夕秋の火
栖周
夕秋の火
『夕秋の火』
アタシが
由宇斗は半袖にジャージという体操着姿で、一生懸命走っていた。汗がだらだらと首筋を伝う。顔に張り付いた髪。他にも沢山のジャージ姿が彼と一緒に走っている。
その中で不意に由宇斗が転んだ。後で聞いたところによると、アタシに目が行ってよろけたのだそうだ。アタシの所為にされても困るが、頬を緩めて話す由宇斗の顔に、アタシを責めている色は無い。
転んだ後、慌てて立ち上がると、走るのをそっちのけでアタシの方へ近付いてきた。
――何してるんだ?
確か由宇斗が最初にアタシにくれた言葉はそれだ。急に側に来られて焦ったアタシは、言葉も無く行き過ぎようとした。
――待ってよ。
そう言って由宇斗はアタシの前に回りこんできた。鬱陶しいな、という気持ちが顔から出たのか、由宇斗は酷く困った顔をしていたっけ。遠くから由宇斗を呼ぶ声。
――こら、高野! 何をしちょるか! 早よ走れ!
――うは、ごめん、授業中なんだ。また後で来るからさ、ここにいてくれよ!
アタシに手を振ると、由宇斗は遅れを取り戻すように高校の校庭へ駆けていった。
勿論アタシはそこで待つようなことは無く――コレも後で聞いたのだが、酷くがっかりしたそうだ。
次に由宇斗と会ったのは、高校近くのコンビニの前だった。アタシと目が合うと、十メートルほど全力疾走気味に近付いてきた。またまた勢いに驚いたアタシは、とっさに振り向き駆け出す。
――あ、おいっ、待ってって~!
今一歩の所で信号が赤に。交差点の手前で由宇斗に捉まった。
――あ……ぶないなぁ。轢かれっちまうぞ?
そこまで馬鹿では無いつもりだが、確かに我を忘れて車道に飛び出す所だった。この点は感謝すべきだね。でも殆ど知らない人に、いきなり追いかけられたら、誰だって逃げるでしょう。アタシだってあそこまで由宇斗が早くなければ――逃げなかったよ。多分。
その後、色んな話を聞かせてくれた。学校の事。友人の事。声が裏返る先生や、小鳥の囀りの様に声の小さい先生。陸上部に入っていて、短距離走が得意らしい。
およそどうだって良い様な話ばかり、ニコニコと話し続けた。こんなに表情豊かに話す人は、これまでアタシの周りにはいなかった。こんなに――心地良い時間はなかったよ。
その次に由宇斗と会った時は、アタシの方から近付いてみた。足音を消して、そっと忍び寄る。
――おを? びっくりした~。
そう言って柔らかく笑った。思った以上に驚いてくれた。それが楽しくて。それからは後ろからこっそり近付くのが癖になった。
だけど、いつでも会えるわけではなかった。むしろ会えない日の方が多かった。由宇斗が校庭を走る姿をこっそり覗いてみた事がある。
――何だお前は?
アゴヒゲのオジサンに見つかり、慌てて逃げた。その顔が余りに怖くて、それ以降近付かないようにした。
季節が流れ、やがて冬になる。白いものがちらつきだし、アタシの体温をゆっくり奪っていく。家を追い出されたアタシには行き場が無かった。
またコンビニの前で雪を避けていたら雄図が通りかかった。
――あれ、こんな所で何してるんだ?
また同じ言葉をくれる。思わず由宇斗に擦り寄って顔を寄せた。由宇斗の手の暖かさに、目頭が熱くなる。
かといって由宇斗の世話になるわけにはいかない。ほんの少し、少しだけ由宇斗と見つめ合い――アタシはその場を去った。
寒さをしのぐ場所なんて、探せば色々見つかる。時には由宇斗のいる町から離れる事もあった。そんな時でも、由宇斗の事を思い出せば寂しくなんて無かった。由宇斗の他に、アタシに話しかけてくれる様な人はいなかったもの。
気が付けば年が明けてから三ヶ月以上経つ。
今年は冬が長いらしく、未だ雪は消えない。アタシの歩いた後に点々と穴が穿たれている。積もったばかりの柔雪だ。こんな綺麗な純白の上を思いっきり走ったら楽しいだろうか――アタシらしくも無く、ふと由宇斗の走る姿を思い出して、そんな事を想像した。
雪がとけ、短い春が訪れた。直ぐに梅雨が始まり、やがて初夏の日差しへと変わっていく。
再び秋が巡ってくる。久しぶりに帰って来た由宇斗の町では、新しい道や建物が増えつつあった。僅か半年ちょっと離れただけで、知らない町かと錯覚する。
それでも見慣れた土手に出ると、由宇斗と初めて出会った河川敷に続く道へたどり着いた。懐かしい草の香りに、由宇斗の声が甦る。
以前、よく由宇斗と会ったコンビニの前を通りかかる。店内に由宇斗の姿は無い。ここから逃げて……あぁ、あそこの交差点で捉まったんだっけ。目をやると、由宇斗の後姿が、そこにあった。見知らぬ女性と並んで信号待ちしている。
近付いて良いものか、一瞬迷う。アタシの姿はホコリと泥でボロボロだったからね。このまま由宇斗とは会わずに立ち去ろう――そう思って、引き返そうとして、アタシはソレに気が付いた。
遠く、フラフラと蛇行する自動車。運転席では苦しそうに俯いている男性。前など見ていない。スピードはさほどではないが、明らかに――由宇斗のいる交差点へ向かいつつある。
アタシは走った。後ろも見ずに飛び出した。由宇斗が危ない。それだけが頭の中を駆け巡る。――待って! あそこにいるのは由宇斗なの! アタシに話しかけてくれた由宇斗のなの! 無我夢中で駆けた。そして――今まで出した事の無い程の絶叫。自分の喉が壊れたのかと思った。こんなに大きな声が出るなら、もっと由宇斗に聞かせてあげたかった。もっとも、甲高くて醜い声だったけど。それでも、アタシは一言ありがとう、って伝えたかった。由宇斗の手は温かかったよ、由宇斗の笑顔ほど綺麗なものは見たことなかった。本当に……本当にありがとう――そこまで考えてアタシの思考は止まった。遠くからキキキィという派手な摩擦音と由宇斗の声が聞こえた気がしたけど――それも気のせいかもね。
※
「……ぉぃ! おいっ! なぁしっかりしろよぉ!」
高野由宇斗は、ボロ雑巾のようになった、一匹の黒猫を抱き上げていた。黒猫は急に後ろから由宇斗の首に爪を立て――由宇斗が振り払った所へ車が突っ込んできたのだ。もしそのまま立っていたら、気付かないで後ろから轢かれただろう。辛うじて隣に立っていた友人の笹川摩紀を引っ張って、逃れる事が出来た。
由宇斗は黒猫に見覚えがあった。丁度一年程前。体育の授業中、黒猫に気をとられて転んだ。瞳の奥まで真っ黒なその姿を、美しいと思った。最初は馴れてくれなかったが、次第に近付いてくれた。冬に入ると姿を見かけなくなって心配していたのだが――こんな再会を果たすとは夢にも思っていなかった。黒猫を抱き上げた由宇斗は泣き続けた。無性に悲しかった。少しずつ冷えていく身体が、とても愛しかった。
頬を伝う涙が黒猫を濡らす。
――ありがとう。
そう、聞こえた気がして。
由宇斗もそっと、顔を近づけ。
「……ありがとう」
静かに呟く。黒猫は――微かに微笑んだ気がした。
夕秋の火 栖周 @sumiamane
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