僕はそんなどうでもいいことを考えた。


だが、そこまで考えて、いや、と首を振った。


 僕は、悦ちゃんの純粋さが好きだったんだ。


いつか、彼女が透明な樹脂で出来たイヤリングをしていたとき、


「え、ピアス穴あけたの?」


と聞いたことがあった。悦ちゃんは、目をまん丸くして僕の目を見た。


「えぇ? あ、これ? よく見て、イヤリングだから。そんな、私がピアス穴なんかあけるわけないでしょ。体に穴あけたくないじゃん」


 そう言う悦ちゃんは、まるでピアス穴をスティグマか何かのように感じているかのようだった。


 ――けれど、僕が、僕と悦ちゃんに重ねていたあの星のイヤリングは、僕が見た一つの幻覚でしかなかったみたいだ。さようなら。悦ちゃん。


 僕は、心の中でそう呟いて、無表情に、教授がパワーポイントで赤く示した部分に赤い下線を引いた。途中でインクが出なくなってしまった。


 赤い糸も、運命の人も、すべては幻覚で、はかないものなのかもしれない。


 ――それでも、友情だけは、星の輝きのように、永遠であってほしい。


 僕はそう願いを込めて赤いインクが再び出るように、一筆書きの星を、何回も何回も描いた。


「涼くん」


 ふと、そのとき、後ろから僕を呼ぶ声が聞こえた。僕は振り返る。


そこには、星のイヤリングを、ネックレスのモチーフにした悦ちゃんが居た。


「おかえり」


「……ただいま」


 僕は、授業中のことも忘れて、悦ちゃんの顔をじっと見つめた。前にはなかった、ピンクのアイシャドウが、目じりに光っていた。


「え? どういうこと……? これまで、どうしていたの?」


 僕は、五回目の授業になって突如現れた悦ちゃんに見入った。これも、幻覚なんだろうか?


「実は、涼くんが留学に行っているのと同時期に、休学していたの。最近になって、ようやくちょっと良くなってきたから、ちょくちょく学校にも来るようにしたの」


 悦ちゃんのその言葉を聞いて、僕はほっとした。


 そして、悦ちゃんの首元の星に見惚れながら、


「ネックレスにしたんだ、それ」


 と聞くと、


「そう」


 と返ってきた。


「いいね――良かった」


ふと手元を見ると、再びペンから赤いインクがルーズリーフの上にほとばしっていた。


 ――まだ、終わりじゃなかった。


 それを見て、僕はふわりとほほ笑んだ。


(完)

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