第6話 世界と僕の境界線
小さな買い物袋を持って、男は歩く。ときおり空を見上げ、遠い目をする。田んぼが広がり、その向こうには山が季節を演出している。今はみずみずしい緑。田んぼの水がキラキラと眩しい。夕暮れ時にも関わらず、太陽は煌々と照っている。
男はスーパーで購入した安い弁当とビールが入ったビニール袋を、ガサガサと揺らし歩く。トンビが鳴きサワサワと風が木々を揺らす。ときおり走る車の音がとても大きく感じられる。そんな静寂を、ビニールの音で紛らわそうとしているようにも見えた。
男はまだこの町にやってきたばかりだった。スーツを着て、少しくたびれた革靴で歩く。少し先にある川のせせらぎが耳に入る。都会から転勤してこの町にやってきた男は、この田舎の風景に自分が溶け込んでいない感覚に捉われていた。
まだ田舎に馴染んでいない、というだけではない。小さなプライドがそれを拒絶している。男はそのことに気付いていた。それが自分を、世界の異分子たらしめる。
それでもこの優しい世界は、平等に人々を包み込む。例え異分子であろうとも、世界を構築する自然を相手にするとただ、飲み込まれるだけなのだ。
たたたっと足音が鳴る。軽く速いその音は、軽快な音楽のようにも聞こえた。子どもたちが男の前を横切った。
「こんにちはー!」
子どもたちのはしゃぐ声が小さくなっていく中で、男はその挨拶が自分に向けられたものだと気付いた。そしてまたひとつ、後悔をした。この町の人間は、大人も子どもも、すれ違うたびに挨拶を口にする。習慣の違い、それだけで片付けてはいけないような、もっと人間の根本の部分、そこが鈍っているのではないか。そんな不安にさせられる瞬間。だからといって、その後悔が晩ご飯を食べるときにまで後を引くわけでもなく、それだけ男はもう十分な大人なのだった。
少年は違和感を抱いていた。自分の世界は、学校と家だった。親、先生、友達、そしてたまに近所の人や親戚の人が登場するくらい。でもどうやら違うらしい。つい先日、身体の大きな中学生が体育館にやってきて、中学校生活について話していった。そこは今よりもっと広い世界。そしてさらにその先もある。高校、大学、そして大人になると僕の世界は、もう僕だけの世界ではないのかも知れない。小学校六年間だけでも遥かな道のりだった。それはどうやら、人生における始まりでしかなかったらしい。
「今日の晩ご飯はハンバーグよ」
お母さんの声は弾んでいた。ハンバーグは確かに少年の好物だった。だから喜びなさい、そう聞こえた少年は、
「いいね、すぐ食べにくるから!」
喜んではしゃぐ振りをする。
大人が望む子どもを演じる。そうしていれば、世界は平穏だ。将来何になりたい? そう聞かれれば、大学に行って大企業で働きたいと言えばいい。コンピュータ関連の企業名を言えば喜ばれる。今日はどうだった? そう聞かれれば、クラスで人気者な子の名前を挙げ、みんなでサッカーをした、虫取りをしたと言えばいい。勉強のことは、テストの点をみて勝手に理解してくれるから、余計なことは言わない方がいい。
少年はポケットからサイコロを2個取り出し、一年生の頃から使っているキャラクターものの学習机の上で、それを振った。六と三。カブ。通常役の中の最高手。今日はまあ、そんな日だった。
「今日は何する?」
友人が少年に話しかける。学校についたばかりで、もう休み時間の話。
今学校で流行っているのはサッカーだった。低学年の頃はドッヂボールに夢中になったし、ついこの間までは野球をしていた。またすぐに別の遊びが流行るだろう。カードゲームをしている奴らもいる。
「なんかもう何もしたくないんだよなぁ」
大人のようにため息をついて、少年は空を見上げた。窓に切り取られた真っ白い雲が眩しい。
何もしたくない、というよりは、何をしたらいいのか分からない、が正しい。このまま悠久の時に身を任せることへの不安、だからといって自分の足で歩き出すことなんて出来るのだろうかといった不安が、遊ぶことであやふやになってしまうのが、怖い。
また少年はサイコロをふった。四と一。シッピン。子だけが出せる特殊役。
少年は歩く。ジャリジャリと乾いた砂がスニーカーに押しつぶされる。友達は塾に行ったり、ゲームをするために誰かの家に集まっているだろう。
少年は歩く。帰り道を少し逸れ、急な勾配の坂道を歩く。少し高台にあるその公園は、町を見下ろせる。海だって見える。だからといって別に何もないけれど、何もない町が少しだけ特別に見えたりする。
犬と散歩しているお婆さんに挨拶をする。こんにちは。体操をしているお爺さんに挨拶をする。こんにちは。スーツ姿の見慣れないおじさんに挨拶をする。こんにちは。みんな、大きな世界の小さな砂のような存在だ。僕だってそう。
少し息を切らしながら、公園のベンチに腰掛けた。大きく息を吸い込み、澄んだ青空と、ゆらゆらとした海の境界線を指でなぞった。
僕は、僕たちは、確かにここに存在する。自分と他人の境界線は簡単に引ける。でも世界と僕の境界線は引けない。
先ほどすれ違ったスーツ姿の男が隣のベンチに座った。ガサガサと弁当を取り出し、何かを箸でつまみ、ひょいと口に放り込む。
僕の視線に気付いたその男は、こちらに顔を向けるでもなく、呟いた。
「まだまだ世界は広いなぁ」
長いまばたき 拝師ねる @odomebutton884
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