それは恋と言うにはあまりにも歪な・後編
「……にしても、なかなか皮肉が効いていていいですね。終末展示の副題が《
悪魔はシスターが汗だくだくで戦っている間、呑気に絵画の鑑賞を楽しんでいた。そのうちティーポットとカップを出して、アフタヌーンティーを始めそうな勢いだ。
「おやおや、これは《ヨハネの黙示録》に登場する神の使い四騎士じゃないですか。おっとこちらは北欧神話の
他にも《バベルの塔》、《ソドムとゴモラの崩壊》などの奇抜で幻想的な建造物や残骸など、破滅する絵画が出迎える。悪魔は嬉々として眺めているが、ここに来たかった張本人であるシスターは、絵を楽しんでいるような雰囲気ではなかった。
むしろゾンビの制圧でそれどころではないだろう。だが、一番奥へ向かう手前の角で彼女は足を止めた。
「…………」
「おや、どうしたのです? 疲れたのですか。早く目玉である《反逆天使の堕落》を見に行きましょうよ。それともそこのミカエルの絵画に
「賭けは私の勝ち」
「はい?」
「私の目的地は、この絵画だったの」
涙ぐむ声に悪魔はシスターが見ている絵画へと視線を移す。感動するような、心震える作品などあっただろうか。
ふと一枚の絵に引き込まれる。
「これは……十四世紀、いえ十五世紀から突如美術界に名を馳せたルーカスの作品ですね」
十五世紀ヨーロッパの各地で同じ名の作家が出現した。その技巧や人を魅了する絵画は示し合わせたように《ある題材》に沿って進む物語となる。描かれた物語は少女の一生を描いたとされており、その数は、全部で三十五作品。幻想的かつ、官能的な作品は人を魅了し、のちの十九世紀に《
この絵には十四世紀のヨーロッパで起こった
しかし、この作品は凄惨さや残酷さなどは無かった。水中の中で溺れ死ぬ美女と、水面で骸骨たちが書類を手に会議をしている構図だった。水面で溺れ死ぬ美女は水面に手を伸ばし、水底に落ちまいと抗っているものの、彼女の影が足枷となって底に引きずろうとしている。
美女の傍には百合とアイリス、薔薇、月桂樹が浮かんでおり、逆に水面に植物はなく全てが枯れ果て、人の形を模した
この絵のタイトルは《死と女》。
「確かに目を引きますが、これにどのような思い入れが?」
「この絵は曽祖父が所有していた絵画なのよ」
「はぁ」
「以上」
「はああ?」と悪魔は声を上げた。納得できない。できる筈もなかった。たったそれだけの理由で、ここまで死に物狂いで来たというのだから、悪魔としては拍子抜けである。
「それ以上でも、それ以下でもないのよ」
シスターが絵画の額縁に手を伸ばした刹那、銃声音が響いた。
鮮血が悪魔の頬に付着する。
撃たれたのはシスターで腹部と、肩に被弾。撃った犯人は警備服を着たゾンビだった。引き金を引いても弾が入っていないようで、カチカチという音が美術館によく響いた。今の音を聞いて、さらにゾンビたちが集まってくる。
この結あっけない幕切れに一番驚いたのは悪魔だ。
「え、な……は? なに被弾しているんですか!?」
赤い絨毯に倒れるシスターに悪魔は憤慨した。
「そのぐらいの銃弾躱せるでしょう」
「アンタは、私を何だとっ……痛っ」
シスターの体から赤い血が絨毯に広がっていく。いつもなら被弾したとしても、すぐになんとかしようと動き出すのだが、今の彼女はこのまま果てるつもりなのか、動こうとしない。ぞろぞろとゾンビが迫る。
「ちょ、人間は血を流し過ぎたら死ぬんですよ!? あとゾンビが来てますって!」
「知ってるわよ……でも、力が入らないの……」
彼女は自分の死期を悟ったかのような口調で、妙に潔かった。
それが悪魔にとっては腹立たしい。こんな幕引きなど想定外だ。
それも下の下の終わり方など、許しがたい。
「……あと、目的が果たせて気が抜けたのもあるわね」
「何勝手に満足しているんですか。僕には全然話が見えないんですよ? 勝手に勝ち逃げなんてずるいじゃないですか」
悪魔は浮遊を止めて床に足を着けると、シスターを抱き起こす。せめて止血をしようとシスターの服をはぎ取る。英国紳士らしいゆったりとした言動はどこへやら、彼はテキパキと腹部と肩の傷の応急処置を行う。
その顔はいつになく真剣だったので、シスターは思わず口元を緩めた。
「悪魔が人を助けていいの?」
「賭けの対象が勝手に舞台から降りるのが腹立たしいだけです。──で、喋る余裕があるなら、あの絵をどうして目的地にしたのか話してください」
何処までもズレた所で怒る悪魔に、シスターはサファイアの瞳を揺らした。
「ふふっ。アンタって時々子供っぽいところあるわよね」
「
「あが………ひゅ……」と荒い息づかいのゾンビがもう目と鼻の先まで迫っていた。彼らの動きは鈍い。けれど人数は十人以上もいる。
どうあがいても切り抜けるのは難しい。
シスターは静かに目を閉じた。
「外野は黙ってください」
緩やかに手を伸ばすゾンビたちを屠ったのは悪魔だった。
轟々と緋色の炎が彼らを灰に還す。
血と肉の焼き焦げる匂いが充満した。
あまりにも刹那の出来事にシスターは驚いたが、口元が自然と緩んだ。
「なんだ、強いんじゃない……」
悪魔は珍しく怒っていた。シスターは初めて見る彼の姿に「珍しい」と思った。いつもふざけて笑う彼とは別人のよう。
冷ややかな
「──で、続きです! 死ぬならもう死ぬでもいいですけど、謎を残していくのはダメですからね」
何とも悪魔らしい。どこまでも自分勝手で──でも、どこか憎めない。
シスターは微苦笑した。
「だから、さっき話した通りよ……。たいそうな……理由なんて……」
血の気が引いて、彼女の顔色は土色に近い。
もうあと数分も持たないだろう。
悪魔は
今まで生きていたことが奇跡だったのだ。
だから全身黒い修道服を身にまとっていたのだと──知る。
悪魔は
彼は舞台を観ていたつもりで、気づいたら舞台の役者と同じ視点にいたのだ。
シスターは話をする前にあっけなく逝った。
悪魔との約束を破って。
***
悪魔へ
「親愛なる~」なんて付けないわよ。
別に親しくないもの。
これを読んでいる時、私は生きていないでしょうね。
でも、アンタがいつも目的について訊くから……一応手紙に残しておくわ。一応よ。
私の目的は《死と女》。ルーカスという作者の絵画を一目見るためよ。
どう驚いた?
たったそれだけの為に旅をしている。別に救いを求めてとか、そんなんじゃないわ。あの絵は曽祖父が所有していたもので、ある時お金に困って手放したそうよ。それから曽祖父、祖父、私の父はこの絵の出所を探していた。表に出ないでずっとブラックマーケットで売り飛ばされてたらしくて……。
東の国のある美術館にあると分かったのは偶々だった。任務の途中、ネット回線が生きていたパソコンで調べていたら、この美術展のページを見つけたのよ。すごいでしょ?
ただ生き残るためだけに戦っていた私は、生き甲斐がどんどんあやふやになって来た。だから実物を見ようと思い立ったの。
曽祖父や祖父、そして父が見たものを私も見たい。
ただそれだけ。
その道中、
一人旅より幾分楽しかった。話し相手としてね。
それじゃあ、元気で。
***
悪魔は彼女の遺した手紙を読んで──笑った。
こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。
「時よ止まれ」と口にした博士との賭けに勝った時だろうか。
あの時と異なるのは賭けに負けた事と、視界が歪んで見える事だった。
いくら狂言回しとして活躍する今日であっても、こんな感情が自分の中にあったことに悪魔自身が驚いていた。
「ああ。……なるほど。ようやく僕にもこの言葉の意味が分かった気がします。『望んでいたものを手に入れたと思い込んでいるときほど、願望から遠く離れていることはない』ゲーテの言葉でしたか」
ただの娯楽、遊戯だった筈なのに。
この胸の苦しみを愉悦と片付けられるというのに──悪魔は噛み締めていた。
「ああ、様々な感情が溢れ出てくる。……人間は《この感情》になんと命名していたでしょうね」
***
天使と悪魔の戦争が激化し、それは人間をも巻き込み地上を煉獄へと導いた。どちらも人間が引き金であり、人間がより状況を悪化。
それゆえに人は罪を犯すとその肉が腐り落ち、身も心も腐敗した存在──
有象無象。制限なく溢れるのはそれほど人間が罪深い存在なのだろう。それを狩るのが──
「……って、それよりシスター」
「なによ、悪魔」
ゾンビを容赦なく制圧するシスターは、
「ここから一駅先に
「あー、じゃあ一人で行って来たら」
取りつく島もない。
即答され、悪魔は仰々しく項垂れる。
「いいじゃないですか~。クレープぐらい一緒に食べてくれたって」
「なんで悪魔と呑気にクレープ食べないといけないのよ。あと、たぶんアンタはクレープって、お皿で出てくると思っているでしょう?」
「ええ!? 違うのですか?」
「違うわよ。この国では巻いてあって、片手で食べるらしいわ」
「じゃあ、なおさら食べに行かなくては。これでも
どこからかナプキンを取り出す。そのうちフォークとナイフも取り出しそうな勢いだった。
「……なんで今日は一人称が『私』なのよ?」
「ん~、時間を巻き戻したことによる変化? いや気分?」
「意味不明ね。まあいいわ。勝手に一人で行ってらっしゃい」
「え、ちょ──あ。
「!?」
悪魔らしい囁きに、シスターの顔色が変わった。
眉を吊り上げて、睨みつける。
「……なんでアンタがそれを知っているのよ?」
「悪魔ですから」
「そう」
「ちなみに、絵画の場所を移したのも私です」
「は?」
けらけらと笑う悪魔に、シスターは銃へと手を伸ばす。
「ヒント、あげても良いですけど……」
悪魔が何を言わんとしているのか、シスターはなんとなく察した。いや、だから最初にクレープが食べたいと言い出したのだろう。
「……はあ。わかったわよ。クレープを食べに行けばいいんでしょう!」
「そうです。その通り」
悪魔はどこかホッとしたように笑った。
「ああ、それからちゃんと体を休めてくださいね。人間は壊れやすいですから」
「…………」
「シスターは手当てが苦手ですし、応急処置も雑でしたから、昨日のうちに怪我を全て完治させておきました☆」
「…………」
黙ったままのシスターの顔を悪魔は覗き込んだ。
それを見越して彼女は思い切り悪魔に頭突きを食らわす。
ゴッ、と。物凄い音がした。
「……痛っ」
「………」
双方ともに声にならないほど痛かったようで、しばらくその場に座り込んだ。
「シスターどうしたんです?」
「今日はアンタが妙に気持ち悪いことを言うから、夢じゃないかって」
「酷い」
「今度は何を企んでいるのよ?」
悪魔は額をさすりながら、口元を緩めた。
「大したことじゃありません」
悪魔は胸を突き刺すような痛みに──いつもの作り笑顔が崩れた。金髪の美女は怪訝そうに眉を吊り上げる。
「じゃあ、なに?」
今も彼女が目の前にいる。たったそれだけのことなのに、悪魔は自然と口元が緩んだ。
「……ただ、もう少しだけ貴女と一緒に旅がしたいだけです」
あと何度、過去を繰り返すことが出来るか。たとえ何度繰り返しても彼女の答えも、結末も変わらないのかもしれない。
されど一分、一秒でも彼女と他愛のないひと時を過ごしたい。
「あー、もう! しょうがないわね。付いて来るなら勝手にしなさい」
心底嫌そうな顔をしつつも、次の瞬間シスターは眉を八の字にして困った顔で笑ったのだ。何度か見たことがある笑顔なはずなのに、悪魔は胸がギュッと締め付けられる感覚に襲われた。
シスターが死んで時を巻き戻してから可笑しい。そう悪魔は今までなかった想いが溢れるのを止められなかった。温かく、心地よいもの。
パキン、と鉱物に皹が入るような音がした。
ふと悪魔は音のした方へと視線を向ける。左の小指に亀裂が入ったのだ。そしてその場所から風化するように、体が少しずつ崩れていく。
悪魔は目を細め、崩れていく指先をシスターに見えないように隠した。
「ああ……。壊れてしまうのは私が先か、貴女が先か」
「何か言った?」
「いいえ。何でもありません。それより絵画の場所ですが……」
「そうよ。早く場所を教えなさい」
「愛していると言ってくださったら、教えて差し上げましょう」
「え。嫌」
「酷い。……本当に酷い人です。でも、そんな所が私は──本当に、
されど歪んだ愛した悪魔は知らない あさぎかな@電子書籍/コミカライズ決定 @honran05
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