第4話 マラソン

 目の前がかすんできた。右膝は痛みを通り越し、何も感じなくなっている。

 冷たい空気を火照った体に流し込み、けれども足は惰性で動き続ける。

 何度目のランナーズハイだろうか。痛みや苦しみを感じずに数キロ走り、次の数キロはその反動か、倍の苦しみがやってくる。

 町中を駆け抜け、倉庫街を走り、海に出た。潮風が汗に濡れたシャツと、肌の間を吹き抜ける。海はざわざわと波立ち、空は少し白んでいる。遠くに雄大な山々が見える。てっぺんは真っ白だ。

 その白さに飲まれるように、僕の目の前も白くなってきている。ふるふると頭を振り、意識をしっかりと保とうと活を入れる。

 一度立ち止まろうか。景色もスマホに撮りたいし、さっきから靴紐が緩んでいる気もする。走る速度が遅くなる。

 ふらふらとまっすぐ走れない。当たり前だ。こうやって自分の足で走るのは何年ぶりだろう。いきなりのフルマラソンはやはり無謀だった。自分を変えたい、特に転機があったわけでも、大きな失敗をしたわけでもない僕は、ふとそう思いたち、近場の大会にエントリーしたのだった。

 なんで僕は身体を動かすことを怠ってきたのだろう。なんで僕はマラソンなんか走ろうと思ってしまったのだろう。なんで僕は……。マイナスの感情が足にからまり、僕は動けなくなってしまった。

 思い出したように膝は痛覚を取り戻し、根を張ったかのように動けない。小さな一歩がとても重い。その一歩すら、もう歩けない。

 落ちる汗を、アスファルトに散らばる砂が吸収していく様子を僕は見ていた。

 ふんわりと優しい空気が僕の髪を撫でた。ポニーテールの女の子が一瞬振り返り、そして駆けていく。もう一度力強い山々が目に入る。

 僕の心に小さな風が吹いた。僕は前を向いていた。背中を押された気がした。自然と足が前に出る。ゆっくりと時間は動き出した。遠くでカモメが小さく鳴いた。

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