第5話

 少女は、屋上へ向かっていた。結んだ黒髪をほどいて、髪をなびかせ、制服のスカートを翻し、階段を上る。上へ、上へ。鞄にしずめた、結局渡せなかった手紙と写真のことも、忘れよう、と。上へ、上へ。空にすこしでも近づくように。空に溶けてしまえるように。夏の、青空へと、階段を上っていた。



 あの日の青空を、僕ははっきりと覚えている。凛としていて、すこし遠くに入道雲が見えて。真上では、飛行機が雲で線を引いていた。飛行機は、まっすぐに、どこかへ向かっていった。その空を、彼女みたいだ、と思ったことを、今でも鮮明に思い出す。彼女にぴったりの、夏の空。そんな夏の日に、彼女は翔んだのだ。


 その日の夜は、激しく雨が降っていた。彼女が翔んだところを、僕は直接見ていない。僕が見たのは、箱の中の彼女だけだ。彼女が選んだ方法にしては、彼女はきれいだったらしい。きちんと葬儀が行われて、僕のクラスは担任に率いられた。焼香をあげて、彼女の両親に挨拶をした。彼らがどんな表情をしていたかは、うまく思い出せないけれど、ただ、彼女は母親似だったんだ、と思ったことは覚えている。特に目元のあたりがそっくりだった。でも僕がいちばん印象に残っていたのは、彼女の、海みたいな、笑顔。その葬儀で、花を入れる時、僕は彼女の手にそっと触れた。冷たかった。僕が今まで触れたものの中で、いちばん、冷たかった。


 僕はその時、泣くことはなかった。心のどこかで、これは夢なんじゃないかと思っていたからだ。夢にしては縁起がわるすぎる、そうだ、目が覚めたら彼女にこのことを話題にして話しかけようか、詳細は言わずに、君が夢に出てきたんだ、とだけ言って。いや、やっぱりすこし気持ちわるいだろうか、なんて考えていた。はやく、はやく目が覚めてほしくて、たまらなかった。でも、夢ではなかった。


 彼女がもうこの世にはいないということを受け入れたのは、彼女が翔んだ何ヶ月かあと、たしか、もう吐息が白くなってしまったころだった。彼女の家に線香をあげにいった。そこでは、写真の中の彼女が、海みたいに笑っていた。それを見て、はじめて、僕は彼女にはもう会えない、本当に遠くへ行ってしまったんだと、理解した。そして、なんとか彼女の両親に挨拶をして、彼女の家を出て、土手へ向かった。そこで、ずっと、泣いた。


 あれから、何回季節は巡っただろうか。僕はなんとか現役で隣県の大学へ合格し、地元を出た。そこではいろんな人に出会って、大切な人もできた。無事に教員免許をとって、地元へ戻ってきた。僕は、あれから、彼女のいない毎日を生きてきた。でも、珍しく雪の降った時には、彼女にも見せたかったと思ったり、手持ち花火をすると、ポッキーみたい、なんて言った彼女を思い出した。晴れた夏の日にはもちろん彼女のことを想った。そういう時はすこしだけ、泣いたりもした。真夜中に自転車を転がすこともあった。でも決まって、彼女は僕の中以外にはいなかった。そのことがすこしずつ僕に染み込んできて、次第に彼女を想っても泣かなくなった。泣かなくなっても、僕は彼女のことを、忘れなかった。きっと、これからも、僕は何度の季節を過ごしても、あの夏の日だけは忘れない。彼女を想う。今年も、ああ、日射しが強まって-。


 もうすぐ、夏が来る。


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