時の女神よ

@koemushi

時の女神よ

吐き出した息が白く染まり、一瞬で闇に消える。今日の昼は今年初めての雪が降った。肌寒かった先週に比べ、今日は肌を刺すような寒さだ。

ベランダから見上げる星空は、まるで宝石があちらこちらに散りばめられたかのようだった。六階建てのマンションの三階から見るこの景色を、私も美由紀も気に入っていた。

スーツのポケットに入れてある携帯電話が鳴る。教頭の佐々木からだった。明日の授業の振替についての連絡であるはずだが、今は見る気になれない。昨日告別式を終えたばかりだ。教頭も許してくれるだろう。

本当はこれからのことを考えなければならないのだが、どうしても頭がついていかない。

告別式で送り出したのは、誰でもない、妻の美由紀だ。

何の前触れもなかった。結婚して二年。互いに中学校の教師をしながら、裕福とは言えないが幸せな生活を送っていた。そんな矢先、美由紀はくも膜下出血で倒れ、翌日に呆気なく逝った。

誰がこのようなことを予想出来ただろうか。時だけがいつも通り過ぎてゆく。取り残された私は、未だに美由紀の死を受け入れられず、涙ひとつ流せずにいた。

再び携帯が鳴る。今度は同期の榊原からだった。

「はい。」

「大丈夫か?すまん、こんな時に。」

「いや、大丈夫だ。何かあったのか?」

「ああ、明日の授業のことなんだが、教頭が聞きたいことがあるらしくて…。」「すまん、明日も行けそうにない。」

「…分かった。教頭に伝えておく。」

「いや、大丈夫だ。俺から連絡する。」

榊原との会話を終え、再び星空を眺める。闇に散らばる無数の光が、私を見下ろしている。よく美由紀と二人でベランダから星を眺めたものだ。 美由紀がいなくなった今、それももう出来ない。

美由紀は気丈で、負けず嫌いで、歌が好きだった。国語の教師ではあったが、学芸会の合唱には力を入れていた。去年のクラスで金賞を取れなかった雪辱を、今年のクラスで晴らすつもりらしかった。

「あなたももっと本気になりなさいよ。」

「俺は歌もピアノ分からん。」

「音楽は心なのよ、こ・こ・ろ。」

私のクラスでは、ピアノが得意な女子と学級委員に任せ切っていた。そのことを、美由紀は気に入らなかったらしい。

「まずクラスで歌う曲のこと分かってるの?」

「なんて曲名だったかな…。」

「それも分からないの…。呆れた。」

「いいんだよ。それで。」

「まあ私のクラスを見てなさい。今年こそ金賞とるから。」

きっと生徒の誰よりも本気で金賞を狙っていただろう。

「今年は曲も狙っていたものを取れたわ。」

「なんて曲なんだ?」

「あなたへ、っていう卒業曲。旅立つ者の背中を押す曲よ。」

美由紀のクラスは三年生だ。そういう意味ではぴったりの曲だった。一度も聞いたことのない曲だったが、美由紀が好む曲だ。きっと良い曲なのだろう。

「まず俺には、あんな大きいホールを貸し切ってやる意味が分からない。体育館でいいじゃないか。」

「馬鹿ね。響きが違うのよ。それに、あの雰囲気がいいんじゃない。」

この会話が美由紀とした最後の会話だった。そして、学芸会は今週の金曜日。つまり、明後日だ。この日はさすがに行こうと思う。

自室へ戻りベッドに横たわると、一気に疲れが体を巡った。瞼が重くなり、深い眠りに落ちていった。


玄関から出ると、刺すような寒さが全身を襲った。

結局、私は学校へ向かっていた。家にこもっていても気が沈むだけだ。それに、学校へ行けば気が紛れるかもしれない。

空気が澄みきっている。ときどきに吹く風が、顔の横を音を立てずに通り過ぎてゆく。

職員室に入り、自分の席へつくと、教頭がかけよってきた。

「今日は大丈夫なんですか?」

「はい、ご迷惑をかけて申し訳ありません。」

「授業の方は既に代理が入ってますから、今日は他の仕事をしていても大丈夫ですよ。」

「すみません、ありがとうございます。」

正直助かった。授業に関しては何一つ準備をしていなかった。

とは言っても、これといってやることがない。学校に来たはいいが、これでは何もせずに一日中職員室にいることになる。それはそれで落ち着かない。もう少し考えて来るべきだったと後悔しかけていると、ふと美由紀との会話を思いだした。一限のチャイムとともに席を立ち、美由紀が担任をしていたクラスの時間割を確認する。一限目、音楽。私は迷わず音楽室へと向う。


音楽を教えている三浦に許可をとり、授業を見学させてもらうことになった。三浦はまだ新卒一年目で、若い。どうやら、美由紀を亡くした私とどう接すれば良いか分からないらしい。

「すまんな、急に」

「いえ、大丈夫ですけど…。どうしてですか?」

「いや、少しな。構わず授業をやってくれ。」

「わ、分かりました。」

消え入るような声で返事をした三浦は、子どもたちの方に顔を向け、始業のあいさつをした。

担任の教師が突然亡くなった今、子どもたちもまともな精神状態ではない。クラス全体の雰囲気も暗い。それでも、学芸会の合唱は、美由紀のためにも止められないと、子どもたちが言い出したらしい。美由紀の熱意は彼らに伝わっていたのだ。

学芸会は明日だ。今日は練習というより、最後の調整みたいなものだと三浦は言う。

はじめて美由紀が気に入っていた曲を聴く。この曲を聴けば、美由紀と過ごした日々を思い出し、彼女のために泣くことができるのだろうか。安いドラマのような展開で構わない。私はただ、彼女のために泣きたいのだ。


結果から言えば、その曲が私を悲しみに浸らせてくれることはなかった。よく考えてみれば、彼女にとっては思い入れのある曲でも、私にとっては溢れんばかりにある合唱曲のうちの一つだ。曲自体もはじめて聴いた。決して悪い曲ではない。それでも、美由紀の死の悲しみに浸るには無理があった。 当たり前だ。人生は安いドラマのように簡単ではない。私はただ、自分のために泣きたかっただけなのかもしれない。妻を失った悲劇に酔っていただけなのかもしれない。そんな自分が、惨めだとさえ思えた。

ただ、歌詞に少しだけ気になる部分があった。

「時の女神よ教えて下さい」

時の女神なんてものがいるのならば、ぜひとも教えてほしい。なぜこんなにも早いのか。なぜ今なのか。なぜ美由紀なのか。

こんなくだらないことを考える自分に、余計に嫌気がさした。

三浦に一言礼を述べ、音楽室を後にした。いつになったら私は現実を受け入れられるのだろうか。舌打ちをし、再び職員室へ戻った。


カーテンの隙間から差し込む朝日に目が覚めても、ベッドから出れないままでいた。

果たして、今日、私が学芸会に行く意味はあるのだろうか。美由紀が好んだ曲を聴くために行くという名目も、昨日まではあった。しかし、昨日聴いた限りでは何も響くものはなかったし、それは今日も変わらないだろう。

もう私の頭の中は、美由紀の死を悲しみたいと思う他なかった。たとえ、それが私のためだとしても、形だけでいいから涙を流して、彼女の死を受け入れたかった。

それでも、やはり私は学芸会に行くべきなのだろう。彼女が見たかった景色を、聴きたかった曲を、私が代わりに心に残しておかなければならない。

ベッドから出て何も食べずに準備をする。

「行ってくるよ、美由紀。」

そう言い残し玄関の扉をあける。今日も雪だ。そういえば、彼女は雪が降るのを待ち望んでいた。美由紀は今、一体何を思うのだろうか。


ホールの中は人で満たされていた。私は誰もいない二階席で、その人だかりを見つめる。一週間前だったら、その中に私もいたはずだ。そして、美由紀も。

美由紀のクラスは全体で四番目に歌う。私のクラスはそのもっと後となる。 最初のクラスが歌い始める前、ホールの外へ出た。今日は美由紀のクラス以外の曲は聴かないことにした。少しでもはっきりと、彼女が見るはずだったものを、聴くはずだったものを記憶に残すことが出来るように。

なぜ私は、美由紀の死を受け入れることができなかったのだろうか。それだけは未だにわからなかった。実はもう、心のどこかで受け入れているのかもしれない。それでも泣けなかったのは、私がもう壊れてしまったからなのかもしれない。

「なんでだろうなあ。」

天井に向かって、子どものように呟く。美由紀だったら「知らないわよ。」の一言で返すだろう。美由紀のことだ、きっとそんなに気にしていないはずだ。

あれこれと考えてるうちに、美由紀のクラスが歌う番になった。私は肩で大きく息をして、扉を開いた。


先程とは空気が違った。

ホールの中は静寂に包まれている。これだけの人数が集まっているのに、物音ひとつしない。まるで世界から音が消えてしまったかのようだ。この異様な光景に、私は息を呑んだ。

緊張感が漂う。ゆっくりと席に座り、曲が始まるのを待った。

この景色を、雰囲気を、美由紀は感じたかったのだろうか。

指揮者の合図と共に、ピアノの音がホールに響く。少し遅れて、生徒が歌い出した。

張りつめた空気は、少しずつ和らいでいく。

ピアノの音色が、彼らの歌声が、私を周りの空間ごと包み込む。 全ての音が、全身に染み込んでくる。身体がじんわりと温まる。今まで経験したことのないような感覚に陥った。まるで、積もった雪に春の日差しが差し込んでゆくような、そんな感覚だ。今この世界にあるのは、私と、彼らの歌声だけだとさえ思えた。

曲が進むにつれ、その世界にどんどん引き込まれてゆく。私は今、曲と一体化しつつある。

本当の合唱というものに、私は今初めて出会えたのかもしれない。

「そうか…。だから美由紀は…。」

今なら彼女が言っていたことが分かる気がする。

「だからいったじゃない。」

美由紀の声が聞こえた。気がした。美由紀だったら化けてでも聴きに来るかもしれない。きっと彼女は、生徒たちが金賞をとるのを見届けにきたのだ。私はそう信じたい。それに、 久しぶりに彼女を近くに感じた。久しぶりに彼女の温もりに触れられたようにも思う。その温かさが、少しずつ私の心を溶かしてゆく。

美由紀が死んでから蓋がされていた思い出も、自然と溢れだす。初めて出会った日のこと。喧嘩して別れる寸前までいった日のこと。プロポーズした日のこと。思い出の全てが、私の中を駆け巡る。

「あなたももっと本気になりなさいよ。」

そうだな。でも、合唱がこんないいものなんて知らなかったんだ。

「音楽は心なのよ、こ・こ・ろ。」

確かにその通りだ。今、身をもって感じている。

「馬鹿ね。響きが違うのよ。それに、あの雰囲気がいいんじゃない。」

何も言い返すことはない。俺は何も分かっていなかった。

美由紀は今、確かにここにいる。でも、きっと、これが最後なのだろう。「どうして、なんで、美由紀なんだ。なんで今なんだ、なんでこんなに早いんだ。教えてくれよ…。なんで…。なんでだよ…。」

時の女神は、最後まで何も答えてはくれなかった。

「美由紀…。」

絞り出した彼女の名前は、ホール全体に響き渡る拍手によってかき消される。視界が滲んで何も見えない。

暗闇で光る雫は、夜空にまたたく星のようにも見えた。











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