第5話 風呂世界

 とぼとぼと僕は歩く。真っ赤な空に目を細め、振り返る。僕の長い影がゆらりと揺れた。

 大人って、もっと自由なもんだと思っていた。車に乗ればどこでもいけるし、お給料があれば好きな物が買える。それは間違っていない。でも、僕を含めた多くの大人が、そうはできない。働き続けなきゃ生きていくことすら出来ない。当たり前だけど、子どもの頃には分からなかったことだ。自由の代償、それは責任。選ぶことの出来ない選択肢がそこにあるだけ。

 郵便受けに入っていた雑多な紙切れを手にする。今月は電気代が少し上がっていた。夏はクーラーつけちゃうしなぁ。もっと節約しなきゃ。

 浴槽に湯をため、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。一口飲むとその苦みが今日の出来事を溶かしてくれる。とはいえ、何も大層なことはない。いつもの日常。それでも、ほんの些細なことが引っかかり、それはまるで風呂の排水溝に絡まる髪の毛のように、僕の心に溜まっていく。

 冷凍の唐揚げやら白身魚やらを皿に放り込み、レンジにかける。ほの明るく回転するそれを見ながら、ぐるぐると回る自分の思考に身を委ねる。まぁ、定時に帰れるだけマシか。時計は午後6時20分を示していた。そしていつものように、思考の停滞を妥協で紛らわしかけたところで、その思考の残滓は電子音により霧散した。

 だらだらと服を脱ぎながら、ビールやら何やらを風呂に運ぶ。靴下を脱ぎ終えたところで、鞄に入れていた小説のことを思い出した。お昼休みにちまちま読んでいるその物語は、ひとつの山場を迎えていた。

 別に誰に見られるでもないそのだらしない裸体を無様に揺らし、玄関に置いた鞄のところまで戻る。紙の本を風呂場に持ち込んで大丈夫だろうか。いとも常識的な考えが浮かんだが、どうせ一度読んだら終わりだ。大切にする必要もない。少し早足に風呂場へ移動する。

 ぬるい温度の湯へ浸かる。「あー」とも「うー」とも声はでない。最初は少し熱めにしておけばよかったかと思いながら、また一口ビールを飲む。一口目で感じた苦みはもうほとんど感じず、二口、三口とただアルコールを摂取する。

 ぽわんと酔いが脳を支配し始めた。べちゃっと柔らかい唐揚げを咀嚼しながら、スマートフォンで動画を見る。

 家の風呂は先月改装したばっかりだ。1.5坪のユニットバスはほどよく広く、窮屈だとは感じない。なにより、大きな窓が気に入っており、そこからは季節を垣間見ることができる。築年数不明のその古民家は、至る所にガタがきているように見えるが、継ぎ接ぎだらけの理論で自分を守ろうとしている僕にぴったりだと感じていた。

 そして浴槽。平均的な身長の一般男性である僕は足を完全に伸ばすことは出来ないが、それでもこの体勢は楽だ。風呂のフタを半分置き、その上にビールやら何やらを置く。浴槽にもたれかかり、頭を縁にのせる。暑さを感じれば水を足せばいいし、寒さを感じるようであれば湯を足せばよい。

 僕は自分の時間の大半を、風呂で過ごす。

 こんな快適な空間はない。常々そう思う。たまに眠ってしまい寒さで目を覚ますこともあるが、温度調整に気をつければ何時間でも入っていられる。ここにいる限り、エアコンをつける必要もない。情報はスマホで収集できるし、飲み物は少々多めに運んである。手が汚れればすぐさま洗うことができるし衛生面もばっちりだ。そうそう、カラオケの練習なんかも出来るな。これも田舎の一軒家に一人暮らししている恩恵のひとつ。

 ニュースをみて、ツイッターをみて、お笑い動画をみる。飽きてきたら小説を読む。BGMは小洒落たカフェミュージック。風呂カフェなんてあれば絶対流行るだろうなと思いながら、3本目のビールを空けた。熱めの湯を入れる。

 もわもわと湯気が外界に流れていく。この快適な僕だけの空間も、あの粗悪な世界と繋がっている。こんな世界を創った神様に感謝なんかしたくないけれど、だからこそこちら側の、僕の風呂世界が存在できるのであろう。風呂世界よ永遠なれ。


 そうして僕は年をとった。サラリーマンをやめ、今では小説を書いている。小説家の仕事も楽ではないけれど、いつでもここに居ることができる。

 今日も防水のタブレットとブルートゥースキーボードを持ち込み、一日中風呂に入りながら文字を紡いでいた。

 窓の外は真っ白だ。いつからか、外の世界はなくなってしまったのだろうか。そうなると、僕の世界が存在する意味はもうない。

 なんのために書くか。なんのために存在するか。なんのために死ぬか。それらに答えはあるはずもない。世界が在ろうと無かろうと、同様に生きるのであれば、必要なのは答えではなくそこに僕が居るという、ただ一つの真実のみである。

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